午前3時、愛用のMacの画面が時間を告げる。
無機質な白一色で整えられた製図室には、私と、同級生の加藤しかいない。
といっても彼は寝袋にくるまっていびきをかいている。
エスキス提出の前夜なのに、煮詰まっているのは私だけ。
他の仲間は早々に切り上げて散っていった。
孤独に耐え切れずTwitterのTLを眺めてみても、さすがにこの時間じゃTLの動きは鈍い。
何かの拍子にフォローしてしまった、いつ仕事をしているか全くわからないキ○ガイみたいな人のつぶやきでTLが延々と埋まっていく。
instagramで友人がアップする写真も、今の私には眩しすぎる。
はぁ、っと深いため息をつく。
このタイミングで、前回のエスキスで非常勤講師に言われた一言がフラッシュバックする。
「なんか方向性が根本的にズレてない?」
はあぁぁぁ。どうせいっちゅーねん!
建築学科って模型とか作ってもっと楽しいイメージがあったけど、今はひたすらもがいている。
着地点が見当たらないもどかしさ。
評価されることへの恐怖。
若さをひたすら消費していくんじゃないかっていう焦燥感。
気づけば10代ももうすぐ終わりを迎える。
思えば高校の同級生たちのようにオシャレなカフェでバイトしたり、ディズニー行ったり、友達とオールしたり、サークルに勤しんだり、そういうものを全部諦めてきた。
そして時間とお金を、スチボーやスプレーのりやバルサたちに捧げてきた。
彼氏もできた時もあったけど、彼も建築学生だったからデートはいつも建築めぐりだった。
別に良いんだけど、それデートって言って良いのか?っていう。
限りなくグレースケール。
RGBとは言わないが、せめてCMYKにしたい。
そうやっていつものようにグルグル思考が空回りしだして、気づけば3時半。
30分、何も進んでいない。眠さだけが増している。
やばい、何かしなきゃ。
とりあえず、敷地模型に昼間に買ったスタバのカップを置いてみる。
周辺の街並みに全く調和しないスタバのトールラテ。
こんなの建てたら顰蹙もんだろうよ。
自分の行為に一通りツッコミを入れつつ、でも安藤さんも「都市ゲリラ」とか言ってたしな〜、ひょっとしてこれも見ようによっては建築なんじゃん?プライザーの人置いたら、割とアリなんじゃないの?と思ってチマチマ並べてみる。
・・・思いのほか建築っぽくなってしまった。
先生も「斬新でいいじゃん」って褒めてくれるかもしれない。
んな訳あるかボケ。
一瞬頭をよぎった希望は、次の瞬間には霧散した。
ちゃんと考えよう、ちゃんと・・・
スケッチしていた紙をくしゃくしゃに丸めて、また計画はタブラ・ラサに戻ってしまった。
ほどなくして、私は気を失うように眠りに落ちた。
・・・
気づいたら友達が製図室に集まってきた。
あ・・・エスキス一限じゃん・・・
やばいやばいやばい
今年最高に焦る私の目は講師の姿を捉えた。
ちくしょう、今日もへんちくりんな帽子被りやがって。
へんちくりんな帽子を被った講師はみんなの製図台の周りを回りはじめ、ついに私のところにもきた。
「お、田村さんこれスタディ模型?いいじゃない」
驚いて目を上げると、講師がさっきくしゃくしゃに丸めたいくつかの紙を真剣に見ていた。
「うん、ヒラタアキヒサのヒダノゲンリを発展させたようなスタディだ。とても可能性がある」
と講師は訳のわからないことを言った。
そして丸めた紙を引っ張ったり潰したりして、敷地模型の上に置き、
「この方向で進めてみたら?」
と言い残し、他の学生の方に行ってしまった。
エスキスは切り抜けたが、残念ながら私にはいよいよ建築がわからなくなってしまった。
※この物語はフィクションです。
[建築][小話]製図室にて
[小話]ウロボロスの書
「万物は流転し、同じ軌道を繰り返し廻っているのであり、観者にとってはそれを百年見ていようと二百年見ていようと永遠に見ていようと同じことであることを銘記せよ」
―マルクス・アウレリウス『自省録』第二章第十四節
ガルシア・ホセ・ムヒカがタクナの街外れのかび臭い古書店で購入した海外の古い手稿を集めた本には、この世の全てが記述されているとされる奇妙な書物について書かれていた。以下にその内容を簡単に記述する。
イスラムのとあるモスクの円形の床下から見つかったその書物は、おおよそ普通の本とかけ離れた形をしていた。上から見ると細い円環(リング)状で、表紙や裏表紙は存在せず、また円環の外周を覆う背表紙に当たる部分は皮が張られていたが、何も書かれていなかった。
更にこの本を開くことは誰一人として出来なかった。内向きの円環になっているため紙同士が密着し、無理に開こうとすればたちどころに留め具が外れ、内容がバラバラになってしまう恐れがあったからだ。百万とも数千万とも伝えられるページ(詳細はわかっていない)が散逸してしまうととても手に負えないと、人々は恐れをなして触れることを拒んだ。
いつ、誰が、何のために書いたのか、何が書かれているのか、何より、なぜ開かないような本の綴じ方にしてしまったのか、諸説が唱えられたが真実は誰にもわからなかった。
ある歴史学者が「本の中にウロボロスがいる」と言った。もちろんそんなはずは無いと笑う者もいたが、見ることができなければその不在を証明することはできない。円環状の見た目も相まって、その書物はいつしか「ウロボロスの書」と呼ばれるようになった。
時の王はウロボロスの書の噂が表沙汰になることを恐れ、モスクもろとも接収して管理下に置き、歴史上からその存在を抹消した。なぜ王がそのようなことをしたのかわかっていないが、世界の全てが記述された書物が王権を脅かすことを恐れたのだろうと分析し、手稿の著者は結んでいる。
現在ではそのモスクがどこにあったか知る由もないが、私はウロボロスの書とはすなわち「世界」そのものであり、その著者は神そのものだったのではないかと考えている。グノーシス派の教義によればウロボロスは物質世界の限界を示す象徴であるが、ヘレニズム文化圏では世界創造は全であり、一であるといった循環性・永続性の象徴である。世界は閉じた円環であり、時間や空間までも円環の摂理から逃れることはできないとされている。
真実が、この手稿の通りだとしたら、今この瞬間もウロボロスの書は世界のどこかに存在し、決して人の手によって読まれることのないページは永遠に増殖し続けているだろう。
[建築][アート][小話]看板建築を描くことについて
《蜷川家具店(1930)》
2018年に入ってから、時間を見つけては看板建築の写真を撮り、立面図を起こす作業に没頭している。一体何を始めたのかと疑問に思っている方もいるかもしれないが、決して伊達や酔狂で描いている訳ではない。・・・と言いつつも、狂人は往々にして自分が正常だと信じて疑わないものであり、既に当人は酔狂の渦中にあるかもしれない。ここで少し頭を冷やしつつ今まで考えてきたことを振り返ってみたい。
***
「蜷川家具店」千葉県香取市佐原
「看板建築」という言葉をご存じだろうか。
1923年に発生した関東大震災の復興時、和風の長屋にファサードだけ西洋風のものを取り付け、手っ取り早く洋風建築に“擬態”するものが流行した。これを東京大学名誉教授で建築史家・建築家の藤森照信氏が学生時代「看板建築」と名付け建築学会で発表して以来、この呼称が定着している。
木造の在来工法でつくられた町家は耐火性に乏しく、震災時の出火で江戸から続く町家群はことごとく炭になってしまった。この反省から都市防火が唱えられ、大きな通りに面する建築物には耐火材でファサードを覆うことが義務付けられた。もちろん鉄筋コンクリート造なら火に強いが、庶民にはまだまだ手の届く技術ではなかったため、木造の在来工法で建てた躯体にモルタルや銅板等でできた西洋風のファサードを貼りつけた折衷方式が用いられた。こうして表は洋風、裏は純和風という二つの顔を持った看板建築が誕生した。1930年頃のことである。
街路に面していかに目立たせるかといった広告的テーマがファサードを構成するだけに、より複雑に、また斬新にと、職人が競って技巧を凝らし、数多くの秀逸な意匠を生み出した。この手の込んだファサードは決して有名建築家による設計ではなく、その多くが地元、あるいは地方の無名の大工や画家、家主が見よう見まねでデザインを練り上げたアノニマスなものだという。
2016年の秋に初めて訪れた川越で、僕は江戸時代から続く蔵造りの街並みよりも、この洋風のファサードを纏った看板建築にすっかり魅了されてしまった。もともと人目を引くためにハイカラで斬新さを追い求めたファサードも、90年経った今では街並みに欠くことが出来ないレトロな建物として地元の人々や観光客に親しまれ、中には文化財に登録されているものもある。東京の小金井公園内にある「江戸東京たてもの園」には看板建築が6軒移築され、休日には老若男女問わず幅広い客層で賑わっている。
ただそういった価値を認められている例はごく少数で、家主の死亡とともに相続が放棄されたり、再開発に取り込まれるなどして、人知れず解体されているケースが全国各地で起きている。また一部の好事家がインターネット上で公開している数枚の写真しか当時を知る手掛かりは残ってないようなものも多々あり、藤森氏の『看板建築』*1で取り上げられていた物件も既に半数近くが姿を消してしまった。2018年1月に名作と謳われる「田中家」が解体されたことも、愛好家の間で話題になったばかりだ。
【失われる看板建築】
— 情景師アラーキー/荒木さとし (@arakichi1969) 2018年1月7日
東京に現存する戦前の商店建築で表層を和洋折衷で装飾した『看板建築』。モルタル仕上げの最高傑作と称される「田中家」が1月15日に解体!
なんとか移築保存の可能性など江戸東京博物館に問い合わせ中ですが、ぜひ直接目に焼き付ける事を猛烈お勧めします
(台東区東上野3-34-5) pic.twitter.com/up9xAQCsY7
このように断片的で、藤森氏の著書以上さしたるまとまった情報が無いまま急速に喪われていく看板建築を前にして、一時は無力感や虚脱感に苛まれたが、やがて何らかの方法で残したり、現存するものに目を向けさせることはできないかと考えるようになった。
「看板建築の立面図を描く」というアイディアはこうした背景から生まれた。

《すがや化粧品店(1930頃)》
建築は先ず設計図を描き、設計図を基に施工される。実際の建物から立面図を描くというのは、この建築プロセスを遡行する行為だ。これは一度フラットな情報に還元することで、見慣れた建物を不純物や感傷を排し「初心に還す」ことを目的としている。
表現の手段としてスケッチを描いたり写真を撮るといった方法もあるが、描き手の手癖が明瞭に現れてしまうスケッチは普遍的な記録資料としてやや不適であり、また写真というメディアはより現物に即した情報を提供する反面、電線や外壁の汚れ、建物前の植木鉢などが写り込み、視点がぼやけたり意図せざる感傷を引き起こしてしまう恐れがあった。“古き良き時代”や“郷愁”といった懐古趣味はともすると“古いものは良い”という思考停止に陥り易く、そうなってしまっては本来の趣旨から外れてしまう。ここではより純粋に建築意匠を鑑賞・評価の対象とするため、ファサード構成とマテリアルの質感のみを抽出した「立面図」が対象建築物を表現する手段として最適だと考えた。流行に左右されず、対象を客体化させるために、この工学に立脚した表現手法は100年経とうと200年経とうと普遍的な強度を保っている。

《三村貴金属店(1928)》
また画法は敢えて19世紀頃の西洋建築の立面図を参考にした。これは「取るに足らない大衆の建物」だと長らく認識されていた看板建築を、半ば強引に建築意匠論の俎上に上げるためのレトリックである、という建前はあるものの、実のところ僕自身のフェティシズムに因るところが大きい。許してほしい。
このファサードを描き起こす作業を通じて、「レトロ」という懐古的・退廃的な文脈で一括りに語られることの多かった看板建築とそのファサードについて、現代のフラットな視点からの再定義・再評価を試みたい。かつての商業建築が自然と有していたヒューマンスケールに即した店舗デザイン、「様式」の再現・解釈・省略・派生の手法、多様性を内包した奔放な構成や細部に目を向ければ、きっと現代を生きる僕らにとっても新鮮な驚きや発見があるはずだ。
2017年7月に石岡で初めて開催された「全国看板建築サミット」、そして今年の3月から江戸東京たてもの園で始まった「看板建築」展(2018)は、看板建築が今まさに省みられるべき建築様式だということを示唆している。スクラップアンドビルドによってありきたりな再開発ビルやマンションや駐車場になり果てる前に、二度と取り返しのつかない状態になる前に、風前の灯は省みられなければならない。

神田須賀町の街並み
左:1980年代*2 右:2017年
中央の「海老原商店」を残して全て取り壊されてしまった
誤解が無いように付け加えるが、僕は「看板建築はあまねく保存されるべきだ」とは決して思っていない。現代の商業空間のニーズからは程遠くそのまま運用し続けることは困難であり、空間の有効活用の面からも用を為さなければ有用なものに更新されていくのは必然だと思っている。だからこそ記録作業は重要性を帯び、保存活用に関する是非はより多くの人が関心を向けるべきトピックに思う。特に住宅は個人の所有物なのでデリケートな問題ではあるが、地方・地域の歴史的な文脈や、ある程度定まった価値を有する建築物が当事者同士の都合により破壊されていることが、都市全体の歴史的価値を下げ続けている現状を直視しなければならない。今のところ、保存の是非がほとんど問われることがないまま多くの看板建築が最期を迎えている。
また、ひとたび直下型の地震が起こればこれまで戦災にも耐え抜いた看板建築に決定的なダメージを与え、都心から瞬時に消滅させてしまう可能性も否定できない。建築史家の村松貞次郎は都内の建築物を調査した結果「東京には江戸時代の建築物が一切無い」と結論づけた*3が、特に東京は歴史を積み上げられない都市という性格から、三菱一号館美術館などの特殊な例を除き、手間暇をかけて古い建物を再現するということをほとんどしない。ゆえに看板建築の消滅は時間の問題でもある。
たとえこの作業が現代において芳しい評価がなされなかったとしても、50年後、100年後に都市論の俎上で不意に我々の子孫の目に留まるかもしれない。それくらいのスパンに耐えうるものを描いているのだという不遜な自負によって、この作業は粛々と続けられている。
これは波乱に満ちた大正末期〜昭和初期の日本において瑞々しい感性の花開いた大衆芸術の一部を「立面図」という形式に還元する試みであり、現在急激に失われつつある建築の類型をひとつの切り口から記録する都市建築の考現学である。
作品はInstagramにて公開中
https://www.instagram.com/biblio_babel/?hl=ja
儀式的なもの〜日本人における「型」の意味
先日、友人と会話していた時に「男の職場」と「女の職場」の違いが話題になった。
例えば、連休なんかで久しぶりに職場に戻った時の「お土産」に対する意識が全然違うという。
僕の属している建設業は「男の職場」だからか、お土産なんてもらえたってもらえなくたってどっちでも良いという雰囲気がある。
ところが「女の職場」ではそうではない。
一人でもお土産を配り損ねたら、「なんで人数分買って来ないの?」と始まるのだ。
別にお土産の中身が欲しかったかどうかではなく、留守の間の感謝の気持ちを表せるかどうかが重要なのだ、という。
同様の理由で、異動や転職する同僚への贈答品、メッセージなんかも抜かりない。
これが「女の職場」でのコミュニケーションを円滑にするいわば儀式なのだ。
このちょっと奇妙な「儀式的なもの」について少し考えてみる。
日本人の「お辞儀」についてロラン=バルトのテクストを引こう。
「煩雑な基準(コード)をもち、動作の端正な書体(グラフィスム)をもつもう一つの礼儀、日本人の礼儀、は私たちの目に敬意が誇張されすぎているとみえることがあるにしろ、それは、わたしたちが西洋人流儀に人間の形而上学にしたがって読みとるからなのであって、じつはこの礼儀は空虚の行使なのである」
ロラン・バルト著 『表徴の帝国』 筑摩書房(1996) pp.102-104
深々と頭を垂れる二人の和装の女性、その間には宙に浮いたような「贈り物」。
バルトはこの慇懃なジェスチャーの本質は空虚、つまり空っぽだと鋭く見抜いた。
ボードリヤールなら、「象徴の交換が行われている」と評すだろう。
ここでの「贈り物」は副次的なものに過ぎず、あくまで交換されるのは相手に対する思いやりや敬意といった「意思の象徴」だ。
受け手はそれを理解し、物と同時にその意思も受け入れ、同様の象徴(お辞儀)で謝意を表明する、つまり交換する。
バレンタインの本命チョコみたいなものだ。
ところでバレンタインデーとは、聖バレンタインが殉教した日である。
と、言ったところで誰もそんな由来に見向きもしないし、聖バレンタインの逸話を知らない人も結構いるかもしれない。
でも由来はなんであれ好きな人に告白する日だとみんな知っているし、学校なんかでは男女とも色めき立つ。
日本人にとっては雛祭りや節分と同じように、毎年恒例のお祭りとして認識されている。
更に話は跳ぶが、最近TEDトークで日本人の僧侶が「日本人の宗教観」をテーマに講演を行い、ネットで大きな話題を呼んだ。
→ 松山大耕「宗教の理由」
その僧侶はキリスト教系の学校で育ち、家業である仏教の僧侶を継ぐという変わった経歴を持っている。
宗教的対立がほとんど存在せず、互いが尊重し認め合える日本のモデルを世界に伝えたいというのが講演の趣旨だったが、僕は日本のモデルを他所で適用するのは不可能に近いと思っている。
その理由にたどり着くには、この特殊な島国の儀式的慣習からくる風俗を分析しなくてはならない。
古くから日本には仏教と神道という2つの主要な宗教(厳密には神道は宗教ではないのだが)があった。
もともとアニミズム的に発達した神道は、確固たる崇拝対象が存在しないため、他者を排除するのではなく受容する文化である。
これに中国から輸入された仏教は日本式に姿を変え、時に神仏習合という形で寄り添いながら発展を遂げた。
キリスト教文化が戦国時代に流入したときにも、その奉仕精神が日本に受け入れられすぐに馴染んだ。
江戸幕府の禁教令で一時衰退したものの、明治以降、学問、医療、福祉等様々な分野で地域に密着した活動を展開し、今日の発展に至っている。
しかし、とりわけ日本の文化にかくもこのような形で宗教が組み込まれた背景には、敬虔な教徒による真摯な活動を別として、大多数の特に信教を持たない人々による「祭り」化の側面がある。
つまり宗教行事を祭りと同一視し、もてはやしたのである。
「祭祀」という言葉が端的に象徴するように、祭りと信仰は紙一重のものである。
そして「祭り」は奥ゆかしく感情を押し殺すことを美とする日本人の、鬱屈した精神の解放される場であった。
ハレとケの明暗がはっきりと分かれる日本人にとって、ハレの「祭り」には理由などそれほど重要ではなかった。
そこにそれぞれの宗教行事がうまく合致し、元旦になれば神社へお参りし、結婚式には教会で十字架を前にして神に誓いの言葉を捧げ、隣人が死ねばお経を唱えるといった、外国人から見れば奇妙で脈絡のない光景が誕生してしまうのだ。
さらに戦後に先述したバレンタインやハロウィンなんかも商業的理由から輸入され、菓子業界やパーティグッズ業界を賑わせたり、節分に吉方を向いて無言で巻き寿司を食べるといった関西のごく一部に存在していた奇習も、セブンイレブンの販売戦略によって市民権を獲得してしまった。
このように概観すると、そこに信仰としての宗教は存在せず、「型」通りの行為を済ますことで、他者(つまり社会)に順応し、社会から承認を得るという「儀式的」側面が浮かび上がってくる。
ここ日本における宗教が「型」である以上、他国での応用がきかないのは言うに及ばない。
さて、この「型」というものは日本の伝統的な文化のほぼ全てに当てはめることができてしまうという普遍性を持つ。
例えば茶道。お茶を淹れて客人をもてなすために極められた「型」である。
それは茶器、茶道具、掛け軸、茶室、そこで起こる一挙一動に意味があり、各流派による厳密な「型」が存在する極めて高度な芸術だ。
他にも華道、書道、柔道、剣道、香道などなど、日本文化は「○○道」すなわち「型」があり、その「型」の範疇を守り継承し、時に破壊しながら作り上げてきた。
(「型」を壊すことはつまり「型破り」となり、伝統を重んじる人々にはリジェクトされてしまう非常に危険な行為だ。)
「道」の字はついていないが、歌舞伎や相撲なんかも「型」=決まり手が存在し、そのルールの中で起こる芸術を、僕らは楽しむことができる。
死に方にすら「切腹」という「型」があり、正式な手順があるくらいだ。
なぜ僕らはこんなややこしい文化を築き上げてしまったのだろうか。
ここからは勝手な想像だけど、僕はここに日本人のメンタリティ、すなわち、島国的性格を見出す。
大陸民族は常に移動し、領土を獲得のために戦争をした。モンゴル帝国、ローマ帝国、中国の歴史を紐解けば、領土の争いから逃れられない。
反対に島に住む日本人は、危険を冒してまで他国と戦争をする必要に迫られなかったが、拡大も縮小もしない逃げ場もない小さなコミュニティの中で、他人との「和」を保つことで生き延びる術を獲得した。
これが「型」なのだと思う。
相手に失礼がないように最大限の敬意を払う、秩序に忠実に従う、またそのそぶりを見せる。
これが食うや食わずやの小さな島で培われた交渉術である。
その洗練された「型」に僕らは共感し、魅了されるのだ。
歌舞伎俳優がお約束の「見得」を切った時に、僕らは精一杯拍手する。
正確な所作で点てられたお茶を、僕らは緊張と畏敬の念をもって「型」通りにいただく。
連歌では先の句を詠んだ相手への敬意を、文学的センスと「型」で表す。
「型」に対する「型」通りの反応をすることで、互いに尊敬の念を伝えると同時に、「わかるものだけがわかる」快楽を得るのだ。
他者が「型」を演じ、その「型」に自己を没入させていくという複雑な手続きから生まれる奥深い文化。
その精神の微妙な揺らぎと緊張の糸を渡りきった先に訪れる、互いへの尊敬の念。
それが日本人の根底にあるのではないか。
話を冒頭に戻すと、大陸的な割り切りがある「男の職場」に比べ、「女の職場」はとても日本人的だ。
この小さな島国で生き延びていくには、ぜひお土産はチームの全員分は買っておきたい。
ハンガー掛けを作ったこと
今月、新しい部屋に越してきました。
都心からアクセスも良く、家賃も法外に安いのが嬉しいところです。
ところが新居で一番困ったのは服の置場。
新しい部屋は収納が十分になくクローゼットもハンガーラックを持っていないので、適当なものがないかと探していたんですが、市販のものは高いのなんのって。
やはり量は掛けたいしそれなりの耐荷重も必要なのですが、市販のものは平気で5桁の金額を叩き出してきます。
建築やデザインを生業としている者は知ってます。
この価格には原価のほかにデザイン料、販売店のマージン、流通コストなんかが乗せに乗せられて、価格に見合わなければ原価を下げるために粗悪品を使っていたりするという現実を!
エグい、エグいぞ資本主義!!
3秒考えて、これは自作するしかないといつもの結論に至りました。
今回は引越し直後でお金がないのと仮住まいなため、
「見た目を犠牲にしても、とにかく安く丈夫につくる」
というコンセプトを掲げました。
せっかく左側に強靭なメタルラックがあるから、左の支持材はこれで良し。
問題は右側です。石膏ボードにつけるか床からバーで支えるか。
石膏ボードに固定するならボードアンカーを打ち込まなきゃいけません。
1分考えてこのようにディテールを描きました。
・・・え〜分かる人には分かるかと思いますが、意匠性もクソもないお手軽施工です。
普段「デザインガ〜」とか偉そうに言ってる割に発想がプアだな、と蔑まれてもかまいません。
人に見せるわけじゃないし使えりゃいいのです。
ステンレスパイプφ19 1210mm ・・・・・・500円
パイプキャップ ・・・・・・・・・・・・・328円
L型アングル・・・・・・・・・・・・・・・368円
ボードアンカー(石膏ボード用)4本入・・・198円
結束バンド ・・・・・・・・・・・・・・・328円
税抜 1,722円 税込(8%) ・・・・・・ 1,900円
じゃあサクッと作りましょうか。
まず壁にボードアンカーを取りつけます。
この時に墨出し(位置を壁や床に記すこと)の精度によってはハンガーがずり下がったりするので、ラックの高さに合わせてミリ単位でつけます。
服を掛けてみても全くたわみがなく、いくつも掛かります。率直にこれはいい。
いかがでしょうか。
ちょっとした工夫ですが、服が掛けられて格段に便利になりました。
材料費は2千円弱ですが、デザイン料込で1万円くらいだと思います。
ではまた!
廃墟について
先日、日本の産業革命遺産として軍艦島などがUNESCOの世界遺産として登録されたというニュースを知った。
世界遺産に認定されれば、維持管理のために「世界遺産基金」から補助金が支給される。建築物や土木構造物などの人工物は建っている限り維持管理コストがかかるため、管理者側からしたら世界遺産認定のメリットは高い。
加えてその建造物の認知度が上がり、世界各国から観光客が訪れるようになり、旅行会社、交通機関、小売店、飲食店、宿泊施設などなど周辺に経済的な潤いをもたらすことになる。
また展望台や遊歩道、幹線道路の整備などに国や自治体の予算が充てられるなど、相乗的に経済が回り出す。
今回認定された建造物は明治時代の産業革命遺産であり、もともと寺社仏閣や景勝地のような観光資源と見做されていない廃墟、それもレンガ、鉄や最初期のコンクリートの構造物である。認定を受けなければ崩壊の危険からいずれ地方自治体や国が除却費用を負担しなければならない。
国際的な基金から補助金が支給され、観光資源と化けさせる世界遺産認定は、その建造物を所有する地方にとって悲願であったことは想像に難くない。
こうしてみんながハッピーな世界遺産認定ニュースに、ひとり沈鬱な面持ちで耳を傾けるロクデナシ、それが僕である。
なぜそんな表情をしているのか、理由を少しばかり書きたい。
僕は廃墟が好きで、錆びた工場の配管やダクト、雑草に埋もれた構造物などにそこはかない郷愁を抱き興奮するという、傍からみると理解できない(されない)ような性癖を持っている。
所有者、使用者に棄てられ、雨風に晒され、剥き出しになった生身の造形は、その役割から解放されたひとつのオブジェとなる。外装や装飾がはがれ、鉄骨やコンクリートの構造体が露出した空間は逆説的に力強さを増す。虚飾の無い純粋な空間が立ち現れる瞬間、それは時として身震いするほどのオーラを放つのだ。
一方で、紛れもなく人が人のために造った人工物が、人の手を離れ、雨に、雑草に、つまりは地球そのものに蝕まれていく。
その情景に対し、ある人は人々の過去の営みに想いを馳せ、またある人は人間の無力さ、人間の夢の儚さを痛感する。やがて土に還るという生命の運命と建物を重ね合わせる人もいるかもしれない。
これらに共通するのは廃墟の発する濃厚な「死の匂い」である。
ゆえに「廃墟」は「建物の死した状態」のみならず、「死のイメージを纏った建造物」とも言える。
こうしたイメージは、建物を擬人化し身体の延長線上に据え置くことで得られる生温かい感覚だ。
廃墟に限らず経年変化した建造物は、身体に刻み込まれた皮膚のしわのごとく表層に深みを与え、その建造物が歩んだ日々を饒舌に物語る。
こればかりは新築の建造物にはない魅力だろう。
このような視座に立ち、あらためて世界遺産として保護され、観光地と化した「廃墟」を眺めてみたときに、どうもシラけてしまう。
人々に忘れられ、草花に埋もれながらひっそりと生涯を閉じようとした建造物が白日の下に晒され、内側に新規に鉄骨を挿入されるという延命措置を施され、見せ物として生きろと言われているような気さえするのだ。
それは屍体標本のようにさらけ出され、内部の秘め事も英語や中国語やハングルなんかの文字でつぶさに明かされ、FacebookやInstagramの自撮りの背景くらい小さく収まってしまう。つまり、たちどころに消費の対象と化してしまう。
「廃墟のテーマパーク化」、それは廃墟のもつナイーヴな身体性を感じる人々にとってみれば、磔刑にされたキリストの追体験をするがごとく、苦痛を伴う悲劇なのだ。
廃墟を愛でるというのはアウトサイダーな趣味であって、決して本流ではない。
世界遺産登録に沸き立つ群衆の背後で「そっとしておいてほしい・・・」とこぼすのが僕らアウトサイダーの身勝手かつ真摯な願いである。
広尾の教会(21世紀キリスト教教会)に行ったこと
昨日は2014年に広尾に完成した安藤忠雄氏設計の私設教会、「21世紀キリスト教教会」に行ってきました。
閑静な住宅街の奥にひっそりと存在する、二等辺三角形プランと直角三角形の開口部が強い印象を放つ教会です。
外壁は安藤建築のイコンともなっているRC打放しかつピン角というアグレッシブな仕様は相変わらずご健在。
RCの納まりはすでに安藤氏自身の作品の中で確立された様式(マニエラ)によってドライブされていますが、今回の礼拝堂の内装は木。
設計を生業とする者としては世界的建築家によってRCと木がいかように取り合うのか、RCで名を馳せる建築家による在来木造とは違った方面からのアプローチはどうなのか、というところに興味がありました。
21世紀キリスト教会 広尾教会堂(広尾の教会)
"21st Century Christ Church"所在地:東京都渋谷区広尾5−9−7
建築主:21世紀キリスト教会(増山浩史牧師)
設計・監理:安藤忠雄建築研究所
施工:鹿島建設
構造・規模:RC造 地下1階地上2階建
延床面積:860㎡
竣工:2014年8月
安藤氏が手掛ける国内の教会建築は「六甲の教会」「水の教会」「光の教会」「垂水の教会」「海の教会」と過去5作品あり、6作目を数えるこの教会はその流れを継承しつつ、新しい解釈によるアプローチがありました。
過去に六甲の教会に行った話は→こちら
まず特筆すべきは二等辺三角形を大胆に取り入れたプランです。
コンセプトについて、安藤氏が日刊建設工業新聞に寄せた文章から引用します。
「ここで考えたことは、ここにしかない個性を持った教会をつくりたいということでした。その『個性』の手掛かりとして三角形を考えた。三角形は求心的な空間を生み出す力強い幾何学と同時に、人々が互いに寄り添って心を一つにしていく確かな共同体のイメージを象徴するものです。地域の教会は、安全で安心できて、いつでもそこにいけば誰かがいるという温かさを感じられる場所になってほしい」
日刊建設工業新聞2014年8月29日14面より
鋭いエッジが象る強烈な求心性に、安藤氏自身が言及する「共同体のイメージ」が重なり、安藤氏が教会建築で用いてきた矩形平面構成を大胆に捨て、新しい境地に立つものです。
また三角形は「神・信者・地域」の三位一体のメタファとも言えるかもしれません。
ヴォリュームは地下1階にセミナー室や食堂、日曜学校などの床面積を必要とする機能をまとめ、地上部に礼拝空間とオフィス・ライブラリーなどの小室を配置するという明快なプランニングがなされています。
壁面は溝彫り加工を施された木板が下見板のように重ねられ、木の陰影を強調しています。
礼拝堂の端部には20mm角ほどの華奢な鉄製の十字架が、壁から支持されて浮遊しています。
十字架の下は強化ガラス張りとなっており、地下を覗くことができます。
ところが案内してくださった教会の方からは「強化ガラスですが乗らないでください」との説明が。
不審に思ってガラスをよく見ると、
アルミ枠だと思っていたのは金属色のテープでした。ガラス中央部にT字に入っているフラットバーも華奢で、ガラスの自重を支えているだけのようです。テープ貼は木壁との取り合いの難しさから苦肉の策で貼られたのでしょう。ちょっと笑いました。
祭壇側からみるとこのように遠近感が狂いそうになります。
2階席前の腰壁にはモニターと集音マイク(?)、2階天井にはプロジェクターと天井カセットエアコンが実装されています。
ちなみに腰壁部分はパターン塗装(通称「パタパタ仕上」)があちらこちらに見られました。コンクリート打設の難しさから生まれてしまうジャンカやコールドジョイントなどの「不良部分」。安藤さんのコンクリートにジャンカなどあってはならないので細心の注意を払い、ゼネコンの現場職員が総出で打設するのですが、どうしても生まれてしまう欠陥部はモルタルや充填剤などの補修材で補修します。そしてRCと同じパターンとなるように専門の塗装業者が塗装するのです。安藤建築の洗練された打放しコンクリートというフィクションを成り立たせるための、影の立役者というわけです。
このような「パタパタ仕上」を見つけ当該部分の施工の困難さを想像するのも、ツウな建築の見方です(笑)。
巨大な変形開口部。木の太い柱が恐らく開口部の変形吸収の為に副えられています。
横長のスリットは空調の吹出孔です。RC壁と木壁の間に温風・冷風を送り込み、空調しているようです。
2階へあがる階段はフラットバー溶接の手摺を擁し、天井からは自然光が降り注ぐ象徴的な空間でした。
ところで室内なのに階段裏に水切りがあるのはなぜ?
2階から見ると、先端のスリットを通して得た光が、光沢をもった天井面と床面に反射し、スッと伸びていました。
簡素なつくりの長椅子も、手掛や背もたれの曲面にこだわりが伺えます。
地下両翼はドライエリアに面してキッズルーム、食堂が並びます。窓割はもちろん十字架で。
地下の小礼拝堂は天井が低く、長椅子が徐々に小さくなっていくかわいらしい空間でした。
そこには石張りの水槽がありました。洗礼時に水を張り、体を沈めて洗礼の儀式を行います。
大人の入信者は水着着用だそうです。
見上げると先ほどのT字はアングルとフラットバー、縁はテープ貼りとガラス支持だけの構造なのがよくわかります。光を垂直に通すためだけにわざわざガラス床を設けたと考えられます。
ドライエリア側から見ると、このように擁壁から端部のサッシを受けていることが分かります。屋根の軒先なんて隣の住戸の壁に突き刺さるんじゃないかってくらい鋭い。
ややマニアックな観点から「広尾の教会」を見学しました。
ちなみに教会のダブルネームの由来について、公式には「21世紀キリスト教教会」なのですが、安藤氏が「広尾の教会」と名付けて建築誌や業界紙に公表してしまいそれが浸透してしまったので、ダブルネームとしたそうです。
安藤氏は「○○の教会」という名称で一連の教会作品を手掛けており、有名な「光の教会」も実は「茨木春日丘教会」だったりと、正式名称と通称が混在しています。
このようにキャッチーな通称を浸透させ、人々を魅了してやまない建築を作りだす安藤氏のしたたかさからは、さすがとしか言いようがありません。
単純な矩形の上に三角形のケーキを載せたような外観、この単純なスケッチからデザインが始まり、プランニングと建築に落とし込むためのディテールの検討、依頼主や施工者、近隣との度重なる折衝を経てひとつの建築は成り立ちます。
今までの常識を取り払い、三角形のプランで教会をつくるという建築家の熱意と、それに関わる全ての人の熱意が一致し、唯一無二の建築を成り立つというスリリングな建築の現場を、ほんの少し追体験することができたように思いました。
そして失敗を恐れず常に新しいアイデアの実現に取り組む安藤氏の姿勢は、ものづくりを生業とする僕にとって大変刺激となりました。
おしまい
面と線についての覚え書き
半年くらい前に国立新美術館でやっていた「ルーブル美術館」展と、サントリー美術館での「若冲と蕪村」展を同日に観たことを思い出したんだけど、その時に西洋絵画と日本の絵画の根本的な対象に対する認識の違いというものに気づいたので、少々考察を加えながら書き綴ろうと思う。
結論を端的にいうと、西洋は「面」、日本を含む東洋は「線」の文化なのではないかということ。
ここで「西洋」「東洋」という大雑把な括りは、本来なら厳密に定義をしなければならないけど、ひとまず「ルーブル」展でみた「洋画」と、「若冲と蕪村」展でみた「日本画・水墨画」を軸足に論を出発することにしたい。
「ルーブル」展は16世紀〜19世紀、油絵具を用いた写実的な技法によりルネサンス以降の庶民の生活を描いた作品を数多く展示していた。
おおよそ絵には輪郭線はなく、ものの境界は色の塗り分けによって空間的に引き離している。
例えば、フェルメールの描いた「天文学者」は、対象の存在を描くとともに、目には見えない光が描かれている。
衣服に落ちる影、背後の棚の影、対照的に照らされ輝く地球儀、明るい窓、それらは「光」を描くために周到に配置されたモティーフであり、カンバス上の演劇において意味を与えられた演出上の小道具となる。
「影を描くことで光を描く」という逆説的暗喩が、ルネサンス以降の西洋絵画の技法において常套句となっていく。
フェルメール「天文学者」(1668年頃,仏)ルーブル美術館蔵
さらに踏み込んで言えば、「光」が描きだすものは「存在」それ自体だ。
ものが「存在する」という極めて単純な事実を突き詰めて考察したのはハイデガーだが、ギリシア哲学からキリスト教圏の神学に連綿と受け継がれる文化史の中で、神と、それに対峙するわれわれが「存在する」ことを絵画の中でも問い続けたからこそ、ブルネレスキによってパースペクティブが見出され、また輪郭線のない写実的な技法が生み出されるに至った。
キリスト教圏には西洋絵画が生まれるべくして生まれた土壌があったのだ。
言うまでもなく「光」や「影」が落ちるのは、ものの「表面(面)」である。
ルネサンス絵画はものの表面の陰影を写実的に捉え、当時の民衆の感情、社会的背景などを含む内面をも描写するに至っている。
「影」を描くことで「光」を描き、「光」を描くことで対象物の「存在」を描く。
この陰影における三段論法こそがルネサンス期における西洋絵画を絵画史において位置づけるマイルストーンとなる。
その後、西洋絵画における「面」的な構成は近代においては印象派を経てブラック、ピカソといったキュビズムの画家たちに引き継がれる。
キュビズムは三次元的なものの存在を二次元の画布に描き写すために、ものの表面を分割し、歪め、対象そのものを「写実」以外の方法によって描き出した。
フランス語ではこの手の絵画における対象の変形を「デフォルマシオン(動詞:デフォルメ)」と呼ぶが、日本でも馴染みのあるこの手法は風刺画から輸入されることになる。
ジョルジュ・ブラック「カンバスの上のヴァイオリン、燭台と油」(1910年,仏)サンフランシスコ現代美術館蔵
これに対し若冲の描く絵画は、墨が織りなす圧倒的な「線」の世界だ。
「若冲と蕪村」展で展示されていた「双鶴図」の鶴など、迷いなく一息に描かれた薄墨の輪郭が鶴の背中と背景を分割し、同時に鶴の白さをも描き出している。
また若冲は影を描かず、描く対象そのものの存在を輪郭をもって周りの世界と切り離す。
この手法は西洋絵画と好対照を成すけれど、この線画の技法は今や老若男女に愛される日本の「マンガ」へと受け継がれる。
「白」を白色で描くのではなく、墨の輪郭のみによって「余白」に「白」を感じさせる技法は、油彩による西洋絵画ではみられない東洋独自の表現といえよう。
伊藤若冲筆「双鶴・霊亀図」(18世紀,日本)MIHO MUSEUM蔵
また、アメコミ(アメリカン・コミック)を思い出してほしい。
アメコミでは人物の影が往々にして入り、背景がこってりと描きこまれるのに対し、日本のマンガは背景をそこまで描き込まない風潮にある。
これは「面」の文化と「線」の文化の差異の発現とも言えないだろうか。
アメコミと日本のマンガの違い(「IRON MAN」、「よつばと!」)
閑話休題、ここで東西の建築に目を向けてみる。
レンガや石を積層することで壁を築き、アーチ型に積むことで開口部を空けるのが西洋建築のおおまかな組み立て方だ。
「西洋建築(近現代を除く)」というと思い浮かべる古城やカテドラル、行政施設などの権威的建築にはほどんどこの構法が採用されている。
『三匹のこぶた』の童話(英国)では藁葺、木造、レンガ造の3つの家を作ったぶたの兄弟たちが登場するが、藁葺や木造の家は悉く破壊されレンガ造の家だけが残った。
これは組積造が構造的堅牢性から建築のヒエラルキーの頂点に君臨するという当時の西洋の建築観を象徴する寓話でもある。
無残に破壊される藁の家と木の家 ©Disney
一方、唐から建築技術を輸入した日本は、多湿の東南アジア圏では伐採してもすぐに草木が生い茂るという地域特性より、豊富な森林資源を利用した木造建築技術を極めていく。
和辻哲郎が日本の造園技術について「自然に人工的なるものをかぶせるのではなく、人工を自然に従わしめねばならぬ*1」というとき、僕らはこの環境がアミニズムから神道という独創的な信仰を生み出していくプロセスに肉薄する。
たとえば長野県の諏訪大社で7年に1度執り行われ、日本三大奇祭にも数えられる「御柱祭(おんばしらさい)」は、山から木を切り出し、運搬し、神社の境内に立てるという一連の建築プロセスを神事として形式化したものであるし、伊勢神宮は「式年遷宮」という20年に1度の建替えによって常に社が更新され、神殿そのものが永遠の象徴であり、神話を受け継ぐ存在へと昇華させている。
日本人にとっても身近な木造建築は、近代化が敷衍するつい50年ほど前まで日本を覆い尽くしていた。
寺社仏閣はもとより、堅牢性の求められる城郭や蔵にもことごとく木材は使用された。
日本の伝統的な木造建築は土台に柱を立て梁を架けて三次元のグリッドを構成し、その上に屋根材を葺く。
こうして比較すると、西洋と日本の建築における圧倒的な差異が見て取れるだろう。
端的にいえば石やレンガによって組積することで壁を作り、そこに孔を穿つ西洋と、木材の軸組(柱・梁からなるグリッド)から組み立てる東洋(日本)の違いである。
ここに前述の「西洋の絵画」と「日本の絵画」を半ば強引に嵌合させると、「面」と「線」の違いという抽象的な構成(=概念構成)による文化の差異が浮上するのではないか、というのがこの話の論旨だ。
絵を描くとき、ひいてはものを見る時、西洋と東洋(日本)における対象の捉え方には、「面」か「線」かという根本的な差があるのではないだろうか。
そして生み出される芸術作品、建築など文化全般に影響を与えているのではないか。
広重が、かの有名な「大はしあたけの夕立」において雨を無数の線で描いたことは、当時の西洋の画家・文化人たちに大きな衝撃を与えたといわれている。
絵巻物の昔から使われてきた古典的な手法で、僕らはアニメやマンガで見慣れているこの表現も、「面」の文化からすると認識の外側にある衝撃的なものだったのかもしれない。
こうした日本的な「線」への還元を建築において意識的に行っているのは建築家の隈研吾氏である。
隈氏が屋根・壁面全てに木ルーバーを取り入れた「馬頭広重美術館」以降、木ルーバーは現代建築にたやすく「日本的なもの」を取り入れる手段としてあらゆる建物の外観・内観に利用されるようになる。
那珂川町馬頭広重美術館(2000年,栃木/日本)
そもそも構法が面的な鉄筋コンクリート造の、のっぺりとした外観に日本人は耐えられず、「面」を「線」的要素に還元すること、表面に「文(あや)」をつけることで、そのナイーヴなメンタリティを保持することができた、というのは決して誇張ではない。
ここまできて、じゃあ光を「点」に還元したのはスーラじゃないかとか、ライプニッツやモナドロジーはどうなのとか、仏像には「面」という捉え方は無いのか、等という議論を始めたらもはや収拾がつかなくなってしまうので、この辺りに論を留めることにしたい。もっと話したい方は飲みにでも行こうよ。お誘いお待ちしてます。
グダグダと書き連ねたが、「面」と「線」という観点から東西の建築や絵画、その他文化的な諸々を眺めると結構これが面白くて、文化の深層心理というか、風土のもつメンタリティへの理解に一歩近づくような気がしている。
ニューヨークの建築、アートめぐり(1,2日目)
2015年12月31日〜2016年1月6日まで、ニューヨークに建築とアートを求めて旅行をした。
年末はロシア・トルコ間で折衝があり、パリでISISによる同時テロが発生したりと国際情勢が不穏な中での旅だったので、同行する妻との約束事として①18時以降出歩かない ②年越しのタイムズスクエアやコンサートホールなど人が集まるところはできるだけ避ける ③スケジュールを実家に送付し、毎日メールで両親に報告する、などといったことを決めた。いつになく綿密な行程を組み、最も経済的で効率的なルートで回ったので、インプットが膨大になってしまった。膨大なインプットは書きとめなければたちまち忘却してしまうため、膨大なインプットに負けないくらい膨大なアウトプットをこのブログ上で実践しようと思う。
1日目にJFK空港に降り立ったのは現地時刻15時頃、この日はマンハッタン内のホテルまで直行し、それ以降外出しなかった。外はカウントダウンへの熱気から、大声やクラクション、ブブゼラの音が深夜にけたたましく鳴り響き、時々音で目が覚めた。人通りのそこまで多くないホテル前これだから、タイムズスクエア辺りは凄いことになってるんだろうな、と思い床についた。
2日目、朝6時に起き、ホテルで朝食を済ませる。妻は「もう少し休むわ」というので、一人でホテル周辺の建築を見に街に繰り出す。NYでは元旦の早朝、昨晩のお祭り騒ぎから一転して街は静まり返り、歩く人もほとんどいなかった。寒さはそこまでではないものの気温は氷点下、吐く息は瞬時に白くなる。
宿泊先のホテルの周辺は有名な超高層ビルがひしめきあう地域で、首は常に上を向けていなければならない。
Sony Tower / Philip Johnson (1984)
日本では「ソニービル」、過去には「AT&Tビル」として知られるフィリップ・ジョンソン設計のポストモダン建築だ。尋常ならざるサイズのブロークン・ペディメント(破れ破風)を有し、地上レベルには大聖堂思わせるヴォールトとバラ窓を配している。
近づいてみると写真で見る以上に巨大で、一つの完成されたオブジェとしてマンハッタンの喧騒の中に静かに佇んでいた。普段は建築において嫌われる雨垂れも、不思議な説得力を建物に持たせていた。ポストモダン建築は様式の混成系であり、その実は虚飾という空虚なものだとよく言われているが、造形の強度がある建築には古代ローマ建築のような高潔さと緊張感が漂う。
この建築についての建築史的意義についてはさまざまなところで述べられているので、そちらを参照されるのが良いと思う。
432 Park Avenue / Rafael Viñoly (2015)
マンハッタンの超高層建築の中でも一際目を引く細長い建物は、東京国際フォーラムを手掛けたブラジルの建築家、ラファエル・ヴィニョリによる高級コンドミニアムであり、その細長い禁欲的なシルエットには度肝を抜いた。イメージはヨーゼフ・ホフマンの「カッコイイごみ箱」だという。外観を見る限り構造は斜材を用いずPC(プレキャストコンクリート)の純ラーメンでできているみたい。本当にそんなことが可能なのか不思議だけど、地震がない地域だからできる建築なのだろう。
よくよく見ると柱梁に無数のクラックが入っているみたいだけど、これ本当に大丈夫…?
Lever House / Gordon Bunshaft (SOM) (1952)
今日のオフィスビルの一典型をつくったとされるこのビル、レバーハウスはSOMのゴードン・バンシャフト設計。旧日産本社社屋もこれを参考にしている(と思う)。基壇部はガラス張りのエントランスがあり、建物内外にアート作品を配し、ピロティを市民に開放している。ガラスの奥に見える緑色は、今見ても色褪せない凛とした美しさがある。
590 Madison Avenue / Edward Larrabee Barnes & Associates (1983)
「590 マディソンアヴェニュー」という殺風景な名が冠される前は「IBMビル」であったこのビルは、脇にガラス張りのアトリウムが併設されていて、公共に開かれたスペースになっている。のこぎり屋根のこの大空間は、冬場でもほんのりと暖かそうだ。
Trump Tower / Der Scutt (1983)
不動産王ドナルド・トランプの牙城であるトランプタワーは、ポール・ルドルフの下で学んだ建築家、デア・スカットが担当した。褐色ミラーガラスのカーテンウォールに包まれた建築で、中の様子や階数を伺い知ることはできない。しかも対角の交差点から見ると、建物の輪郭が乱反射してモアレを引き起し、実像なのか虚像なのか区別がつかなかった。
※内部写真、断面パースはともにデア・スカット公式ページより
建物の内部には入らなかったけど、5層吹抜けのアトリウムには金色のエスカレーターが走り、滝がしつらえてあるという。視覚的享楽をこれみよがしに湛えた建築に施主は大いに満足しただろうが、果たしてモダニストのデアの心境はどうだったんだろう。
Solow Building / Gordon Bunshaft (SOM) (1974)
裾の拡がりがあまりに優雅で撮ったソロービル。新宿にある損保ジャパン本社ビルと同系統で竣工年もさほど変わらないが、ゆるやかに傾斜して施工されたガラスのカーテンウォールは新宿のそれを圧倒している。設計はリーヴァ―ハウスと同様、SOMのゴードン・バンシャフト。
One57 / Christian de Portzamparc (2014)
※内観パースはMail Onlineより
ソロービルのあるW57th通りを西に見ると、これまたやたらと高く造形も面白いビルを発見。近くまで行かなかったけど、ネクサスワールド(福岡)でお馴染みのクリスチャン・ド・ポルザンパルク設計のワン57というビルで、下層はパークハイアットホテル、上層は住戸だという。北側にセントラルパークを見下ろす好立地で、何でもカタールの首相が1億ドルで最上階のユニットを買い取ったとか。まさに桁違い。
眩いばかりの超高層群に感動したのか、氷点下の元旦早朝で動悸が早まったのかもはや定かではないが、高鳴る鼓動を胸に一度ホテルに戻り、妻を起こして再度街に出る。今日の目的地の1つ、MoMA(ニューヨーク近代美術館)に行くためだ。
MoMAは世界的に知名度が高い美術館のひとつで、日本でもMoMAストア(表参道)などで知られるほか、新館の設計を谷口吉生氏が手掛けたことでも話題になった。
The Museum of Modern Art / Yoshio Taniguchi (2004)
イメージしていたファサードと実際のファサード
この新館を語る際に必ず用いられる谷口氏特有の箱型ファサード写真のおかげで僕はてっきり勘違いしていたのだが、このファサードは前庭から正面を臨んでいるものではなく、コの字型に配された建物の中庭から建物を仰ぎ見ているものだった。ゆえに通りから見たファサードは素っ気ないもので、「え、これがMoMA?」とはじめ疑念を抱かずにはいられなかった。イメージとはそのようなものだ。実際に見てみないと分からないことを、僕らは編集者が任意でトリミングしたイメージを介しわかった風に捉え、いつまでも何かしら勘違いしたまま生きてしまう。百聞は一見に如かず、だから常に旅には意味がある。
内部は複雑であり、即座に空間構成を把握するのは困難に思えたが、その印象も2階まで、7層もある展示空間は巨大なヴォイドを介して繋がり、常に人の姿が白い箱の狭間で交差する。ああこれは、写真ではわからないわ。確かに建物の各部は緊張感を持ったソリッドな線で構成され、どこを撮っても絵になるが、建築への理解には到底及ばない。これはこの場所に身を置いた者でなければ把握できない空間だ、と思った。アドルフ・ロースの作品がフォトジェニックでない豊饒さを湛えた空間ならば、このMoMAもまた同様に、平面図だけでは理解できない性質を持つものだった。近代的理性の枠組みの中で、近代を超克しようとする意志が建築に表出するリリシズムをMoMAは評価し谷口氏を設計者に選出したのだろう。しかし谷口氏のアイデアは、MoMA館長が作品を収蔵する箱に求める要求を完全に満たし、あるいは凌駕すらしていた。立体パズルのような困難なプログラムを鮮やかに解く谷口氏の手腕は豊田市美術館や猪熊弦一郎美術館でも実証済みだが、一段と複雑な要求に応えているように感じる。
…とまぁベタ褒めの建築なのだが、このままでは作品と作者に対して失礼であり、建築に対するクリティカルリーディングをしなければならない。毀誉褒貶あってこその批評である。
たとえばこの建築は外に開かれておらず、MoMAを通して現代美術が社会的に開かれている状況が十分に表現されているとは言い難い。数百、数千万ドルの作品が並ぶガラスの箱を外敵から守るというセキュリティ面に対する配慮だろうが、周囲から完全に閉ざしてしまっている印象が今日の「開かれたアート」の状況に適合するかは意見の分かれるところだろう。
またよくよく見ると、日本の建築に比べつくりが粗い部分が目立つ。流石に手摺とか床壁の人目につくところの納まりはシャープなのだが、ガラス手摺とフローリング、絶壁の取合い部の納まりはザックリしていたのとか、あまり人が立ち寄らない部分のサッシの框と壁の取り合いシールが汚れていたり、ペンキもはみ出してたりと、見えないところにまで気を配る日本の建物とは違い、目立たないところでは手を抜く仕事がいかにも大国アメリカらしい。またエスカレーターからフローリングと手摺の間を見ると、なんとフローリングの小口がガラス手摺を通して見えているという目を疑うような納まりもあった。よく国際的に活躍する建築家が口にする「海外で施工可能なクオリティ」と言うのはこういう部分にも起因するのだろう。このような部分はあれど、全体のクオリティを下げるには枝葉末節、MoMAが建築作品として優れていることには変わりないので、安心してほしい。ガラスのカーテンウォールの像の歪みの無さなど、早朝に見たビル群と比較すると最も良い仕事をしているし、後から振り返ってもマンハッタンの建物の中では最高レベルの仕事だといってよい。
アート作品はゴッホの「星月夜」、ピカソの「アヴィニョンの女たち」、マティスの「ダンス」など超有名な作品が触れそうな距離にあり(触っちゃダメ!)、ドナルド・ジャッドのミニマリスティックな作品やポロックの絵画などの前衛芸術などなど。ちょうどピカソの彫刻展を開催していたのもあって、大変賑わっていた。
建築模型なんかも多数収蔵されていて、ヘイダック、グレイブス、コールハース、SANAAなんかもあった。伊東氏のせんだいメディアテークもあるらしいが、展示されていなかった。
さて帰ろうとエスカレーターに乗って降りていると、アンドリュー・ワイエスの「クリスティーナの世界」が通路に飾られているのを発見。ちょっとこの絵を飾るにこの場所はお粗末すぎません、館長?
ちなみにコの字型の反対側の翼はアートスクールで子供たちの姿も見えた。こういった幼い時期からアートに親しめる環境というのは恵まれていると思う。単純労働が今後機械にとって代わられ、芸術や感性に訴える仕事がますます重要味を帯びてくると言われる近い将来、幼少期からの芸術教育は日本でも大きな課題となる。こと芸術に関してはアメリカに学ぶべきところは多い。
MoMAを後にして僕らは次なる目的地、グッゲンハイム美術館を目指した。
601 Lexington Avenue / Stubbins Associates, Emery Roth & Sons (1977)
元は「シティコープセンター」と呼ばれていたが、現在は「601レキシントンアヴェニュー」と改称されている、巨大な柱で巨大なピロティを形成しているビックリ建築。基準階下部はガラスがほとんどないことから、巨大な斜材が入っているものと思われる。このピロティを形成した理由は、元々この地にあった教会が要望し、再び同じ場所に教会を建てたからだという。設計者のひとりであるヒュー・スタビンズは、横浜ランドマークタワーの基本設計者としても知られる超高層建築の名手だ。
601レキシントンアヴェニューのサンクンは地下鉄駅となっていて、ここから6番線を使ってグッゲンハイムに行く。
Solomon R. Guggenheim Museum / Frank Lloyd Wright (1949)
5thアヴェニューを北に向かうと、特異な円形の壁面が見えてきた。間違いない、ここだと思ったら美術館前には長蛇の列。え、皆さんチケットの並び!?と思ったがどうやらそうらしい。元旦から営業している美術館はMoMAとここくらいないし、仕方ないといなしつつ、列に加わる。既に日は傾きかけていて、空は雲が覆っている。セントラルパークに近接するこの通りは風が通り抜け、身を切るような寒さだ。しかしお陰で、じっくりと外観を見ることができた。
ソロモン・R・グッゲンハイム美術館は、ピカソやカンデンスキー、シャガール、マティスなど近代芸術の巨匠級の作品を数多く所有していることでも知られるが、美術館自体を見に世界から人が集まる。米国の特定歴史建造物にも指定されているこの建築は、近代建築3大巨匠のひとり、フランク・ロイド・ライトの最晩年の設計によるもので、ライトの他の作品とは一線を画すシンボリックな建築だ。
このでシームレスな外壁はコンクリートに塗装というシンプルなもので、一切目地やPコン痕はない。日本でこれをやると、地震ですぐ外壁にクラックが入ってしまい、塗装の剥離や中性化の原因になってしまうが、マンハッタンだからこそ可能な仕上だ。こののっぺりとした外壁は抽象度を増して、建築然としておらず、さながら巨大な彫刻にも見えてくる。
建物の中に一足踏み込むと、視界が一気に開け、思わず立ちつくしてしまった。螺旋状のスロープが展示空間で、中心のアトリウムは1階から天井のトップライトまでまっすぐ伸びている。構造は至極単純だ。しかしこれは、近代理性だけでは説明がつかない、人間の狂気、深層心理、ひいては生命の構造に根ざしている、と直感した。螺旋はDNA、巻貝にも見られる生命の根源的なもので、建築でも古くから螺旋階段とかミナレットなどに応用されてきた。しかしデカルトに始まる近代自我は、理性によって解される水平垂直の空間を極めて機械的に生み出すことが自然に拮抗する近代的な人間の居場所だと考え、水平垂直の柱梁からなる建築が都市を覆い尽くした。マンハッタンもこのデカルト的理性を具現化したように水平垂直のグリッドが支配する都市構造を有する、資本の幾何学都市といえる。エレベーターの登場によって、2次元のグリッドに3次元目の軸が加わり、マンハッタンは世界一超高層ビルが集中する地区となる。それは極めて合理的、合目的的だが、やや表情が硬直し、非人間的な表情にも映る。そんな都市の中に、じっと水の流れに抗うタニシのようなこの螺旋状の建築が生まれたというのはほぼ奇跡的と言っても良い。
僕らはアトリウムを見上げた後、エレベーターに乗って最上階まで行き、そこからスロープを下りてくることにした。アルベルト・ブッリ(Alberto Burri, 1915-1995)というイタリアのアンフォルメルを代表する画家の作品展を行っていた。
作品の前に立っても床は容赦なく傾斜している。スロープ勾配は1/7なのだそうだ。これは車路などで用いられる勾配で、日本では車いすで上れる勾配は1/12以下、実際歩くにははっきりと傾斜を感じる。もちろん、しばらく歩いていると脚が疲れてくる。作品に対峙する以前に、建築と向き合わなくてはならない。こんな美術館、初めてだ。
美術館は近代に入り、装飾性を排しホワイトキューブに徹するのがお約束となった。建物の個性が強すぎると、作品の鑑賞に影響してしまうからだ。近代以前の芸術は貴族や一部愛好家のみが観ることを許されたものか、教会や権威的建物の装飾品であり、近代以降、芸術が広く大衆に認知されるようになり、大衆から観覧料を取ることで運営する「美術館」が生まれた。芸術が扱う内容も複雑・深遠になり、それらの作品の読解に没頭するための背景として、永らく、そして今も美術館はホワイトキューブであり、作品のための白背景を提供する箱である。その常識が、この螺旋の中では覆されている。
無論、その反転が好ましい反応ばかりではないのも事実で、開館当時から批判(主に展示する芸術家たちからの)は絶えなかったらしい。
しかし、それを踏まえても依然としてこの美術館の人気は高い。この建築も半世紀以上経っているが、これだけ人を引き寄せ続け愛されたのは、猛スピードで突っ走る現代社会が置き去りにしてきた生物的な予感めいたものをこの螺旋の中に内包しているからではないだろうか。
ひとつ気付いたのは、らせんの上下で廊下の跳ね出し部分の出幅が違うということ。下に行くに従って、徐々に跳ね出しの廊下は狭まり、アトリウムのヴォイドは広がっている。これは下に立って見上げた時、実際よりも見上げた時の天井高を高く、空間を大きく見せる視覚的効果を意図しているのだろう。このような微々たる操作がなんともにくい。
螺旋の中に挿入されたアーチはマリン郡庁舎を彷彿とさせる魅力的な造形だ。
円形のスロープと対になるように三角形の階段もある。ライトは設計していて、楽しかったんだろうなと思う。装飾ではなく純粋に形態を操作し練り上げる喜びは、設計者に許された特権なのだ。
再びGLに降り立つ。そしてやはりまた見上げる。この建物に入って、このアトリウムを見上げない人はいない。
正直なところそこまで期待していなかったが、死ぬ前に見とけって言える建築がまた増えた。ソロモン・R・グッゲンハイム美術館。この空間は偉大だ。
僕らは閉館時間近くまで留まり、そしてホテルへ戻った。
(3日目に続く)
ニューヨークの建築、アートめぐり(3日目)
3日目は僕と妻の共通の友人で、ボストンに住むきょうこ氏とノイエ・ガレリエにて合流する予定となっていた。ノイエ・ガレリエの開館時間は11時、それまでの間、ホテルからグランドセントラル駅まで街を歩くことにした。
Seagram Building / Mies van der Rohe, Philip Johnson (1958)
まず、ミース・ファン・デル・ローエとフィリップ・ジョンソンの共作、シーグラムビルを参拝に行く。近代建築の教科書には必ず登場し、避けて通れないこのビルは、近代建築3大巨匠のひとり、ミースの手掛けた超高層オフィスビルとして半世紀経った現在でも近代建築の金字塔の如くそそり立っている。だから「観に行く」などという生易しいものではなく、「参拝に行く」のだ。
遠望するとまず抱く印象は「黒い」。そしてどこまでもモダンで古びれない佇まいの美しさがある。数多の建築関係者が参拝にくるのも納得の美意識の塊だ。
これも不勉強で知らなかったことだが、シーグラムビルの1階は大理石張りのマッシブなボリュームが建築の内外を貫いている。プランは純粋なシンメトリー(線対称)となっており、古典的でさえある。近代建築の巨匠がプランに古典における解決を求めたのは不思議に思えたけど、時代は20世紀の折り返し地点、アールデコ、擬古趣味のスカイスクレーパーが席巻したいわば近代の過渡期の時代にあって、古典の引用は真新しい建築様式を円滑に導入するための潤滑油として用いられたのかもしれない。またシンメトリーは構造的に有利だ。
H鋼のマリオンと外壁のディテール
エントランスホール・外構で大理石をふんだんに使用し、シンメトリックで古典的な構えを見せる一方で、2階から上を近代の材料(鉄鋼、ガラス)で被覆するという様式のデュアリティ(二重性)は現在のオフィスビルでも頻繁に引用されるが、その意味でもこのビルの卓越した先見性は見逃すことができない。ちなみに内部の撮影はNGだった。
St. Bartholomew's Episcopal Church (1967)
シーグラムビルからヘルムズリ―ビルまで歩く道中で立ち寄った教会。市内には超高層のスカイスクレーパーの只中にポコンと空隙があり、それがカトリックの教会だということがしばしばある。ボザール様式で建てられた比較的新しいセント・バーソロミュー教会も例外ではなく、金融関係の超高層ビルが林立するパークアヴェニュー沿いにあってオアシスのような空隙を生み出している。
さてこの「ボザール様式」というものなんだけど、僕もよく知らなかったので調べてみたのだが、フランスの芸術大学「エコール・デ・ボザール」で学んだアメリカの建築学生が、帰国後本国で記念碑的建築に用いた歴史的建築風の意匠を総称して言うらしい。だから西欧の正当的な建築史(ビザンチン、ゴシック、バロック、ロココ等)には存在しない、様式の混在がみられるというわけだ。過去の歴史的意匠を用いることで、権威的建築に相応の風格を与えるのはたやすい。1783年にパリ条約を結び、アメリカが国家として独立して230年と少し。ヨーロッパの諸国と比べよく「歴史が無い」と揶揄されるが、建築の歴史も浅い。その中で国家のシンボルとなる重要建築物に相応の威厳を与えるためにはヨーロッパの意匠を取り込むしかなかったのだ。エコール・デ・ボザールで学んだ米国の若き建築家の卵は、国家の命運を決めかねない建築を学ぶという使命感と重圧のなかで、必死に意匠を学んだに相違ない。なんと目頭が熱くなる話ではないだろうか。
コリント式オーダーのファサード
話が少々脱線したので戻すと、この教会の奇妙は様式の混在に納得する。この教会自体はレンガ造のロマネスク様式だが、ファサードはアカンサスの葉で覆われたコリント式オーダーをもつ大理石の柱が必要以上に林立するマニエリスム的バロック様式である。
ファサードだけ異種のものを取りつけたのは、恐らく金融ビルのひしめく街路に面してロマネスクじゃちと物足りない、でも資金が無いから全面大理石は不可だ、ならファサードだけでも豪華にしまっせ、というところではないだろうか。
金が物言うマンハッタンにおいて様式の混在を認めるボザール様式は、経済的理由からも迎合されたと考えて間違いないだろう。ヨーロッパは様式の逸脱に厳しいが、星条旗の下に集った多国籍軍アメリカらしい様式、それがボザール様式なのだ。
Helmsley Building / Warren and Wetmore (1929)
ウォレン&ウェットモアによるこのボザール様式のヘルムズリ―ビルは、今見たら笑ってしまうほどヒロイックなものだが、妻は「いっそ清々しい」と評価。パークアヴェニューの突き当たりに位置し、建物に穿たれた2つのローマ風ヴォールトからは車が往来する。メットライフビル(旧パンナムビル)が建設されるまで、グランドセントラル駅直結の複合ランドマークビルとして名声を轟かせた。
Grand Central Terminal / Warren and Wetmore (1913)
古典主義風ボザール様式で建てられたこのニューヨークを代表する駅舎、グランドセントラル駅は1871年に開業し、ヘルムズリ―ビルの設計者、ウォレン&ウェットモアによる改修を経て現在の建物になり1世紀の歴史を有する。プラットホームは全て地下に組み込まれ、往年の巨大なコンコースは役割を終えていると言っても過言ではないが、そのシンボリックな性格ゆえニューヨークの記念碑的建物として現在も多くの人が訪れる。天井には星座が描かれているというのは日本の公共建築で見かけることがまずない意匠。これは粋だ。グランドセントラル駅、“Grand”との呼称は伊達じゃない。
地下1階は「ダイニングコンコース」と称されるフードコートとなっている。東京駅や新宿駅でこういうフードコートって見かけないけど、日本はその代わりにコンビニがある。フードコートを歩き回りながら尋常じゃない小梁の数を見て、コンコースの想定荷重を想像したりした。
グランドセントラル駅を見終わり、地下鉄6番線で昨日グッゲンハイムに行ったのと同じ86番駅で降車。グッゲンハイム美術館とノイエ・ガレリエは目と鼻の先の距離なのだが、日程の都合上同日はできなかった。
Neue Galerie
ここできょうこ氏と合流。開館前にも関わらず美術館前には長蛇の列。人気の高さが伺える。ここでの目玉はグスタフ・クリムト作「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像I」である。
ナチスに接収されたのち、オーストリアからアメリカに住む元々の持主マリアの下にに返還される経緯はドキュメンタリー映画「黄金のアデーレ 名画の帰還」にもなり、絵画は現在この美術館に収蔵されている。当時、絵画史上最高額となる156億円(1億3500万ドル)でドナルド・ローダーに売却されたことでも有名になった。
ドイツ・オーストリアの近代の作品を主に展示する美術館というアメリカでも特殊な性格のこの美術館、館内は撮影禁止なので文面だけの紹介となるんだけど、いやはやクリムト美術館じゃないかってくらいクリムトの作品を所有している。そしてアデーレは割と近くまで寄って観られるんだけど、ほんとうにうっとりするような絵だ。恍惚とも慈愛ともいえぬ奥深い表情に、そこはかとなくチラつく死の匂い。金箔のパターンもモダンで、時代を超えた普遍的な美しさがあり、観ていて飽きない。しかし156億か〜。
またこの美術館は家具や工芸品も多数収蔵し、ニューヨークに居ながら19世紀のウィーンの絢爛な雰囲気を味わえる。メンデルゾーンのアインシュタイン塔の模型や、パースなども収蔵していた。
ミースの有名なスカイスクレーパーのドローイングも実物があったが、想像以上にでかい。まさかこんなところで見ることができるとは。
ノイエ・ガレリエ1階のラウンジで昼食を済ませた後、一行はメトロポリタン美術館を目指した。
Metropolitan Museum of Art (MET)
大英帝国博物館、ルーブル美術館と共に世界3大美術館に数えられる巨大な美術館で、本当に途方もなく広い。1日で回るのは不可能に近いと言われているが、ここは3時間程度しかみることができないので、急ぎ足で回ることにした。
このデンドゥール神殿などは実際にエジプトから寄贈されたものを運搬し、専用の室まで設えてしまった目玉の展示品。さすがメリケン、やることのスケールが違う。
エレクテイオンのような人柱彫刻。寄木細工も精緻で素晴らしい。
ミニマリズムの代表的な芸術家で、建築家にもファンが多いドナルド・ジャッドのステンレスの箱。間に挟んだ板の角度と位置を動かすだけで実に多様な表情を生み出している。クールだ。
エルズワース・ケリーの「イン・メモリアム」という作品。鮮やかな色彩に塗ったキャンバスを並べた作品。
アモルとプシュケー。大理石の艶やかな表情とダイナミックな構図、無上の愛を讃えた作品。全く個人的なことだけど、毎年趣味で描いているクジラの名前はギリシア神話の女神から採用していて、今年のクジラはこのプシュケーからいただいている。その関係でアモルとプシュケーの像はよく見ていたので、見た時もすぐにわかった。
スーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」。あれ、この作品ってもっと大きくなかったけ?と思ったら、習作だそうで、本作はシカゴ美術館で門外不出となっているそうだ。また写真には撮らなかったが、エジプトの芸術品・装飾品・葬送品なんか見ていると人間がどこから来て、どこへ行こうとしているのか、つい考えてしまった。
全体の1/4程度しか見ていないような気もするが、へとへとになったのでホテルに戻ることにした。
外は日が落ちて、夕闇が支配していた。それにしても本当によくこのセントラルパーク沿いは冷たい風が吹き抜ける。
ちなみにどのくらい広いのか、まずはベタに東京ドームと比べてみよう。
うん、1.5個分といったところか。
次は大学在学中にアホみたいに広いと思っていたイーアスつくば。
おお、これはいい勝負してる。
最後に、日本一の展示面積を誇る国立新美術館と鳥瞰パースで比べてみよう。
そうか。
いやはや、スケールが違った。今度来るときは丸1日回れるように準備していこう。
(4日目に続く)
ニューヨークの建築、アートめぐり(4日目)
4日目はきょうこ氏とエンパイアステートビルの前で待ち合わせたが、僕らも彼女も遅刻してしまい、エンパイアステートビル展望台の列で合流することになった。「待ち合わせに間に合わない」と慌てていた妻も、相手の方が遅れるとわかり余裕が出たのか、スタバでカフェラテを購入。冷えた手を温めながら、僕らは建物へのんびり歩いていった。
Empire State Building / Shreve, Lamb & Harmon (1931)
エンパイアステートビルに上るというのは、ベタだけど、実のところかなり楽しみにしていた。マンハッタンという島の地理を理解するのには、最も高いところから眺めるのが一番だというのと、旅行においてその「ベタな物語」を体験することはそれなりに意味があることだと思っているからだ。古典文学を読んだり名画を鑑賞するのと同様に、有名な景色とか体験は、自分と世界をつなげる手立てとなる。ローマにあるスペイン広場でアイスを食べ、真実の口に手を挟まれる真似をした人ならわかる、あの感覚だ。
さすが観光地だけあって、早朝にも関わらずチケット売り場は45分待ちだった。前2日が洒脱な場所しか行かなかったので、この成金趣味の、ちょっとした遊園地のアトラクションの列にぞろぞろと並ぶような感覚は悪くない。
ちなみに同ビルは2015 Worldwide Attraction Awardsという優れたアトラクションに与えられる賞において「最優秀展望台」賞を受賞したそうだ。僕らが行った後に受賞が発表されているため、現在ではこのとき以上に並ぶだろう。あらかじめ前売券を買っておくことをおすすめする。
エンパイアステートビルの建設現場で休憩する労働者たち(1930頃,Reutersより)
さてこのエンパイアステートビル、102階、443.2mもあるとんでもなく高いビルだが、1929年に着工、1931年に竣工という、実に2年間という恐ろしく短期間で建てられたビルでもある。徹底した合理化と省力化が図られ、例えば床スラブができるとそこにレールを敷いて台車で外壁材やサッシを運搬し、資材搬送の手間を省いたなど様々な工夫がなされたようだ。この辺りの説明は、ぜひ現地で音声ガイド(日本語)を借りて聞いてほしい。
集積回路のように規則正しい街区に様々な形のビルが整然と並んでいる。
島の南側でひときわ高いビルが1WTCで崩落した世界貿易センタービルの跡地の脇に建つ。写真右側にある小さな三角形が自由の女神だ。とても小さい。
東側を眺めていて、あの建設中のビル曲がってね?と思って後で調べたところ、SHoP Architects設計による626 First Avenueというビルだそうだ。2棟がそれぞれX軸、Y軸方向に屈曲しているという。イーストリバーから見える新たなアイコン建築となりそうな、アクロバティックな建築である。
北側遠望。数多のビルが建っているが、その中でもひときわ目を引くのはやはり2日目に見た432 Park Avenueだ。(写真やや右奥)
ところで、マンハッタンの建物は固有名詞でなく、街区の番号がつけられている場合が多い。2日目に見たOne57、601 Lexington Avenueなどが主な例だ。もともとは「○○(企業名)タワー」と名づけられているビルも、街区名称に改称されているケースもある(IBMビル→590 Madison Avenue、等)。常に超高層ビルの建設が続き、建物が売却され所有者が変わることが多いマンハッタンでは、地番と建物名を揃えることは理に適っている。
島の西側では新たに傾斜した超高層ビルが建設中だ。このビルは10 Hudson YardsというKPF設計のオフィスだが、これについては5日目に触れたい。
やはりこうやって360°見渡すと、狭い島ながら現在でも活発に開発が進行していることがわかる。ニューヨークはやはり動的でダイナミックな都市だと確認できた。超高層ビルの展望台に行けた収穫は大きい。
エンパイアステートビルを後にした僕らは、5th Avenueを南に歩いていった。しばらく歩くと左手に刺激的な文字の書いてある建物が見えてきた。
その名も「セックス博物館」。1階をミュージアムショップ、2〜4階を博物館として運営しているこの刺激的な建物は、歓楽街にひっそりと佇むでもなく、やけに堂々としたファサードでファッショナブルな性生活を明るく提唱している。扉の把手が「X」字になっているのも凝った意匠だ。
店内は清潔感のある白色にまとめられ、セルフプレジャーグッズから各種コンドーム、ヌード写真集などなどがオシャレに陳列されている。
1階の店舗を一通り見た後、2〜4階のミュージアムに足を運ぶ。
展示品はさしたる貴重なものはなさそうで、セックスにまつわるカートゥーンや映像、オブジェが薄暗い室内に並べられている。日本で言うところの珍宝館、つまり性交渉にまつわる考現学資料館である。なるほど、なるほど。
最後はなぜかパスポートを提示させられ、器物損壊について当館は責任を負いません的な書類にサインを求められた。何事かと思いつつ狭い通路を進むと、そこには床や壁に巨大な○○○が!・・・あまりにバカバカしくて笑った。何があるかはご自身の目で確かめていただきたい。
この性に関する過激(?)なミュージアムがニューヨークのど真ん中にあるという現象は、ニューヨークの懐の深さを図らずも思い知らされた。もちろんこういった施設の存在を不快に思う人もいるだろうし、アメリカは日本以上にポルノメディアに対する風当たりが強いと聞くが、是非がんばって反旗の狼煙を上げ続けてほしい。欲を言えば、よりよいキュレーターに展示品のキュレーションをお願いしたい。
Flatiron Building / Daniel Burnham (1902)
フラットアイアンビルはマンハッタンでは珍しいその立地特性と、ボザール様式によって端正に整えられた容姿から、マンハッタンを象徴するビルとして110年以上この地に佇んでいる。「フラットアイアン」という名称はこの建築が鉄骨造であることからきていると思っていたのだが、調べてみるとこの土地がもともと「フラットアイアン」との愛称で呼ばれており、このビルが建つまで開発されることはなかったという。シカゴ派のダニエル・バーナムがこの地に建物のデザインを依頼されて用いたのは、ボザール様式、それもモダニズムとネオクラシックを融合させた斬新なものだった。先端は細くわずか2mほどしかないにもかかわらずゴツい装飾的な石で覆うため、特に納まりに配慮したようだ。彎曲した上げ下げサッシなど施工も困難だったと思う。
建設中(Wikipediaより)
先端内観(Wikipediaより)
ちなみに内部からみるとこのようになっている。マンハッタン島に浮かぶこの船の舳先は、ダイナミックに変わりゆく街を見つめていたのだろう。
Limelight Market Place(Limelight Shops)
教会をリノベーションした吹き抜けのある市場というので見に行ったが、内部は天井が張られた普通の店舗になっていて、どうやら再改装されてしまったようだ。
これが見たかっただけに残念。
昼は日本食が恋しくなったので、大戸屋に入った。アジア系の店員が「イラッサイマセー」と元気よく挨拶するのに面喰いながら、古民家風の階段を上る。日本では普通の和食ファミレスチェーンでも、NYでは少々割高になるが、その代わりボリュームも1.3倍くらいあり腹一杯になる。
日本食は割高でも人気のようで、僕らも20分ほど待った。きょうこ氏によるとラーメンの一風堂、焼き肉の牛角などはとても人気で、なかなか入れないらしい。
お腹を満たした僕ら一行は地下鉄に乗り、ニューミュージアムに向かった。
New Museum of Contemporary Art / SANAA (2007)
SANAA(西沢立衛・妹島和世)による現代アートを展示するニューミュージアムは、この旅で特に見たかった建物のひとつだ。様々な形のボックスを積んだような外観は色彩の派手さも形態の突飛さもないが、都市におけるアイコンのひとつとして定着している。外壁はアルミパネルの上にエキスパンドメタルを組み合わせた二重皮膜になっていて、1階はガラスのカーテンウォールで解放されている以外はほとんど閉じている。GAJapan90(2008年1・2月号)の対談で「倉庫をラフに積む」と表現していたが、まだ価値の定まっていない作品を展示する質素な箱を垂直に積み上げたような肩肘張らない「ラフさ」はMoMAやメトロポリタンにはないアートの「新しさ」に建築が寄り添っていると言ってもいい。
僕らはまずEVで最上階まで上がり、そこから徐々に降りることにした。NYで訪れた他の美術館同様に、展示室に順路はない。
美術館の展示方式は順路があるか無いか大きく2つに分けられる。企画展などはベルトコンベアで運ばれるように順路に従って展示品を観賞することで、キュレーターの意図したストーリーを読み解く。明快で全ての作品を見落としなく見ることができるという利点もあるが、退屈な作品もずっと眺めていたい作品も同じような速度で観賞することを強要される。その点で順路が無いものはいつまでも好きな作品の前にいても良いし、一通り見終わった後で戻ることもできるし、興味のない作品ばかりなら展示室に入らなくてもよい。後者の方がよりアートに対する主体性が求められる。この美術館は後者に属する。
EVで上がった7階は屋上に出ることができた。この上は機械室となっている。
バルコニーは部屋内側に排水溝を持ってきているけど、逆勾配はリスキーで普通あまりやらない。また外壁面をよく見ると、エキスパンドメタルはアルミの外壁から持出し金物でリベット留めされている。
サッシ周りの排水溝とAC吹出口、鉄骨の納まりはさすがSANAA。シュッとしている。鉄骨背面の吹出口はさすがにフェイクかな。
6階はオフィスなので5階へ。ぺリメーターの納まりもきれいだ。
非常階段を下りて下階のギャラリーへ。非常階段といえど主要な動線部であるのに、蛍光灯はむき出し、床もモルタル仕上と建築でいえばやや“粗末な”仕上だ。あえて割り切ることで、バラック感、いわば倉庫リノベーションの延長をここでやろうとしているように思える。高価な美術品を納める宮殿がオーセンティックな美術館の姿ならば、まだ価値の定まらない前衛アートを納める箱は倉庫の方が似合う。
階高の高い展示室はジム・ショー(Jim Shaw)という社会派ビジュアルアーティストの個展を行っていた。
1階へ下りる階段は狭く、ボリュームの隙間にいるようだ。こういった建築的な空間が1か所でもなければ、本当に機械的な箱になってしまう。
エキスパンドメタルを張ってつくられた書棚は透け感が美しい。書棚にエキスパンドメタルを張ろうなんてなかなか思いつくもんじゃない。
ボリュームを重ねた外観に反して、内部からそのダイナミズムを感じられるようにはなっていなかったのはやや予想外で残念だったが、アートと対峙するときに、建築とアートの相互侵犯的な関係性を持たせるべきかというのは常に課題になる。その意味では象徴的な吹き抜けを有するMoMAと対極にあり、内側からは建築の個性を抹消するような手続きとし、外側からは周囲と調和しつつ単調にならないオブジェとして練り上げた結果がこのニューミュージアムの姿だとすると、落とし所として納得できる。ニューミュージアムは決して完成された建築ではないが、両腕を失ったがゆえに無限の存在へと昇華されたミロのヴィーナスのごとく、アート、すなわち人間の想像力に天井が無いことを示すプロトタイプになりえる。それは連綿と続く人間の営為そのものであり、営為の一端にこの美術館があるといっても決して言い過ぎではないだろう。
一行は今日最後の目的地、MoMA PS1を目指した。
Spring St駅から6番線に乗ってGrand Central駅に行き、7番線に乗り換えてCourt Sq駅で降りた時には辺りは夕闇が立ち込めていた。
22-22 Jackson Avenue / ODA (2016)
MoMA PS1の通りを挟んで向かいにちょっと変わった建物があった。ODAという事務所が設計した22-22ジャクソンアヴェニューという建物で、コンドミニアムのようだ。まだ1階は内装仕上中だが、明快なコンセプトが一見してわかるというのは清々しい。
MoMA PS1 (1971)
もともと学校であった建物をリノベーションしてMoMAの別館にしたのがMoMA PS1だ。PSとはPublic Schoolの略らしい。MoMAが近代アートの殿堂なら、こちらのPS1は現代アートを取り扱う。そのため、先ほどのニューミュージアム同様にラフな建物だ。
黒板には館内のマップがラフに描かれている。黒板という学校のモティーフをうまく利用するのも校舎リノベーションの醍醐味だ。
わずか50歳でこの世を去ったスコット・バートン(Scott Burton)の椅子の部屋。
人型作品のコーナー。人の形というのは心理的にクるものがある。
絵画かと思って角を見たらピースが嵌めこまれている立体作品。凝っている。
僕の好きな建築家・思想家レヴェウス・ウッズのドローイングと立体作品。立体は初めて見たので興奮した。うーん、かっこいい。
土産物にある建物の置物をグリッド状に並べ、比喩的にマンハッタンの都市批判をする作品(だと思う。かわいい)
現代アートというのは社会的背景や芸術史を含む歴史一般の知識を総動員しないと読めない難解な作品が多いため、大量に見ると脳の情報処理が追いつかず「かわいい」とか「かっこいい」とか小学生並みの感想しか言わなくなるので注意が必要である。
古典的な芸術に比べ価値基準や制作・表現方法が多様化し表現の幅が広がった一方、価値が現在進行形で流動するのが現代アートだ。ある批評家は「現代アート作品としてギャラリーに展示されている9割はゴミ」と評したが、現代アートの価値は今を生きる我々によってまさに見出されるものだ。それゆえ価値が定まり安心して見ることができる芸術作品に比べ難解だと言われるが、逆に言えば僕らがコミットする余地が全然あるということだ。そこには希望がある。
駆け込みで入り閉館まで見尽くしたが、非常に濃密な時間を過ごすことができた。
2つの美術館をハシゴして現代アート作品群にふれたせいで食傷気味になったためか、夕飯は再度和食をセレクト。きょうこ氏に連れられて入ったのは「にっぽり」という店で、ラーメンとんかつ寿司餃子(和食?)なんでもこいの素敵なお店だった。日本食が恋しくなれば是非こちらのお店へ。
http://www.nipporinewyork.com/
2日間アテンドしてくれたきょうこ氏ともこれにてお別れ。僕らは彼女に感謝を言いホテルへ戻り、彼女は翌日ボストンへと戻っていった。
(5日目に続く)
ニューヨークの建築、アートめぐり(5日目)
ニューヨークの朝は寒い。特にこの日は最低気温が-10℃とかなり冷え込み、外に出ると風が吹き付け、思わず手をポケットに引っ込めた。ニューヨークはこの日から始業する企業も多く、朝の人通りも多かった。僕らはPark Avenueを通ってGrand Central駅まで歩き、そこから6番線に乗りBrooklyn Bridge - City Hall駅まで向かった。第一の目的地は探すまでもなく、駅から出た僕らの眼前にそびえ立っていた。
New York by Gehry / Frank O Gehry (2010)
建築家フランク・O・ゲーリーがマンハッタンで挑んだ初の超高層ビルは、ドレープのような優雅な外皮を持つダウンタウンの高級コンドミニアムである。その名もズバリ「ニューヨーク・バイ・ゲーリー」。そのフォルムは、一見既存の建物の概念を打ち壊す、彫刻的で個人的私情による奔放なものに見えるが、実のところ極めてシステマティックな設計手法によってデザインされている。形態・工法においてBIMを活用し、例えば外装のステンレスパネルは割付を数万通りのヴァーチャルスタディを行い、基本的なパネルと数枚の変形パネルのみによって構成している。複雑で優美な意匠を、テクノロジーを駆使して限られた予算の中で生み出すという、まさに21世紀のデザイナーの仕事だ。東京ミッドタウン内にある21_21 Design Sightでやっていた「フランク・O・ゲーリー展」で予習していなければ、この仕事の凄さが理解できなかったに違いない。
基壇部は周囲のレンガ造のビルに色彩と形態を合わせており、アイレベルでは街並みに馴染んでいる。
ステンレスパネルの拡大。これで各階施工図を起こすとか信じられない。900戸全プラン違いそうだ。凄まじい。頭がおかしい。(褒めてる)
背面は完全に割り切り、ストレートな裁ち落しとしている。全体がぐにゃぐにゃしている訳ではなかった。
公開空地の看板と公開空地。マンハッタンにも総合設計制度みたいなものがあるのか。
などと興奮して四方から写真を撮る僕とは対照的に、妻はただただ寒そうだったため、もっと眺めていたい気持ちを抑えつつ僕らはその場を後にした。
WTC / Skidmore, Owings & Merrill 他 (建設中)
copyright of Aman Zafar
2001年9月11日のその日、中学生だった僕はテレビで映された光景に戦慄したのを覚えている。2棟の細長いビルが煙を出していた。あれは確か英語の教材の表紙に描かれてあったやつだ、とわかった。その直後に起こったことは誰もが知る歴史的事件となった。あれから15年、僕はその黒々とした深淵を覗いている。ぽっかりと穿たれた虚ろな二つの穴には、多くの流された涙のごとき滝が流れ落ち、その周囲を延々と取り囲む黒い石碑には多くの名前が刻まれていた。ニューヨークでは2,763名が命を落とした。
かつて日系人建築家ミノル・ヤマサキが手がけたツインタワーがあった場所は「グラウンド・ゼロ(爆心地)」と呼ばれ、跡地にはメモリアル施設と7つの塔が計画された。国際コンペでマスタープランを勝ち取ったのは米国の建築家ダニエル・リベスキンドで、「フリーダムタワー」と称する自由の女神像を象ったビルを中心に据えた計画だった。このコンペ後に様々な方向からの圧力と思惑が働き、主に収益性に劣るという理由でフリーダムタワーの計画は米国最大の組織設計事務所であるSOMが引継ぎ、リベスキンドは降板させられてしまう(この辺りの経緯はWikipediaの「1ワールドトレードセンター」に詳しく書かれている)。
一方、ツインタワーのフットプリントではランドスケープコンペが実施され、KPFから独立した若き建築家マイケル・アラッド(Michael Arad)の提案が5,201案中1等に選ばれ実現した。彼が"Reflecting Absence(不在の反映)"と呼んだ2つのヴォイドは黒の大理石で覆われ、滝が流れ落ちている。あぁここは、とてつもなく大きな墓なんだ、と思った。日本でも欧米でも墓石にしばしば黒色の石を使うが、それが引き伸ばされ反転している。マンハッタンは超高層ビルが象徴する文明の極致であるが、ここでは超高層が消え、代わりに地面が抉られている。つまりここは文明の象徴のネガであり、一度死に絶えた都市そのものの墓標なのだ。一度死んだ都市を囲むように新たな都市を築くこと、破壊と再生、不死鳥のごとき崇高な都市と理念の勝利、それがグラウンド・ゼロで描かれた都市計画のストーリーだろう。巨大な空洞を眺めながらそんな空想に浸っていると、隣で犠牲者の家族と思われる人たちが石に刻まれた名前に花を差していった。
僕はたちまち言葉を失った。都市の墓標であると同時に、犠牲者の家族にとってここは愛する家族の墓でもあるのだ。こんな単純な事実をなぜ忘れていたんだろう。
コンペ案(左、skyscrapercity.comより)と実現した1WTC(右)
自由の女神からスーパーマンへの《変身》
フリーダムタワーに代わってSOMが手がけた1WTCはアメリカンマッチョイズムの象徴、つまりスーパーマンである。テロには報復を、破壊にはより強力な再生を、そんな機運が21世紀初頭のアメリカでは渦巻いていた。安藤忠雄氏はWTC跡地に高層ビルを建てない地下のメモリアル施設を提案していたが相手にされなかった。アメリカにとっては辛気臭く感傷的な安藤氏の提案よりも、「テロリズムに屈しない」国家再生の象徴たるスーパーマンが欲しかったという健全な建前に加え、テロによる建物・インフラ・サービスの復旧及び開発による投資の増強、そしてアフガン報復戦争をはじめ国際的に金が流動するための資金調達という経済的理由より、延床面積を増やし収益性の高いビルを建設しなければ「元をとれない」という本音がある。もとより世界的にも極めて地価が高いマンハッタンの南端にあって、その空を使わないのは投資家にとってみれば「金をドブに捨てるようなもの」なのだ。マンハッタンの都市景観が経済原理によってつくられていく過程はレム・コールハース著の『錯乱のニューヨーク』に克明に記されているが、リベスキンドのしなやかな「自由の女神」がSOMの「スーパーマン」に《変身》した一連の経緯はアメリカの筋肉質な国家思想そのものが投影されているように思える。だからマッチョなのだ、この国は。
1WTCの隣には既に竣工した7WTCがある。こちらはSOMのデイヴィッド・チャイルズの設計によるもので、さしたる特徴はなく1WTCの露払い役に徹している。足元のステンレス格子パネルくらいしか近づいて眺めるものはない。区画めいっぱいに建てたビルは歩行者の干渉をことごとく拒絶する。つまらないものだ。
WTC Transit Hub / Santiago Calatrava (建設中)
魚の骨のような白い躯体が目に留まった。こんな造形をつくるのは奴しかいない、と思ったらまさにサンティアゴ・カラトラヴァ設計の建物だった。用途は不明だったが、調べてみると地下鉄の乗換駅を含む複合施設らしい。外観はほぼ仕上がっているようで今年中にもオープンしそうな気配ではある。
ところでなぜこの形なのか、説明するのは簡単だ。「カラトラヴァがやったからだ。」それに尽きる。
4WTCは槇文彦氏の設計で完成しているので行こうかと思ったが、妻の顔が寒さと無関心のため硬直してきたので、僕らは次の目的地へ向かうことにした。
予定ではWTC駅に行くつもりだったが入口が見当たらなかったため、隣のPark Pl駅から地下鉄E線に乗って34st駅まで向かった。ここからハイラインまで少々歩く。
James A. Farley Post Office / McKim, Mead & White (1912)
1982年に郵政長官の名が冠されたジェームズ・ファーレー郵便局は1912年竣工、コリント式列柱をもつボザール様式建築で、アメリカの歴史建造物にも指定されている。設計者のマッキム,ミード&ホワイトは19世紀末から20世紀中盤まで活躍したアメリカを代表する建築事務所で、ニューヨークを軸足にボストン・ブルックリン等に多くの記念碑的建築をボザール様式を用いて設計している。それにしても列柱に圧倒された。日本の擬洋風建築とは規模が違う。中には入らなかったが、エレガントなホワイエは見ておくべきだった。
10 Hudson Yards / Kohn Pedersen Fox (建設中)
完成パース(hudsonyardsnewyork.comより)
4日目のエンパイアステートビルから見えたハイラインの始点にまさに建てられようとしているこのガラス張りの超高層は、10ハドソンヤーズと呼称されている。設計はKPFで、主にアパレルブランドのCOACHが入居する予定となっている。一見ありふれたガラスのスカイスクレーパーだが、足元はNYの新名所、ハイラインとつながる。計画ではこの付近一帯が「ハドソンヤーズ」と呼ばれる再開発地区に指定され、オフィス、商業施設、コンドミニアム、ミュージアムを含む六本木ヒルズ・東京ミッドタウン規模の複合開発が予定されている。KPFは日本では六本木ヒルズの外観デザインを手掛けたことで知られるが、大規模都市開発手法を作り上げていく上で森ビルと相互に刺激しあったのだろう。建物の外観もどこか虎ノ門ヒルズに似ている。有名な建築家だけでなく、組織の設計者、デベロッパーなど都市開発に関わる企業を注意深く探っていくと、意外なところで繋がるなど面白い発見がある。
参考:虎ノ門ヒルズ(森ビルより)
ハイラインに入る前に近くの喫茶店で休憩をとった。この店では10ハドソンヤーズの現場で働く作業員の方もよく出入している。妻はカフェラテを、僕はエスプレッソを注文した。寒さでかじかんだ手に温かかった。
The High Line / James Corner Field Operations and Diller Scofidio + Renfro (2009)
何はともあれ、ハイラインだ。もともと貨物鉄道線路として活躍し、廃線とともにスラム化した高架路を「アグリテクチュア(農築)」というコンセプトのもと再生させたハイラインは、ニューヨークの新名所として人気を博している。
僕らは北端のデッキから入った。風はまだ冷たく、のんびり散歩という気分ではなかったが、それでも歩く人は絶えない。
水飲み器やベンチは鉄道・人の流れというコンテクストを意識してデザインされていた。この細部まで行き届いたデザインが、全体の完成度を高めるのに一役買っている。
やがてハイラインでまず一番目に見たかった建物が姿を現した。
HL23 / Neil Denari (2009)
建築家ニール・ディナーリ初の独立した実作であるHL23は都市生活を謳歌するニューヨーカーのための高級アパートメントで、ハイラインにもたれかかるような形で上階が出っ張っている。ニール・ディナーリは東京国際フォーラムの斬新なコンペ案(3等)のほか多数のコンペ案やイメージで知られる建築家で、日本では知る人ぞ知るといった感があるが、数々の大学で教鞭を執りハーバードの客員教授も務める彼は、アメリカではザハやレムと並び賞されるほどの建築家である。僕がニール・ディナーリを知ったのは週活のとき、僕の描いたドローイングをみた当時の面接官(今の会社の課長)が「君の作品はニール・ディナーリのようだ」と評してくれたのがきっかけだった。そんなわけで、この寡作なアーキテクトの建てた実際の建築を見ることはこの旅の密かな楽しみだった。
ハイライン側に面する壁面はステンレス製の凹凸をつけた外装パネルで覆い、皮膚のような表情が与えられている。またガラスのカーテンウォールには内側の斜材を隠すための有機的なブレースのパターンが描かれている。このフェイクが果たして正しいのかどうか正直なところよくわからないけど、建物のニューロンのような有機的なイメージを印象付けるには効果的だ。
立面図(archdiaryより)
驚くことに、この建物はハイラインを越境している。ハイラインの法規上の扱いが気になるところ。
段状になったところは学生らしき人たちが思い思いの時間を過ごしていた。近くに大学があるらしく、そのほかにも複数の建物をハイラインは繋げている。
こうしてみると日本の駅前に数多くつくられた歩車分離のペデストリアンデッキを思い出すけど、日本のそれよりも積極的に使われている感じがする。「駅への動線」にしてしまうと実用重視で慌しく走る人なんかもいる殺伐とした場所になることが多いが、ここは純然たる観光地として作られているために、行きかう人々ものんびりと歩き、スマホで植物や風景を撮ったりしている。何よりウッドデッキというのが足にも見た目にも心地よい。
またニューヨークの街路にはどこでも必ずゴミが落ちているが、ハイラインにはゴミがほとんど落ちていなかった。デザインは人の振る舞いを左右するのだ。
しばらくすると第2、第3の目的の建築が見えてきたが、妻は寒いからチェルシーマーケットに行くというので、僕らは1時間ほど別行動をすることにした。
IAC Building / Frank O Gehry (2007)
今日2回目のゲーリーは、ドレープのようなひだをもつ白いかぼちゃのようなビルだ。もともと外装をチタンで考えていたらしいが、クライアントの意向で全面ガラス張りに変更された。白い部分は外装パネルではなく、全てガラスにシートを貼っている。サッシではなくドットプリントのグラデーションによって透明/不透明部分を生み出すことで、「窓」の概念に挑戦しているようにもみえる。もしくはガラス、サッシ、外壁で区分された建築の構成要素に対するアンチテーゼかもしれない。しかし、このガラス割はよくつくったと思う。
せっかくなので中に入ってみたが、突飛なアトリウムや複雑な内装があるわけではなく、オーソドックスなロビーだった。特殊な外装に資金を使い果たしたとみえる。とはいえ外観が攻めに攻めているため、基準階の家具配置も機械的な配置ではなく面白いことをしているようだ。
100 Eleventh Avenue / Jean Nouvel (2010)
フランスの建築家ジャン・ヌーベルが設計した23階建てのアパート、100イレヴンスアヴェニューはIACビルの隣に建っている。ゲーリーの隣にヌーベルとは、また凄い組合せだ。
特筆すべきファサードは窓枠をモンドリアン風に重ねたようなもので、数種類の色のガラスが嵌められている。それも微妙にずらしながら配置されるため、表情は近代的なビルにありがちなのっぺりとした冷たさがない。
窓枠のアップ。ねじれたような窓枠に加え、ガラスの面もランダムにねじれている。隙間のシールはやや甘い。恐らくいくつかの単位で構成されているみたいだが、同じサイズでもガラスの出入りが違うなど、いくつのサッシがあるのかぱっと見てわからない。
せり出した窓枠は小口にパネルが貼られ、裏の鉄骨下地で支えられている。鉄骨も相欠きでボルトで留められており、見附幅は窓枠と揃えられている。さすがに見せ場だけあってディテールに抜かりがない。
見上げれば植栽のポットが浮いている。自動灌水はあるんだろうか。外壁も内壁も天井もサッシで気が狂いそう(笑)
裏側はレンガタイルで覆われ、モダンなファサードと対照をなしている。
これだけ個性の強いファサードをもちながら、米LEED(日本でいうCASBEE)認証ビルというのが凄い。
再びハイラインに戻る。まだ妻と合流するには時間があるので、少し先のホテルを見に行くことにした。
ハイラインにはいくつかの建物が跨っている。その中をすり抜けていくとまた青空が広がる。なるほど、このシークェンスは飽きない。
一段下がった部分にはハドソン川を望むカフェテラスがある。春や秋に一息つくには最高のロケーションだ。
枕木でできたビーチチェア。線路の上に跨り、飾りの車輪がついている。この演出がにくい。
The Standard Hotel High Line / Ennead Architects (2009)
ザ・スタンダードホテルがNYで目を付けた土地は、なんとハイラインの上だった。ジェームズ・ポルシェック率いるエンニード・アーキテクツはこの困難な立地を逆手にとり、コルビュジエのマニフェストを受け継ぎつつ、現代的な方法でハイライン上のホテルを築いた。ガラスのカーテンウォールによって開放された外壁面は、2色のカーテンを交互に配することでこの手のビルにありがちな硬直性を回避し不均質なファサードを生み出している。意図的に表層を操作をするのではなく、使い手のカーテンの引っ張り具合をそのままファサードにするというのは斬新で面白い。
このカーテンの効果を最大限に生かすために、スラブは外観に影響しないよう極力薄く作られている。こんな薄くて二重床は考えにくいが、ホテルで直床は遮音性能上ありえない。仮にスラブ150mm、置床100mm、天井100mmとしても350mmは必要。うーんと思い室内画像を検索すると、カーテンボックスが折上がり、床は立ち上がりなしということが判明。カーテンファサードのためのディテール、とても納得した。高所恐怖症だったら足がすくみそうな部屋だ。
室内画像(Tripadvisorより)とネタ記事
このハイラインとハドソン川を望む眺めは魅力的だが、逆にハイラインを歩く観光者からも見られているということには注意しなければならない。現地のサイトではオープン直後にネタにされていた。
妻とチェルシーマーケットで待ち合わせたが、ハイラインから入ることはできず一旦地上に降りた。チェルシーマーケットは古い倉庫をリノベーションした商業施設で、飲食店からグッズショップまで幅広く取り扱っている。彼女はめぼしい店を見つけていて、二人で2種類のスープを買い建物内の腰掛石に座って飲んだ。英国風クラムチャウダーとロブスターのスープだった。冷えきった身体に熱いスープがありがたかった。そしてとてもうまい。
外には安藤忠雄氏が内装を手掛けた「Morimoto」があるが、予約なしでは入れないというほどの人気店。のれんのはためき具合からこの日の気候がよくわかる。寒い。
またハイラインに上り、先ほどのスタンダードホテルを過ぎるとデッキが途切れている。楽しいハイライン散策も終わり、いよいよハイラインの終点、ホイットニー美術館に到着した。
Whitney Museum / Renzo Piano (2015)
昨年5月にオープンしたばかりのホイットニー美術館、設計はレンゾ・ピアノで、パリのポンピドゥー・センターや銀座のエルメス、関西国際空港なんかで日本人にはなじみのある外国人建築家のひとりだ。旧館はマルセル・ブロイヤーが手掛けた段状のファサードが象徴的な建物だったが、新館もその段状を踏襲しつつ斜めにずらしたりホワイエの天井を斜めにしたりと複雑な形態になっている。1階を支えるのは細いCFTの柱、ロッドで吊られたガラスのカーテンウォールは透明で、どちらも高度なエンジニアリングの賜物だ。
細枠の回転ドア
ニューヨークと回転ドア
余談だが、ニューヨークの大規模な建物のエントランスには回転ドアが多い。ホイットニー美術館、シーグラムビル、エンパイアステートビルetc...大型施設の9割以上は回転ドアを採用していた。気になって少し調べてみると①建物内部の熱の損失を防ぐため、②風圧で開かないことがない、③防犯のため の3つの理由からきているそうだ。4枚の回転扉は外部と内部が必ず1回断絶されるため、暖かい空気が外部に逃げにくいのに加え、冷たい風が内部に吹き込むということはない。また超高層ビルの足元で起こりやすいビル風によって開閉に支障をきたすこともないので、マンハッタンに適している。そして回転ドアは一度に多くの人間が出入できない・素早く出ることができないため、犯罪者が逃走しづらいという。そのメリットの反面、火災時なんかの避難も遅くなるわけだが、そのときはハリウッド映画でよく見る「体当たりでガラスをブチ破る」という奥の手があるので特に問題ないのだろう。(最近のビルは二重ガラスだから破るのは難しそうだ。)
日本のビルは風除室を設けて両引きの自動ドアを2組設けるのが一般的となり、回転ドアは普及しなかった。それでも優れた気密性のために大型ビルやドーム建築などでしばしば用いられてきたが、2004年に六本木ヒルズで起きた挟まれ事故の影響もあり、回転ドアはますます敬遠されてしまった。また同じ米国でも西海岸の方は、回転ドアの方が珍しいようだ。
グロピウスが提唱した「インターナショナルスタイル(=世界中どこでも同じビル)」も、細部に土地柄が滲み出す。そうした細部を拾っていくのも建物の見方のひとつだ。
こちらも階ごとに異なる展示を行っているようなので、まずはニューミュージアム(4日目)同様にエレベーターで最上階に上る。
建物はところどころ外部に出られるようになっており、ハイラインやハドソン川、ダウンタウンが見渡せる。先ほどのザ・スタンダードホテルもよく見えた。
最上階の常設展はポロック、ワイエス、イサム・ノグチ他様々な近現代アート作品がみられる。ここホイットニーは特にアメリカンアートを中心にコレクションしており、そのあたりの知識が薄いと難しいところもあるが、やはりエネルギッシュで面白い作品が多い。
こちらの作品は個人のロッカーをキャリーバッグ用のバンドで縛っており、端のロッカーなんかは押しつぶされて使えなくなっている。過剰なセキュリティ社会に対する皮肉だろうか。
ロバート・ゴバーの「Newspaper」という作品。ハッキリ言ってバカにしている(笑)この作家は壁から足だけがはえたような彫刻作品なんかも作っているが、千住博氏も著書『ニューヨーク美術案内』で「わからない」と漏らしている。ただこういう作品を前にすると、否応なく見る側のスタンスが問われる。
チェイニー・トンプソンの作品は機械的なパターンが見えるだけだが、近づいてみると恐ろしい執着で描かれたことに気づく。
こちらの作品なんかただ格子状に筆を走らせただけに見えるが、普通の順序で描くとこのように重ならない。描き方を想像すると、一回描いた後に再度筆を置き、順序を部分的に修正していくほかない。狂気としとか言いようがない。
天井に目をやれば、展示壁を吊るためのレールがグリッド状に仕込まれていることがわかる。展示空間の設計者は作品に引き(全体を見るための距離)をとりつつ緊密に作品群が観賞でき、なおかつ快適に歩行できる距離をとてもうまく設えていた。作品について熟知しないとできないプロの仕事に、頭が下がる思いだ。
下階はフランク・ステラの個展だった。とにかく巨大でエネルギッシュな立体作品が多い彼だが、平面作品はあまり知らなかった。この横長の作品"Damascus Gate (Stretch Variation III)"なんかは観光バスよりも大きく、横幅15mだそうだ。
ゆうに人間のサイズを超える作品を大量に制作するステラだが、ただ廃材を適当に繋げているだけではないことがわかった。溶接、ボルト留めなど、まるで工業製品をつくるような手つきで色とりどりの金属片を組み合わせていくそのプロセスはどこか建築的で、ゲーリーの作品にも通じる奔放さとテクノロジーの融合を予感させる。近年は3Dプリンタ―で作成した有機的な形態を取り入れた作品も登場し、今後ますます注目される作家の一人であることは間違いない。ファンになってしまった。
こうして写真を並べてみても、作品が巨大すぎて人間が逆に模型みたいに見えてしまう。
下に続く階段には数々の電球でできたアートが吊り下がっている。単純だが綺麗だ。単純なものほど心を打つ。
1階まで下りると、ホワイエには夕日が差し込んでいた。西日にはロールスクリーンが役に立つ。
美術館を堪能した僕らは別行動をとることにした。
僕は前日に行く予定だったクーパー・ユニオンに、妻はマリベルのチョコレートを買いに、それぞれ向かった。
One Jackson Square / Kohn Pedersen Fox (2009)
波打つような個性的なファサードを持つワン・ジャクソン・スクエアはKPF設計による高級アパートで、高い部屋では1室2400万ドル(約30億円)ほどするらしい。ひぇー。
地下鉄の壁に容赦なく埋め込まれる配管類。これごと美術館に置いたらアートだな思う。アートだよね?フランク・ステラなら多分そう言うよ。
14St駅から地下鉄L線に乗り14St-Union Sq駅で6番線に乗換え、Astor Pl駅で下車するルートで、クーパー・ユニオンを目指す。Astor Pl駅に着いた時は日が傾き始めていた。
41 Cooper Square / Morphosis (2009)
モーフォシスのトム・メインが手がけたクーパー・ユニオンの校舎、41クーパー・スクエアはその奇矯な姿を目の前に晒していた。ステンレスのパンチングメタルで覆われた外観が夕日に照らされ鈍色に染まる。真ん中にはいびつな深い切り込みが入り、ガラスが覗いている。1階レベルではV字の柱が上階を支え、壁面は斜めのガラスで覆われている。ついに来た、という感慨と興奮、そして徐々に日が沈む寒さで不意に震え上がる。中にはさすがに入れないとしても、外観だけ見たいという一心で、獲物の隙を窺う野良犬のように建物を一周した。
このような端部は通常納まらない場合が多いが、考えて納められている。
裏側は大通り側ほど彫刻的ではないが、それでもパンチングメタルをうまく使って動的に見せている。
側面は搬入出口で、床のスリット側溝が変えられている。壁は杉板型枠をアクセント的に用いていた。
斜めのRC柱はクラックがピシピシ入っている。3次元的にモーメントがかかってるのだろう。無理もない。計算で理論上成立しても、本物の構造物にはあらゆる力学が働き、しかも嘘をつかない。柱の周りには日本みたいに巾木も柵も頭上注意喚起のクッションもない。このおおらかさは好きだが、訴訟大国のアメリカで大丈夫なんだろうか。
上りたくなる絶妙な傾斜。外壁清掃のためのトゲが取り付けられている。
スリット見上げ。型枠には4×4のピーコン穴がある。コンパネもサイズが日本と違うかもしれない。
この建築が画期的なのは、ただ変わった外観や迷宮的なアトリウムをもつということだけではなく、先も出てきたLEEDのプラチナ認証を受けているスーパーエコロジー&エコノミービルだということだ。今後、環境問題に関するトピックは世界的にますます重要な課題として認識されてくる。その中で建築デザインにできることのひとつを、テクノロジーを駆使したサスティナビリティ建築として、41クーパー・スクエアは具体的な形で提示している。
内部の見学は定期的に一般向けツアーがあるらしいので、次は是非その機会を狙っていこう。
The Standard East Village / Carlos Zapata (2008)
41クーパー・スクエアの2軒隣にあるザ・スタンダードホテル・イーストヴィレッジ。この大胆な曲面ガラススクリーン、白いグラデーションを一目見た時「もしかしてヤツ(ゲーリー)か?」と思ったが、違った。建築家の名はカルロス・ザパタというベネズエラ人で、ベトナムのビテクスコ・フィナンシャルタワー(2010)など巨大建築も手掛ける実力派だが、恥ずかしながら存在を全く知らなかった。竣工年からいくとゲーリーのIACビルの1年後なので時期的にパクったとは考えにくいが、それにしてもこのつるんとしたグラフィカルなファサードは雰囲気がよく似ている。ザ・スタンダードホテルというブランドは、世界各地にその土地のコンテクストを生かした個性的なホテルを生み出しているらしいことがわかった。一度泊ってみたい。
一通り見て満足したので、ホテルに戻ることにした。外気温は既に氷点下、超高層ビルが林立する中心部は、絶えずビル風が顔に冷たい息を吹きかける。
ふと、前日の夜にみた光景を思い出した。きょうこ氏と別れホテルに向かう道すがら、ロックフェラーセンター近くに座りこんでいた黒人のホームレスに「おい、腹減ってないか!?」と声をかけた白人は、持っていたマクドナルドの袋ごとそのホームレスに差し出した。ホームレスは「ありがとう」と言いそれを受け取った。そんなやりとりが、まさに目の前で起きたのだ。路上に座る他者に対して、自分はそんな振る舞いができるだろうか、信仰があればできるだろうか、いや恐らくできないだろう。
ニューヨークの冬は寒い。様々な場所から様々な目的を持った様々な人種が集うこの都市でも、冬の寒さをみんな知っている。だからこそ他者に対し温かい、という側面もあるのかもしれない。
僕は都市のこと、アートのことを少しばかり話すことができるが、あの白人のように、あの場で飢えた誰かを救うことができるのか。自問自答は続く。
明日がくればこの都市を去らなければならないが、僕にできるのは、この動的な都市の今の姿について可能な限り記述することくらいだ。
だから記憶し、記録する。
でもあの名も知らぬ白人には、まだ届きそうにない。
(6日目に続く)
ニューヨークの建築・アートめぐり(6日目)
ステファヌ・マラルメは「世界は一冊の書物に到達するために存在する」と言ったが、マンハッタンの章は数ページほど書き足さなくてはならない。
と言いたくなるほどNYの建築とアートにどっぷり浸かった旅行もいよいよ最終日。日本に帰りたくない、仕事したくない、と駄々をこねても始まらないので、手始めに朝5時に起き、ホテルの部屋の実測をした。旅行などでホテルに泊まるときは、吉村順三だったか清家清(忘れた)に倣い、その部屋の図面をラフに描き起こすのを習慣にしている。今回泊まったホテル・エリゼ(Hotel Elysee)はレバーハウスの隣に位置し、中核駅であるGrand Central駅にも徒歩でアクセスできるため、どこに出かけるにも都合がよかった。
全面ミラーのクローゼットは外出前の身支度をサポートするのと同時に、部屋に入ったときの奥行を広く見せる視覚的効果もある。
なぜか入口扉の枠が不定形だった。面積上の都合だろうか。
ベッドルームは落ち着いた雰囲気。アンティーク調の大きなテレビ台はブラウン管用のものがまだ使われていたが、中は液晶テレビだった。これがなければより広く感じそう。
チェックアウトは13時らしいので、午前中のうちに心残りの場所に全て行こうと画策した。開館時間などから最適なルートを割り出し、僕らは行動に移した。
ロックフェラーセンターやエンパイアステートビルと同じ5thアヴェニューに面するセント・パトリック大聖堂は、19世紀に建てられたフランスのゴシック・リバイバルの影響を感じる教会である。ゴシックカテドラルの基本であるラテン十字形のプランに側廊がつき、ファサードにはシンメトリックな双塔を配している。この尖塔の高さは101mとフランスのシャルトル大聖堂より小ぶりだが、有名なノートルダム(69m)よりは全くもって高い。が、実際のところヨーロッパの大聖堂ほど大きく感じられず、むしろこじんまりという印象だったのは、周囲に容赦なく建つ超高層ビルが感覚をマヒさせていたからだ。
ヨーロッパの中世から続く都市は大聖堂とその前の広場を中心とし、その周囲は高さを抑えた街並みが続く。大聖堂は街のシンボル(求心的存在)であり、「どこからでも見える」ことが重要だったし、今でも世界各地の大聖堂の付近は、それより高いビルをなかなか建てない。ビスタの問題もさることながら、教会に影を落としちゃアカンという都市開発側の自制や市民の抵抗も助けていた。しかし、それがここマンハッタンでは逆転し、大聖堂の周囲はそれよりも高いビルに囲まれてしまっている。本来ゴシックの大聖堂とは、キリスト教の教えるところの「神の光」により近づくため、工学の粋を集めて高さの限界に挑んだ最先端の様式である。本当の意味でその意思を継承するのであれば教会も鉄骨の塔状にして、1kmくらいのどこよりも高い尖塔をつけるべきなのだ。
戯言はこの辺にして、内部に入ってみる。
内部はさすがに圧巻だった。シャルトルやアミアンといったフライング・バットレスをもつ大聖堂とは違ってステンドグラスの縦横比が生み出す極端な高さ強調はないが、ブルーのステンドグラスを通して入る光がやさしく降り注ぎ、吊り下げられたオレンジ色の照明と大空間の中で交わり光を落としている。身廊の柱は細いシャフトが束ねられたもので、装飾的なゴシック建築特有のものだ。
ところで、このカテドラルを彩るステンドグラスは聖書の場面を描いている。これは文字が読めない人々に対して聖書の教義と神の威光を説く目的として始まり、やがてステンドグラス自体が光の芸術として昇華された。それゆえにゴシックのカテドラルは「建築化された聖書」とも呼ばれる。
身廊を反対に見たところ。バラ窓の下には後になって設けられたパイプオルガンがある。
天井には石のアーチが幾何学的に走り、頂点にはイエス・キリストを表す「ihs」の文字。ヴォールトを構成する石材もうまく色を散らしている。石の目の向きをよく見るとキリストを中心とした十字架が浮かび上がってくるのは、果たして意図したものだろうか。
ピエタ像。ミケランジェロのピエタ像にインスパイアされたと書いてあった。ミケランジェロのものより大きめ。
ここは朝早くから夜まで開いているが、早朝はすいているのでゆっくりと見学ができる。また暖房もついていて暖かく入場無料と至れり尽くせりだ。また来よう。
教会を見終わった後一度ホテルに戻り、地下鉄6番線で68st駅まで向かった。
セントラルパークに向かって歩んでいくと、高層アパートに囲まれた一角に戸建の大邸宅が見えた。これがまさしくNYで訪れる最後の美術館だ。
Frick Collection
フリック・コレクションは鉄鋼王フリック氏の邸宅を改装してつくられた美術館で、ここが所蔵している画家はベラスケス、ドガ、フェルメール、レンブラント、エル・グレコ、ターナー、ファン・アイク等々、錚々たる顔ぶれだ。地下1階のギャラリーが増築されたほかは当時のままの内装としているらしく、室内の調度品の一部に絵画があるといった趣がある。フリック氏はニューヨークでも有数のパトロンだったが、芸術の審美眼があったのかどうか定かではない。有り余る資産を当時、上流階級で流行していた絵画のコレクションに充てたというのが定説だ。投機的な目的で一流の芸術品を買いあさることは不純に感じるかもしれないが、今日のニューヨークが世界のアートの中心になっているのは彼らが芸術・文化に対し競ってフィーを支払ったからに他ならない。アートと資本は常に表裏一体の共犯関係にある。
下部にある矢印が先ほどのエントランス。この豪邸の広大さがおわかりいただけるだろうか。
館内は写真を撮ることはできないが、中庭は写真OK。この中庭だけでも日本の家なら2,3軒入ってしまう。
フリック・コレクションを堪能した僕らは、先ほどの駅から6番線に乗り、Grand Central駅まで向かった。ここから目的地までは歩いてすぐの場所にある。
New York Public Library / Carrère and Hastings (1911)
ボザール様式で建てられたニューヨーク公共図書館は、誰にでも開かれた知の殿堂として1911年に竣工した。「公立」ではなく「公共」としているのは、この図書館の事業主体がニューヨーク州や市ではなく民間の法人で、寄付によって運営していることに起因する。最も見たかった大閲覧室は2016年秋まで改装のため見学不可だった。行かれる皆さんも注意していただきたい。
こちらの閲覧室の壁には人物画がずらりと並び、さながら美術館のようだ。一昔前は傍らに本を積み上げていたのだろうが、今は各々ノートPCを並べて作業している。
図書館を出て少々時間が余ったので、タイムズスクエアを見て帰ろうということになった。少々距離があったので、僕らは早足気味で歩いた。
ところでニューヨーカーは赤信号でも車が来なければガンガン交差点を渡る。きょうこ氏によると、マンハッタンは東西南北のグリッド状に区画が形成されているため信号が多く、いちいち止まっていられないためだという。ゆえにハリウッド映画によくある緊迫したカーチェイスは信号と渋滞の多いマンハッタンには不向きであるが、ビルの間を縫って飛び回るヒーローの舞台にはもってこいだ。天高くそびえる超高層と交差点の多い街路の狭間で人々が抑圧され、自由に飛び回るヒーローにカタルシスを覚えるというのは自然なことかもしれない。思えばスーパーマンやスパイダーマン、バットマンらの空翔るヒーローの舞台はすべてNYか、NYをモデルにしている(ゴッサムシティはNYの旧別称らしい)。
このあたりのメンタリティは巨大化した敵やヒーローがビルを蹴飛ばしながら戦う日本とは一味違うところだ。
Times Square
タイムズスクエアはアメリカの「渋谷」のような印象で、巨大なモニターがそこかしこに埋め込まれコマーシャルを流している。多くの日系企業が看板を出しているイメージがあったが、今はSAMSUNGやHYUNDAIなど韓国のメーカーが元気のようだ。特にこの一角などは建物の外壁よりモニターの方が多く見えるくらいだ。R.ヴェンチューリが提案したビルボード建築を思い出す。
Robert Venturi "National College Football Hall of Fame" (1967)
このコンペ案は実現しなかったが、建築と情報メディアの相関関係を最も極端な形で提示したヴェンチューリの予言めいたこの作品は、メディアの勝利と建築の敗北という形でタイムズスクエアの広告塔に引き継がれる。
ただ、誰もが自身の手元や身体に情報を集める機器を持つようになった現代、そして未来において、この大量のエネルギーを消費する広告板がいつまで残るかはわからない。
タイムズスクエアを見た後は、ロックフェラーセンターを抜け東に向かった。妻にお土産をお願いし、僕はホテルへ戻り帰り支度を済ませた。妻が戻ると荷物をまとめチェックアウト、空港に向かう地下鉄に乗込んだ。NY到着直後には戸惑った地下鉄も、帰る頃にはマスターしていた。
かなり時間に余裕をみて行動したので、空港で少々時間をもてあましてしまった。
そんなこんなで僕らの濃密な6日間は無事幕を閉じた。寒かったが一日たりとも降雨降雪がなく、かつ危険を感じる場面にも出くわさなかったのは幸甚というほかない。飛行機の中で新年を迎え、さらにNYでも2回目の新年を迎えるという初めての経験をし、建築とアートを味わいつくした経験は生涯忘れることがないだろう。
この旅と、それを即物的に記述する行為を通して、僕自身の思考を整理し、建築と都市において少しばかり考えるきっかけになった。レム・コールハースが『錯乱のニューヨーク』や『S,M,L,XL』で露わにしたドラスティックな都市論の追体験をしたいという気持ちもあったが、やはり世界から人、モノ、金の集まるニューヨークという都市をこの目で見てみたい、という欲求が強かった。「人種のサラダボウル」と称されるこの都市では隣の人が自分と違う人種であるのが当たり前で、彼らは多様性を受け入れつつ、英語と星条旗でフラットに繋がっている。その光景はある意味理想的で、今の日本が抱える排他的な性格に由来する閉塞感や不安とは明快なコントラストがあるようにみえた。とはいえ米国も未だに多くの問題や病理を抱えており、単純ではない。
Jasper Johns "Flag" (1954-55) 公式ページより
ジャスパー・ジョーンズという作家をご存じだろうか。彼は星条旗をモチーフにした絵画を数多く制作しているが、彼の描く星条旗はアメリカの国民が共通して認識する《記号》を芸術作品として画布に置き換えているものだ。これは一見、誰しも想像できる《記号》とその記号が《意味するもの》、シーニュとシニフィアンが都市の中で無条件に増殖していることに対して批判をする。ステレオタイプな見方に対する批判の目は、実は都市、そして都市に生きる僕たちそのものに向けられている。飼いならされた「見方」を強烈に揺さぶるものだ。
都市の中の《記号》によって飼いならされた「見方」は思考を硬直化させ、感情を無表情なものに変えてしまう。
だから僕らは、少なくとも、新しいものを生み出そうとする人は、旅や読書、絵画や音楽、映画、舞台などの芸術鑑賞を通して絶えず自分の世界を拡げていかなくてはならないと思う。
毎日スマホの画面を眺め、他愛のないやり取りを延々と繰り返す間に、あなたの横を過ぎ去った風景は無意味で乾燥したものだっただろうか。実際、この世の中に無意味なものなどなく、全ては緊密に繋がっている。メルロ=ポンティの言葉を借りると、意味は僕らによって「見出される」ものなのだ。
僕がつらつらと書き連ねたこのテクストも、風景に意味を見出し世界を拡げる手続きそのものに他ならない。
MoMA(2日目)、メトロポリタン美術館(3日目)、ホイットニー美術館(5日目)ではジャスパー・ジョーンズの作品に会える。彼の旗の絵は1億ドルほどするので所有するのは困難だが、美術館に行けば日によっては2ドルほどで鑑賞することができる。
アートと建築の街、ニューヨーク。
僕は、また行きたい。
(おわり)
補章:「旅行の設計」のすすめ
今回の5泊7日間のNY旅行では安全かつ貪欲にアートと建築に触れ合うというコンセプトのもと、普段の旅行以上に綿密なスケジュールを組む必要があった。というのも、昨年の夏に行ったシンガポールでは、スケジューリングの甘さからリベスキンドのにょろにょろレジデンスや伊東豊雄氏の緑化ビルを見逃すなど苦い経験をしたのと、不穏な国際情勢のなかでの渡米に不安を抱く両親を安心させるという2つの目的があったためだ。そうした背景から今回導入したのは、「与条件を守りつつ可能な限り安全で快適かつ二人が行きたい場所を最も効率よく導き出すマトリクスを用いたプランニング」である。これは敷地や予算、その他与条件からその場に最適な建物を生み出す建築設計のプロセスを応用したもので、いわば「旅行の設計」だ。
・・・というと何だか凄そうだけど、原理は単純で、旅行好きの人なら似たことを既にやってるかもしれない。
ところが旅行誌やネットなんかを見ても、旅行のコース提案や行程作成アプリは数あれど、行程の組み方そのものの提案はほとんどないことに気づいた。
そこで旅の締めくくりの補章として、僕が今回試みた「旅行の設計」なるものを記したい。
1.「マイマップ」を作成する
Googleが提供する「マイマップ」は仮想のマップ上にピンを立て、保存・共有できるサービスだ。2015年秋に携帯アプリからの閲覧も可能になり、ユーザビリティが飛躍的に向上している。
まずは行ける行けない関わらず、その旅行で行きたい場所全てをプロットする。
水色が僕、黄色が妻、赤がホテル、という風に色分けしている。マップは共有できるので、ボストン在住のきょうこ氏にも事前に確認してもらった。
今回、ホテルはアクセスを何より重視した。こういうものを見つけてくるのは妻の方が長けているので任せた。
2.「主要なスポット」の開館・閉館時刻をマトリクスにまとめる
大抵の施設はWebページに開館日・開館時間を掲載している。特に今回は年末年始(ホリデーウィーク)に絡む日程だったので、どの施設も変則的だった。行ってから無駄足を踏まないよう、外国語のページでも根気よく調べるのが肝心だ。グルメ好きで絶対に行きたい店なんかがあるなら、その店の開店・閉店時間もマトリクスに組み込もう。
3.与条件を洗い出す
今回の旅行の与条件は以下の通り
・行動時間・・・朝食は7時に摂り、18時にはホテルに着いているようにする。(安全のため)
・行動範囲・・・危険性が高い場所(人が集まるホールやスラムなど)には極力近寄らない。
・交通手段・・・地下鉄メインで行動するが、必要あればタクシーも使う。
・同行者の要望・・・2日、3日目はきょうこ氏とMet、ノイエ・ガレリエ、MoMA PS1、Museum of Sexに行きたいという意見を最大限尊重する。
その他、悪天候のときの行き場所の代案、交通手段なども想定しておくとなお良い。
4.マトリクスと与条件から旅行の骨格をプロットする
1で作成したマイマップと2で作成したマトリクスをプリントアウトし、3で洗い出した条件より、成立するパターンを作成する。
STEP1: まず与条件からメトロポリタン美術館(Met)、ノイエ・ギャラリー(ガレリエ)を考える。この2つは距離が近いので同日にすると、MoMA PS1、Museum of Sex(MoS、マトリクスには非掲載)は自動的に別日となる。開館時間で差があるのは、Metが2日は21時までだが3日は17時半で閉まるため、開館時間に余裕がある2日にMet+ノイエとし、3日にPS1+MoSとする。2日にグッゲンハイムを組むこともできるが、Metのボリュームを考えるとこの2件だけで十分だろうと判断する。
ノイエは開館前から長い列ができると聞いていたので、ノイエ→Metの順とした。
STEP2: ニューミュージアムが4,5日に開館しているかHPから読み取れなかったので(笑)、3日に組み込む。閉館時間に差がないので、順番は未定。
STEP3: ホイットニー美術館はハイラインとセットで1日がかりとなり、ハイライン周辺は見たい建築も多いのでグッゲンハイムやMoMAと組み合わせて行くのは難しい。MoMAとグッゲンハイムは近いので、9:30と開館時間が最も早い1日に組むと、ホイットニーは4日となる。
ちなみにホイットニーの1日にある"PWYW"とは"Pay What You Want(好きなだけ払う)"ことを指す。19時から最低2ドル程で入館可能という太っ腹な時間だ。NYには"Pay What You Want"を定めている美術館やギャラリーが多くあるので、節約のためにも調べておくと良いだろう。
完成。
このように、開館日、立地などの条件を手がかりにスケジュールを組んでいく。
この骨格となる「主要なスポット」は、1日1〜3件程度が望ましい。
5.骨格をもとに肉付けをする
短時間で見られる「サブスポット」を、「主要なスポット」間にプロットしていく。「サブスポット」は特に優先度の高いものから選ぶ。この時点で「主要なスポット」は全て網羅されており、「サブスポット」を取捨選択することにした。また使う駅、路線なども全て計画しスケジュールに書き入れておく。
ワンポイント:スケジューリングは「8割」を目安に
一日の内、8割を計画し、残りをバッファ(空白)とする。こうすれば心理的な余裕も生まれ、アートなどの鑑賞に注力することもでき、予定より時間が余れば別の「サブスポット」を挿入することもできる。また僕らは実質5日間の内、「主要なスポット」を4日間(=8割)で周るよう計画した。フリック・コレクションに行くと決まったのは最終日前夜で、このバッファ(2割)を有効活用した。
6.データを印刷し、保管する
スポットの追加はネット上のマイマップ、プリントアウトしたマップともに書き入れる。スケジュールは紙とデータの両方を持つことで、万一紛失したり端末が破損した場合でも、どちらかを参照することができる。またデータは各社クラウドサービスに保管し、スマホ、タブレット、PCと、どこからでもアクセスできるようにしておくといい。僕はOneDriveを使った。
7.事前にシミュレーションをおこなう
行程を組むことで大体の内容は把握ができるが、当日までに一度は頭の中でシミュレーションをすることをお勧めしたい。「この広場に出たら右に曲がって・・・」というように地図を見ながら一度脳内で場面をイメージすれば、なかなか覚えているものだ。今はGoogleストリートビューで大抵の場所はチェックできるので、不安があれば確認しておくのも良いだろう。ただし小さな店や看板なんかを目印にしておくと、忽然と姿を消していることがあるので注意が必要だ。
ニューミュージアム、Museum of Sex、MoMA PS1をプロットし、付近の「サブスポット=(エンパイヤステートビル、クーパーユニオン(41 Cooper Square))」などを盛り込んでいたが、昼時点で時間が押してしまったため、クーパーユニオンを次の日(4日)のバッファに回す、ということをしていた。
今回、「開館時間」を手がかりに理詰めでスケジューリングすることで、実に無駄なく、迷うことなく目的地に移動することができた。もともと僕はいきあたりばったりの気ままな旅行も好きだが、今回のように限られた時間の中で効率よく動けば、より多くのものに触れることができ、得られる満足感や達成感も一段と大きくなる。また、やたらと詰め込みすぎて消化不良に陥ったり、ツアーのように団体行動や制限時間を強いられることもなく、たとえ時間が押して目的のものが見られなくても、次の日のバッファに組み込むなどすれば取り戻せる柔軟さがある。
しかし上述の方法は全てをカバーできるわけではなく、スポット同士の距離が遠く分散している史跡ツアーや、毎日宿泊場所が異なるような放浪の旅には不向きだ。「旅行の設計」はニューヨークやパリ、京都など、文化(あるいは、訪れるべき場所)が高密度で集中する都市を限られた時間で周る旅において威力を発揮する。
まずはあなたの行きたい場所をマイマップに落とし込むところから始めてみてはいかがだろうか。
おわり。
伝説の論文
この話は僕が見聞きした事実に基づいているが、インターネットという媒体の都合上、論文著者の名は一部改変していることをあらかじめお断りしておく。
僕がその論文のことを知ったのは学位論文執筆中の2011年、当時アルバイトで出入りしていた某設計事務所の社員で、僕の所属していた研究室OBでもあるA氏に論文のことで相談していた時のことだ。
「河西建雄さんって人の論文、知ってる?」
A氏は僕に尋ねた。知らないと答えると、
「僕はあれを読んで衝撃を受けてね。書いてあることはさっぱり意味がわからないんだけど」
と言って先輩は笑った。
A氏は日本でも有数の建築設計事務所の、特に名の通った設計グループに所属する優秀な先輩だ。その彼が衝撃を受けたという論文に、僕は俄然興味が湧いてきた。
少々調べてみると「河西建雄」なる人物はとある大学で教鞭を執る建築家らしいことがわかった。しかし作品の数は少なく、また僕自身も初めて聞く名で、それ以上の情報は得られなかった。
その論文は大学の修士研究室のキャビネットの中に、過去の修了生の論文と共に保管されていた。丁寧に装丁されたその論文を手にとると、背表紙の割にページ数は少なく、タイトルも「建築の自画像」というやけにあっさりしたものだった。そもそも六文字の修士論文のタイトルなど見たことがない。
とりあえずパラパラとめくってみる。内容は、確かにわからない。まるで理解されるのを拒むかのように、抽象的な言葉が脈打っていた。後半は「付録」と称していくつかのモノクロの図版が載せられていたが、「建築の〜」というタイトルに反して、建築の写真や図面等は一切なく、抽象的な線を並べたような作品や、墨で滲んだ人の顔のような絵が並んでいる。
正直に告白すると、当時の僕には過ぎた代物だった。自分の論文を進める都合もあって僕はそれを理解するのを諦め、卒業するまで思い出すことはなかった。
卒業後、僕は建設会社に就職しアカデミックな話題からしばらく離れていたが、SNS上で知り合った年上の藝大生と河西先生の話題になり、ふと、例の論文が頭をよぎった。何でも河西先生の論文は彼の学部時代、ゼミの学生の間でも伝説のように語り継がれ、しかもほとんど誰も目にしたことが無いという。河西先生自身、自らの修士論文の話題を出すことはなく、何かトンデモナイ論文を書いたらしい、という噂だけが独り歩きしていたようだ。その学生には母校に行く機会があったらぜひとも論文をコピーしてきてほしいと頼まれたが、かくいう僕も、当時理解できなかったあの謎多き論文にあらためて触れてみたいという下心がないわけではなかった。
そんな中、僕のゼミの教授が定年を迎え退任することになり、その最終講義のため大学に足を運ぶことになった。講義後の打ち上げの最中、僕はゼミの後輩と会場を抜け出し、彼の手を借りて例のキャビネットからその論文を引っ張り出すことに成功する。
「なんでこんなものをコピーするんですか?」
コピー機から吐き出されていくテキストに何枚か目を通して、その後輩は尋ねた。僕の行為はよっぽど奇矯にみえたのだろう。無理もない。大学に久々に来たOBが、打ち上げそっちのけで一本の不可解な論文をコピーしたいと言うのだから。
「ただの興味だよ」と僕は言った。
「自分の理解の外にあるものは知らなきゃいけないって、最近思うんだよね」
酔いが回った頭で仔細には覚えていないが、そんなことを話したと思う。
僕らはコピーを取り終えると論文をキャビネットに戻し、会場に戻ろうとする途中、研究室の先輩であるTさんに会った。驚いたことに彼はコピーの図版部分をちらっと見るなり、それが河西先生の論文であることを見抜いた。実はゼミには河西先生の元教え子も二人いて、その一人がTさんだった。
「俺もここに来た時、真っ先に河西先生の論文をコピーしたよ。そんな変な図版、一度見たら忘れないよね」
どうやら考えることはみな同じらしい。Tさんが論文の内容を理解できたかどうかは聞きそびれてしまった。
別の先輩は、
「ああ、あの論文ね。あれはすごいよね、よくあんなものが通ったっていう意味で・・・今じゃ通用しないよ」
と言ってニヒルな笑みを浮かべた。どうやらこの論文が学生の間で有名だったというのは間違いではないようだ。初め不審な顔をしていた後輩もこの度重なる証言から興味が湧いてきたらしく、僕も読んでみます、なんて言い出した。この論文の伝説は語り継がれる運命にあるらしい。
そして今、僕の手元にその伝説の論文のコピーがある。書き出しはこうだ。
「われわれの時代の創造は、やっていこうとする焦燥の意志と、やってはならないと言い含められる日常の抑制と、の共存のなかにある」
冒頭文からして既に論文らしからぬ抽象的な文が踊る。章立ては次の通り。
第一章 建築・・・身体、その高さ、その深さ、建築
第二章 自画像・・・荒野、他者、モザイク、自画像
第三章 建築の自画像・・・建築の自画像、制作について
付録・・・作品図版
別のページをめくってみる。
「われわれが疾走すべき地平は、生み出すべくして生まれる真理の生産への道のりではなく、まるでわれわれのそばにすでに控えていたかのような、存在の気配への盲信の道のりでなければならない。すなわち、気配という入口からわれわれはその道のりへ向かい、疾走するのだ。ここそこから、われわれの身体を延長し、ずっとずっと疾走するのである。」
よくよく読んでも指示語の指示内容が判然としないし、第一、接続語の前後が接続していない。この手の文章を世間では「悪文」と呼ぶのかもしれないが、しかしながらそんなものでひとくくりにできない何かがこの文には潜んでいる。文章全体にわたって響き渡る詩的風情、論拠のみえない推量と断定、極度に少ない参考文献と引用、論理の跳躍、そして不可解なまでの疾走感。
読み物としては確かに興味深く引き込まれてしまう。が、こと論文としてみるとあまりにも破格だ。そして末尾の図版は、人間の原初に立ち戻ったようなアウトサイダーな雰囲気が漂う。絵の巧拙などとうの昔に捨て去っている。「荒削り」を通り越してもはや「岩石」そのもののようだ。
もしかしたら彼は建築と、それをとりまく言説の虚飾に絶望し、荒涼とした砂漠のなかで仄かな光明に手を伸ばし、掴み取った哲学書から純粋に「モノ」そのものを表象する手立てを、内向きの熱狂の中に見出したのではないだろうか。それは血走った眼を思わせる狂気であり、近づき難いオーラを放つが、しかしそれほどまでに彼を奮い立たせ、疾走するまでに駆り立てたものは何だったのだろうか。
僕らは社会の中で常にうわべを取り繕い、体裁を整え、善良な予定調和に向かうべくエネルギーを傾ける。これと同様に、自らの進路が決まる修士論文では着実な手段を講じて論を着地させたいと思うものだが、彼はそんなものには一切見向きもせず、一世一代の狂言回しを披露する。ここにこの建築家の天賦の才が輝きを放つ。
この静かな狂騒の内に「モノ」を現出させる手立てを見出すというのは、なんて幸福なことなのだろう。
やはり僕には、この論文は手に負えない代物だったのだ。
千葉日帰り建築めぐり
「ホキ美術館に行きたい」
動機はいたってシンプルだ。千葉市には社会人を始めて2年ほど住んでいたが、日々の仕事に忙殺され建築見学もろくにしないまま慌しく去ってしまった。しかしホキだけは見なければ建築に関わる者として恥ずかしい、そんな勝手な思いこみが日増しに強くなり、この間の連休を利用してようやく行くことにした。せっかく遠くに行くならその周辺の建築も見て回りたいというもの。そんなわけで今回も「旅行の設計」をもとに行きたいところをマイマップ上にプロットし、効率よくめぐるルートを組み立てた。同行者のささいさんは初めてお会いする方だったが、パンパンに膨れ上がった建築づくしの旅程にも理解を示し、「私も詰め込んでしまうタチで」と笑っていた。ステキだ。
ささいさんとは朝の8時半に合流し、千葉駅までは電車で向かい、駅前でレンタカーを借りた。
千葉の建築めぐりのはじまりはじまり。
千葉県立美術館 大高正人(1974)
朝9時から開館している県立美術館は建築家、大高正人による作品だ。大高氏は前川國男に師事し、1960年の世界デザイン会議をきっかけに槇文彦氏、黒川紀章氏らとともにメタボリズムグループを結成する。この美術館は大高氏がかつて中央図書館、文化会館と名作を生み出した千葉市の、湾岸に近い場所に佇んでいた。
外観は前川國男による上野の東京都立美術館に似たレンガタイルのキューブで、複数の展示室がクラスター状に配置されている。そのヴォリューム同士の隙間には休憩コーナーが設けられ、屋外の彫刻を眺めることができる。
各展示室の軸と、45度に振られた休憩コーナーへの軸が一点に交わる小部屋があり、そこに監視員が一人座っていた。監視員は一人で3つの展示室を監視する、いわばパノプティコン的一望監視がここでは意図されている。実用的だがやや息苦しいと感じたのは、僕らが作品を観るより先に「見られている」と意識してしまうからだろう。ここは視線の監獄なのだ。
この監獄展示室を抜けると、一気に天井が抜け、中央に塔を持つ大屋根の空間が立ち現れる。このドラマティックな吹抜けをもつ展示室は彫刻作品の部屋だが、作品群は特に空間との接点はなく、ただ並べられているだけに見えてしまう。この特異な空間を生かしきれていないが、学芸員側としても扱いづらい空間だと感じているだろう。
外部には出ることができたが、どこか散漫な印象を受けた。
展示内容、建築としても「いわゆる県立美術館」の域を出ないが、何より運営側の意識が変わらなければ作品の質も配置による空間との共鳴も生まれない。一度は訪れても良いが、再訪したいと思えないのが残念だ。
千葉県立中央図書館 大高正人(1968)
県立美術館がモダニズムとしての大高建築ならば、こちらはメタボリズムとしての大高建築だ。十字で構成されたPC(プレキャストコンクリート)梁のユニットが連続し天井を覆い、十字のPC柱がそれを支えている。PCはいずれも仕上として露出しており、梁の端部は切り落とされたように突き出して止まることで、建築構成の原理を表している。さらにこのPC梁の露出は外部にも連続し、垂木のようにリズミカルにスラブを支えることで内外一体となって空間原理を構成するフレームというエレメントの存在を強調すると同時に、無限に拡がる空間の拡張可能性を予感させる。メタボリズムとは、建築の構造に生命の新陳代謝を重ね合わせ、伸縮自在な空間の拡張と更新の可能性を示した運動だった。
だがここで大高氏は終わらない。大高氏はコルビュジエの示した近代建築の原則と、生命の論理を持ち込んだメタボリズムに、更に日本建築の美意識をも掛け合わせ止揚を試みたのではないか、と思った。外部に突き出した型持ち梁は丹下健三の「香川県庁舎」を髣髴とさせ、朱色に塗られた外壁材と深い庇は神社の社殿を匂わせる。更に言うとこのコラージュ的様式の集積を、その次にやってくるポストモダンの萌芽と位置づけることもできるかもしれない。
外部を構成する白と朱とガラスのコンポジションは、内部のコンクリート剥き出しのブルータリティと一見無関係に思わせるが、内外を貫く十字のフレームというエレメントによって逆説的に一貫した構造的思想を際立たせている。どのような内部・外部の要求にあっても、メタボリズムはその外側、つまり要求を包含する大きな枠組みを構成する思想であり、ここではそれを実践をしていると言えそうだ。
しかし、写真の通り圧迫される印象はつきまとった。細部の情報過多のせいかもしれないが、それを受容するだけのリテラシーが自分には備わっていないのだとも思う。図書館という性質上、直接日光を入れることは難しく、薄暗く陰湿な空間になってしまうという理由もある。
上階は雨漏りやエフロが目立ち、何度も補修した跡が見られた。耐震は・・・と思って調べたら、案の定耐震基準を満たしておらず、5月から休館するとのこと。建て替えは時間の問題かもしれない。見学はお早めに。
⇒県立中央図書館の一時休館のお知らせ
今日3つ目の大高建築は、先の図書館のすぐ隣に位置する大ホールを持つ建築だ。図書館とほぼ同時期に設計されたにも関わらず、ここで用いられる言語は図書館とは異なり、シンボリックで古典的でさえある。十字の軸上に、二方向のエントランスを配し、その直行方向にホールを構える。十字の交点は床壁石貼りのホワイエで、中心に向かって傾斜した壁が迫り、天窓へと視線を導く。図書館において顕在化した拡張可能性への示唆とはうって変わって、理性的な幾何学への陶酔を謳っている。
宗教施設と見まがう中央のホワイエ。石種と仕上げを微妙に変えている。
この振れ幅には正直戸惑った。先の図書館と、同じ建築家がほぼ同時期に設計したものに到底思えなかったからだ。同一の人物ならばジキルとハイドのような多重人格者か、どちらもこなすむちゃくちゃ器用な人物だろう。今までよく理解していなかったが、どうやら大高正人という建築家は一筋縄ではいかないらしい。
シンボリックであるが、どっかりと翼を休めた巨鳥のように落ち着いた佇まいを見せていた。
日本キリスト教団千葉教会 リヒャルト・ゼール(1895)
こちらの教会はドイツ人技師、ゼールによって120年以上前に建てられた木造の小さな教会で、県の重要文化財に指定されている。解説には木造ゴシックと書かれていたが、どう見ても僕の知っているゴシックとは趣が異なる。
内部の見学は事前連絡が必要とのことで、外観だけ眺めるのみとなった。
槇氏のごく初期の作品であり、日本においては名古屋大学豊田講堂に続く2作目であるこの講堂は、近年改修によってその姿を一新させた。力強いRCのフレームに槇氏のディテールが冴え渡り、初期作品にして完成されている。なんだこれ。
雨樋ひとつとっても丹念に設計されている。杉板の型枠跡も効果的で美しい。
中には入れなかったが、氏の大胆な発想と静謐な手つきが伺える良作だ。この頃の槇さんはRC一辺倒のブルータリストでそれもまた良い。
千葉大学新ゐのはな同窓会館 鈴木弘樹(2013)
ささいさんの紹介で、すぐ近くの同窓会館も面白い建築であることを知った。一見高層に見えるが、薬師寺三重塔のように裳階を廻したようなホールの1階+地下の諸室からなる。多重の庇はガラスボックスの日射を制御し、同時にこの建築をアイコニックなものにしている。白い庇は恐らくウレタン塗装だが、近づいて見るとやはり雨垂れの汚れが目立った。ガラスの清掃時は庇に乗っても大丈夫なのだろうか。
昼食は丸亀製麺でさっと済ませ、僕らは京葉道路を飛ばして次なる建築を目指した。
ホキ美術館 日建設計(2010)
戸建住宅街の只中に、その美術館はあった。地区計画や斜線制限からか地上レベルは抑えられ、代わりに展示室の半分以上を地下に埋めている。アプローチはゆったりと設えられ建物の中腹部から入るような格好だ。右手にカフェ、左手にミュージアムショップがあり、その奥から展示室が始まる。
内部は撮影禁止とのことだが、数多の雑誌やWebメディアで紹介されているのでそちらを参照されたい。
特に気に入ったのは展示室の照明で、天井に無数の小口径のスポット型LEDが埋め込まれ、複数の光をひとつずつ展示作品に照射していた。昼白色と電球色それぞれをミックスすることで、作品の繊細な色彩表現を可能な限りサポートしている。フジツボのように天井を覆う照明は、集合体恐怖症の方にはキツいかもしれないが、斬新で面白い。
絵画作品は膨大な写実主義絵画のコレクションで、風景画では植物の葉の一本一本、人物画では肌の透明感、衣服の質感、重量まで感じさせるような迫力に満ちていた。スーパーリアリズムは対象そのものを写真のように正確に描きつつ、写真を超える「芸術」となるべく筆を重ねる。対象をどこまでも具体的にカンバスに写し取る手法は、神への祈りとオーバーラップする。描くことは祈ることだ、と日本画家の千住博氏は言った。全くその通りだと、絵画たちを眺めながら思った。
再び外に出て外観を眺める。コンクリートの外壁をリズミカルに刻む縦のラインは、一見Rがかった型枠の目地に見えるが、ここまでの緩いRならこれほど型枠を刻む必要もなく、意匠的に付加しているようにみえる。
そして圧巻の30mキャンティレバー。本当に重力を感じさせず、浮いているようだ。この感覚、どこかで・・・と思ったらローマのMAXXI(ザハ)だった。ザハもプカプカ浮いていた。
それにしてもお世辞にもアクセスの良い場所にあるとはいえない私設美術館がこれほどまでに賑わっていたのは、コレクションの質もさることながら話題性のある建築が後押ししているように思う。その意味で保木館長の先見性と、設計チームの提案力、ゼネコンの技術力が一体となり、記念碑的作品を生み出したこの事業は、やはり建築に関わる者として見ておくべき作品だった。RCはパタパタ仕上だねとか、東側擁壁沿いの植栽計画ミスったねとか、欠点を挙げようと思えば挙げられなくはないが、それを加味しても余りある「建築の強度」を思い知った。
惜しむらくはこの美術館の周辺に魅力的な施設がまだないことだ。住宅地という立地から建築単体で完結せざるを得ない(風景を見せられない)ため、塀はないが周囲から孤立しているように見える。
ならば逆に美術館を見る施設があっても良いのではないか。ホキ美術館をカッコイイ角度から臨むコーヒーの美味いカフェがあったらなかなか儲かると思う、というか行く。誰か作ってください。
DIC川村記念美術館 海老原一郎(1990)
DIC(旧大日本インキ化学工業)は建設業者でも塗装色などでなじみの深い企業で、そこが保有する絵画のコレクションを展示する美術館だ。割肌の桜御影石を積んだ西洋の古城のような2つの塔がそびえ、目前に白鳥が優雅に泳ぐ池を臨む。ロケーションは最高と言っていい。
ひとたび中に足を踏み入れると、2つの塔はシンボリックなホワイエであることに気づく。展示室は数棟の建物が繋がっているような形で、なかなか全容が掴めない。
肝心の作品は、まぁ知らない絵画を探す方が難しいってくらいに有名な作家の作品が丁寧に陳列してある。目玉はレンブラントの「広つば帽を被った男」で、国内に3点のみ存在するレンブラント作とされる絵画のひとつ。他にもモネ、ピカソ、ブラック、シャガール、ボナール、ルノワール、現代美術ではポロック、NYでハマったフランク・ステラ等々、欧米の美術館に匹敵する充実のラインナップだ。海外からの観光客も何組か来ていた。
眩いばかりの作品群に思わず「ここにある作品のいくつか、県立美術館に分けてあげたら良いのに」なんて冗談を言い合った。
時間も限られていたため早足で一周してしまったが、ここは是非また来たい。次来る時は、時間にゆとりを持って回ろう。
旧川崎銀行佐倉支店 矢部又吉(1918)
佐倉市立美術館 坂倉準三(1994)
旧川崎銀行佐倉支店として矢部又吉の設計により1918年、このレンガ造の建築は完成した。当時からもうすぐ100年が経とうとしているが、100年という短い時間に日本の建築が辿る道のりは諸外国と比べても圧倒的だった。ことに近代化の象徴がレンガ造の建築であり、やや内陸のこの町にとってこの建築が「新しい時代」の象徴であったことは疑いようがない。
元々佐倉藩が築いた城下町として栄えた佐倉は、武家屋敷群が点在し、いくつかは国や県の重要文化財に指定されている。その佐倉に突如現れた近代の象徴は、過ぎ去った時代の象徴として保存され、背後に坂倉準三設計の美術館ビルを抱える伽藍堂となった。
この空間は佐倉市立美術館のエントランスとして、またアートの展示室として利用されている。近代建築の保存方法は様々に試みられてきたが、こうして当時の状況を再現しつつ、現在でも利用されているというのはかなり幸運な残され方だと思う。
美術館の方は入館無料で、多くの子連れ客で賑わっていた。ベビーカーを押したママ友の集団もロビーに腰掛け、四方山話に夢中だった。要は地元のハブ施設なのだ。金沢の21世紀美術館に似て、アートと市民をユルくつなぐ地域に欠かせない快適な空間だった。
ただ僕らはホキ美術館や川村記念美術館の怒涛の作品群に触れたばかりで食傷気味だったので、展示室への入場は遠慮した。
佐倉の街並み
美術館を出ると日は傾きかけていた。時刻は17時を回り、美術館の係員さんも周辺で見られるところはもうないというので、周囲をぶらぶらと散歩した。旧城下町だけあって、至るところに蔵や古い民家が見える。
店蔵(見世蔵)。平入りと妻入り、漆喰の白黒を巧みに並置した優れた意匠をみせる。
車庫と化した蔵屋敷。近代的な使われ方だ。
アートのようなトタン葺きの蔵と大谷石造の蔵。大谷石蔵を千葉で見るとは。
少し歩くだけでも建物単体として見ごたえがある蔵がいくつもあった。
しかし街全体には具体的な繋がりが見えず、全体でなかなか「景観」と呼べるものにならない。しかしこれが現代の、等身大の日本の風景なのだ、とも思った。伝建地区に指定され観光客に媚びて虚構の街並みとなるのも、価値が共有されずバラバラと空中分解するのも、どちらも今の日本の姿だ。
この絶望的な状況の突破口はデザインにある、いやデザインにしかない、とも思う。建築家、松島潤平氏の「ノスタルジー・リセッティング」という概念を思い出した。僕らは足を止めていられない。
佐倉に来るなら今度は早めに来ようと誓い、僕らは旅を終えた。
この日一日で千葉の多くの建築を目にした。いずれもその地域や時代を象徴するような建築ばかりで充実した内容になった。ホキ美術館に行くだけでも十分価値はあるが、少し足を伸ばしてその周辺を回ってみるのもぜひお勧めしたい。
おわり
「ガリガリ君値上げCM」の反響に対する違和感
SNS上で、とあるCMが話題を呼んでいる。
なるほど、こんなやり方で値上げを宣言するとは面白い、と思ったが、どうも多くの人は純粋にこの態度について「賞賛」しているようだ。
ガリガリ君値上げに、社員全員で謝罪!誠意がスゴイと大絶賛 −grapee
ガリガリ君、社員総出の「お詫びCM」が大反響 「値上げ」逆手に動画再生10万回超える −J-CASTニュース
25年間踏んばったけれど…「ガリガリ君」が値上げするも絶賛されるワケとは? −Spotlight
こういった反応に対して、なんか違うよな、と思った。
10円の値上げで社員総出でお詫びCMをつくるというのは、ハッキリ言って「過剰」だ。昨今のデフレと原料の価格高騰の煽りを受け、製菓業界では相次いで商品単価の値上げしているが、特別にCMを打って出ることはしない。値上げは消費者にとってマイナス要因だからだ。車のリコールじゃあるまいし。
だが赤城乳業はそれを逆手に取り、たった10円の値上げを、さも深刻な面持ちで伝えるという「過剰」なパフォーマンスによって、消費者に誠意と企業の姿勢を訴えるという手段に出た。
そしてその目論見は見事に奏功し、大きな反響を得る。
しかし、本来なら営業マンでもない企業のトップが、たった10円の値上げに頭を下げる必要はない。
なぜこんなCMを作ったのだろうと考えると、先ほどの「消費者に誠意と企業の姿勢を訴える」という理由の外側、つまりこの「過剰」なパフォーマンスの裏に、同じく「過剰」に反応してしまう昨今の世論に対する痛烈な皮肉が込められているように感じる。
一度問題が起きると、ネットを通じて拡散し、企業の存続、個人の生命に関わるまでに無名の大衆に叩かれ続ける社会体制が築かれている現代。この状況にあって、一見瑣末なこと(10円値上げ)に過剰な対応(社員総出で陳謝)で応えるこのCMは、現代の日本が抱える「過剰反応」という病巣をも射程に入れ、その異常性を浮き彫りにしているかのようだ。
このように言うとシリアスになってしまうが、平たく言えばこのCMは、企業のトップ含め社員一丸となって仕掛けた渾身の「ネタ」なのだ。牧歌的な歌声も、ある種のバカバカしさを強調する。だから僕ら消費者はこの「ネタ」に対し笑い、ツッコみ、そして考えるのが正しい反応といえよう。
だが大衆は純粋に「賞賛」した。今回問題にしているのはここだ。
このCMは「ネタ」として滑稽なまでに慇懃な態度をとった「パフォーマンス」であったはずだ。
それが賞賛すべき態度だと持ち上げられてしまえば、社会はますます息苦しく、企業はますます消費者に抗えなくなってしまう。
もっと極端なことを言えば、「なぜ赤城乳業は10円の値上げで社員全員が頭を下げたのに、アンタのところはしれっと50円も上げてるんだ!頭を下げろ!」なんてキチガイじみたクレーマーも現れるかもしれない。もちろん当の本人はそれが「ネタ」であるなんて気づかない。
サービスの水準が上がれば、より低い水準のサービスにケチがつく。
建設業界で言えば、某業界トップの不動産会社が手がけたマンションの杭が支持層に届いていないことが判明し、沈下の起きていない棟も含め全棟建替をすることになり、以前から同様の問題が起きていた他社のマンションも部分補修から全棟建替とせざるを得なくなった。住民が対応の差に不満を抱いたからだ。
「態度の賞賛」は「態度の強要」になり、やがて緩やかに僕ら自身の首を締め上げていく。
問題が起きれば即刻袋叩きに遭ってしまう不安定な昨今の事情を鑑みると、僕はこういった反応に対して、拭えない違和感と気味の悪さを感じてしまう。
台東区近代寺院散策 〜 妙経寺・善照寺・松源寺
週末に散歩がてら台東区にある寺を3つほど回ってきた。寺といっても戦後に建築家の手によって建てられた近代建築で、全てRC造のものだ。
これらは新御徒町駅から徒歩圏内で、穏やかな気候の中、ぶらぶら散歩するにはちょうど良かった。
最も駅から近いのは挑発的な鐘楼が目を引く妙経寺だ。設計者は川島甲士。清水建設設計部から逓信省営繕部を経て独立、芝浦工大の助教授を務める傍ら、「津山文化センター」(岡山県津山市, 1965)で一躍名を馳せたモダニズムの建築家だ。「津山」の6年前に竣工したこの日蓮宗の寺院は折板屋根の本堂と納骨堂、鐘楼、住職の住戸が広場を取り囲むように配置され、その奥は墓地と続く。
本堂は①耐火建築であり ②従来の権威がかった様式ではなく、地域の冠婚葬祭のセンターとして開かれた空間であること、という要請に対応するものとして、RCの折板屋根が架けられた。この折板構造は大空間を飛ばせることから50〜60年代にホールを持つ建築に好んで用いられた。川島氏は字義通り「がらんどう(伽藍堂)」をつくったのである。
鐘楼の方は本堂と打って変わって自由奔放だ。目を引く紅の屋根に、突き出す水抜き孔。屋根は2本のダルマ断面をもつ柱で支えられ、その柱を橦木がブチ抜いている。これぞまさにアヴァンギャルド!反骨精神!
この屋根の形状については「外に向かい跳ね上がる外向的上昇指向を表す」とも「インドの水牛をモチーフにした」とも言われているが、サングラスをかけて剃りこみを入れたチョイ悪坊主がロックを流しながら縦ノリで撞いていてもおかしくないくらい、強烈な芳香を放っている。
厳かな所作で式典を執り行う儀礼空間としての本堂と、身を捩り無常の音を鳴り響かせる鐘楼という機能のダイナミックな対比は、「静」と「動」それぞれの身体の挙動に、モダニズムの言語を巧みに対応させている。この対比は空間に緊張状態をもたらす一方で、豊かに茂った植栽が間を取り持ち、印象を柔らかにしている。コンパクトながら存在感のある建築だった。
善照寺 / 白井晟一(1958)
通りから入る細い路地の両側は笹が植えられ、その奥に真っ白なシンメトリックな妻壁が覗く。善照寺本堂は、丹下健三と並び称される巨匠、白井晟一の作品の中でも、特に凛とした佇まいをみせている。
この白亜の聖堂ならぬ白亜の寺院は、地面から切り離されて浮き上がり、外周には片持ちの廊下を回している。その浮世離れしたプロポーションをしげしげと眺めていると、この本堂自体が浄土そのものの表象なのではないかという気がしてくる。
白井晟一はドイツの実存主義者ヤスパースの下で哲学を修めた異色の建築家だ。ものの「存在」を問う実存主義を身につけている彼は、もしかしたら「存在しないもの(浄土)」に照準を定め、建物を地上から切り離し非現実を徹底的に作りこむことで、非現実の浄土世界(抽象世界)から逆説的に現実の「生」(具象世界)を照射しようと企図したのではないか。
この仮定に従えば、物質感・遠近感を喪失した白い壁、極度に薄く跳ね出された廊下の浮遊感、構成と明度差によって御影石が浮遊して見える正面石段の造形にも全て合点がいく。
本願寺の別院である善照寺の宗派である浄土真宗では「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば仏となり極楽浄土へ行くと説く。白井氏はこの浄土世界を西欧的な抽象世界(形而上空間)と読み替え、虚空に浮遊する非現実世界を近代的マテリアルの代表であるコンクリートを用いて再現を試みた。
更に言うと、浮遊する石段は「あの世」と「この世」を掛け渡す橋と見立てることができる。その証拠に、建物の四周には玉砂利が敷き詰めてある。玉砂利は枯山水でも用いられるが、作庭において「川」や「大洋」を表す。ここでは「三途の川」である。
この推論の妥当性は読者諸兄の意見を請いたい。
つまるところ、この建築は浄土世界の表象であり、アートであり、哲学そのものなのだ。白井晟一に大抵の建築家が追いつけないのは、建築が哲学そのものだからだ、と理解した。
曹洞宗のこの寺院は寛永6年(1629)にこの地に移されてから400年近くの歴史を持つ古刹だが、本堂は妙経寺と同じく川島甲士によりRC造で設計された耐火建築である。この寺院を特徴づける屋根は緩やかにカーブし、先端でくるんと曲げられて雨樋の代わりとなっている。軒の意匠を合理的にデザインしているようだが、先端はやはり雨垂れの跡が目立ってしまう。
またここは川島氏の葬儀を執り行った寺という。学生時代に建築家の墓について研究していたので、もしかしたら川島氏の墓も変わったものがあるのではないかという密かな期待もあったが、日も暮れてきたのと、その墓地は同型の石塔が整然と並べられている狭小墓地特有のものだったため、余計な詮索はせず帰路に着いた。
この日見た三つの寺院は、伝統を守りつつ革新する「守破離」が顕著にみられた。特に都心に新築する寺社建築は耐火建築物でなければ建築基準法上ダメなパターンが多く、コンクリートを用いていかに伝統を重んじる宗教建築をつくるかというのは関東大震災以降の日本の建築家たちに突きつけられた大きなテーマであった。単に使い古された形状をそのままコンクリートに当てはめたものではなく、コンクリートという材料を用いた新たな空間の試みが、この日見た三寺で確認できた。
近・現代の寺社建築は伊東忠太の「築地本願寺」以外ノーマークだったけど、ちょっと面白いかもしれない。
おわり
ガンダム建築
「機動戦士ガンダム」を知っているだろうか。
かれこれ30年以上続くアニメーションのシリーズで、内容は知らなくても名前くらいは聞いたことがあると思う。
僕は「ガンダム」が結構好きだ。もっと言えばシリーズ全体、外伝的な小作品、小説や漫画も含めたコンテンツに中学、高校とどっぷり浸かり、プラモデルも相当な数を作るくらいには好きだ。作中では「モビルスーツ」と呼ばれるロボットに人が搭乗して戦うのだが、ハイテクなのにある種の泥臭さも感じる作品世界は現実世界と地続きのようなリアリティがあり、他のロボット系のコンテンツと比べても頭ひとつ抜きんでている。
その「モビルスーツ」の代表格が「ガンダム」であるので、SF風のメカニックなものを「ガンダムみたい」と形容する人も少なからずいる。
表題の<ガンダム建築>といえば、高松伸、若林広幸、阿部仁史、渡辺誠諸氏らの80〜90年代初頭の作品に対し、その傾向を総称して指す場合が多く、特に渡辺誠氏の「青山製図専門学校1号館」は最もガンダムみたいだと一部の好事家には有名である。頂部の宇宙船のようなギャラリーの造形的インパクトは相当なもので、一見すると忘れ難いものがある。ところで<ガンダム建築>とは一体何なのだろうか。
* * *
アドルフ・ロースは「装飾は罪悪だ」と断じ、ルイス・サリヴァンは「形態は機能に従う(Form Follows Function)」と宣言し、近代建築はゴシック、バロック、新古典主義と連綿と続く建築における装飾的意匠を放棄した。
ル・コルビュジエは船や穀物のサイロ、工場といった無装飾で機能主義的な壁面を賛美し、フィリップ・ジョンソンはガラスで四周覆われた透明な記念碑的住宅を作り上げ、ヴァルター・グロピウスによって「国際様式(インターナショナル・スタイル)」と命名された鉄とガラス、コンクリートによる無国籍的な建築が世界を席巻し、都市の風景は一変した。こうして築かれた近代建築の代名詞たるモダニズムは、今日まで影響力を保ち続けている。
これに対し60年代以降に流行するポストモダンは、現代的な材料を駆使しつつ、近代建築の透明で平滑な壁面にギラついた装飾を復活し、近代建築が構築したデカルト的均質空間に対するアンチテーゼとして、視覚的に過激な建築を次々に生み出していった。SF映画に出てくるようなロケットや古代神殿のオーダー、神社の鳥居や西洋建築のキーストーンなど、古今東西のありとあらゆる建築や文化的象徴をシニカルかつフラットに並べ、瞬時に消費していった。ちょうどテレビが世界中の風景をひとつの画面に映し出すように、表層のみを剥ぎ取られたオブジェが文化的脈絡と断絶され、混乱した風景に拍車をかけた。この都市と資本のニーズに迎合しつつ皮肉る不毛ともいえるモードは、バブルの崩壊とともに終焉を迎える。
その後、国内の建築においてポストモダン建築もそれ以外の装飾的な建築も「バブル期に潤沢な資金を投じ、投資目的で狂ったように建てられた奇形のハコモノ」として一括りに批判の対象になり、その文化的意義の有無に関わらず屠られていった。この手の言説はそれまでムーブメントの中心にあった建築界内部からも発せられ、「ポストモダンの旗手」と仰がれた隈研吾氏も、90年代中盤には掌を返したようにこの狂騒から脱出している。
以上が日本のポストモダン建築におけるおおまかな筋書きである。
こうした経緯からポストモダンを「様式」と形容するのはちょっと憚られるが、慣習に倣えば<ガンダム建築>は上述のポストモダン建築に含まれる。
ポストモダン建築の中でも、特にSFのような機械的なモチーフをちりばめたものを、誰かが「ガンダムみたいだ」「ガンダム建築だ」と言い始めた。視覚的類似性に加え、いずれもヒロイック(英雄的)なカッコよさを追求しつつ、より偏執狂的、オタク的ともいえる複雑な表情をつくりだしている。
「青山製図専門学校1号館」はちょうどバブルの真っ只中、1990年に竣工した。今にもうごめきそうな油圧シリンダー、鮮やかな赤とシルバーの外装、睥睨するコックピットのような開口部、卵形の貯水タンク、突き出した避雷針を兼ねたマストなどなど、見ているだけでお腹いっぱいになりそうな機械的モチーフに満ちている。
この生粋のモダニストからは眉をひそめられそうな外観をもつビルは、建物として、というより一個のキャラクターとして街に棲みついている。<ガンダム建築>ではないが、浅草にあるフィリップ・スタルクの「ウ○コビル」などと同じく、変なアイコンとして意識に染み付いてしまっている人はそれなりにいるはずだ。
僕はというと、いわゆる正統的な建築の文脈からは外れているが、だからといって隅には置けない「冗談みたいな」面白さを抱えていると思っている。この「冗談みたいな」というのはデザインにおいてなかなかに重要で、例えば広告などは人目を惹くキャッチコピーにジョークを交えることはしばしばあって、中には、打合せ中に冗談を飛ばしてたのがそのまま通ってしまったんだろうなぁと思うようなものも見受けられる。もちろん数ヶ月で消える広告デザインと数十年残ってしまう建築デザインをそもそも同列に扱うのは難しいが、それでも「冗談みたいな」建築は僕らの心に爪を立て、既成概念に揺さぶりをかける。
冗談といってもレベルはさまざまで、ダジャレがコンセプトという根本的なものや、外観の印象からアニメに出てくるガンダムのイメージがそのまま立ち現れたシュールさというのもあれば、外観を構成するパーツにほとんど共通部材がなく、全て3次元データで管理され施工したという実務者からしたら失神しそうな冗談みたいなエピソードなどもある。そんなメタ視点から眺めれば、冗談みたいな<ガンダム建築>の裏に冗談にならないプロの仕事が垣間見え、そのギャップがまたシュールだったりする。
まっすぐに柱と壁を立て、平らな屋根を作ればもちろんそんな困難は少ないが、生みの苦労が少ない建築が人の印象に残ることもまた限りなく少ない。ここで敢えて難題を設定し「冗談みたいな」建築がたち現れる。映画でしか既視感のない金属の塊が眼前に現れることへの驚き、好奇心、そして技術や理想、ひいては人の行為、有機的なダイナミズムに対する感動。これこそが<ガンダム建築>にわれわれの目が奪われてしまう理由ではないだろうか。
* * *
バブル期の<ガンダム建築>は建築内部までヒロイックな原理が働く例はほとんど存在せず、表層に機械的記号を張りつける程度で、建物そのものの外観が貨幣と交換されるべき象徴としてつくられ消費されていた。一部に次世代の兆しが見えたものの、経済状況の変化により未発達なまま放棄せざるを得ず、デッド・テクノロジーとして歴史の暗闇に葬ったのはつい最近のことだ。
海外に目を向けると、年始にNYで見たモーフォシスの「41クーパー・スクエア」(2009)などはテクノロジーを駆使し極めて合理的に作られた<ガンダム建築>だといえるし、コープ・ヒンメルブラウの「リヨン自然史博物館」(2014)なんてのは今にも動き出しそうなダイナミックさがある。アルゴリズムによる自律的デザイン、BIMを初めとした3次元でのデータ管理が徐々に浸透し、3Dテクノロジーによって複雑な形状をもつ建築が海外では次々に実現しつつある現代という時代に、僕なんかものすごくワクワクする。
"41 Cooper Square" Morphosis (2009) via e-Architect
"Musée des Confluences" Coop Himmelblau (2014) via ArchDaily
日本で20年ほど前に死に絶えた<ガンダム建築>が再び出現するかに見えたのはザハ・ハディッドのオリンピックスタジアム案だった(あれはキュべレイみたいだった)。
しかし運営の杜撰さやコスト見積の甘さ、各課調整の不手際を運営側が直視せず、「奇抜なデザインのせいでコストが高い」とか「巨大でおぞましく圧迫感がある」とか有象無象の世論の批判をマスメディアが扇動することで論点がすり替わり、結局うやむやなまま計画を頓挫させてしまった。皮肉なことに、<ガンダム建築>をつくることの困難さを痛感する象徴的な出来事になってしまった。
"Tokyo's New National Stadium" Zaha Hadid (2012) via Zaha Hadid Architects
こうして日本における<ガンダム建築>は再び立ち消えてしてしまったが、いつの日か“Gの鼓動”を感じる<ガンダム建築>が台地に立ち、お台場のガンダムに負けず劣らず人々に驚きを与え、好奇心をくすぐり、末永く愛される、そんな建築が生まれることを夢想しながら、今日も僕は平凡な建築を作っている。
「41クーパー・スクエア」に行ったときの話はこちら。
→ 【ニューヨークの建築、アートめぐり(5日目)】
(おわり)
阿佐ヶ谷書庫に行ったこと
5月某日、堀部安嗣氏設計による「阿佐ヶ谷書庫」(2013)の内覧会に行ってきた。
今回は外観・内観ともに撮影不可という制約があったが、この建築の詳細は『書庫を建てる 1万冊の本を収める狭小住宅プロジェクト』(松原隆一郎・堀部安嗣,2014,新潮社)につぶさに記録されているので、そちらを参照されたい。

- 作者:松原隆一郎,堀部安嗣
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Living Design Center OZONE記事より
交通量のある早稲田通りに面した立地に、ひっそりと佇むグレーの外観を見た時、外苑前にある「塔の家」(東孝光、1966)という名作住宅を思い出した。喧噪の中に立つ、いびつで禁欲的な箱という点で両者は似ていた。
ところが中に入った瞬間、禁欲的だという第一印象は消し飛び、「凄いところに来た」と思った。シリンダーの中にびっしりと並べられた本。そこに螺旋状の階段と通路が巻きついている。視線はまず正面の本棚、そしてヴォイドの上下に注がれ、いやがおうにも圧倒的物量の本と対峙しなければならない。
僕が体験したことのある螺旋状の空間ではNYの「グッゲンハイム美術館」があるが、スケールがまるで違って、書庫の直径は3.6m。ちょうど広めの螺旋階段くらいのスペースしかない。このスケールは敷地と棚割から何度もスタディし決められたそうだ。
地下1階、地上2階+ロフト階の3層の構成ながら、徐々に自分が何階のどこにいるのか、方向感覚を失ってしまう。ウンベルト・エーコが著した『薔薇の名前』に出てくる修道院の禁書図書館や、ホルヘ・L・ボルヘスの『バベルの図書館』、遠藤彰子氏の絵画作品などを思い出した。
開口部は脇に設けられた諸室にあるが、中央の書庫部分にはトップライト以外の採光がない。
このトップライトは乳白で、かつドーム状の頂部は白く塗り込められているため光が拡散し、照明を落とした内部は意外にも明るかった。
ごく一般的な建築教育を受けた僕からしてみると、ここまで外界を拒絶していいのだろうかとはじめ戸惑ったが、やがてここはあくまで「書庫」であり、人がそこに寝泊まりしているという主体の逆転現象が起きていることに気づいた。
堀部氏はこのプログラムの特殊性に目をつけ、積極的に閉じる選択をした。厚く充填されたコンクリートに囲まれた空間は、玄関扉を閉じるととても静かになる。
またこの空間を孤高の存在へと高めるのに、2階部分に設けられた仏壇が一役買っている。書棚2つ分のスペースに巧みに納められた仏壇は、この書棚のスパンを決定する要因となったそうだ。線香の香りが狭い室内に充満し、一万冊の蔵書に染みこんでいく。
クライアントの松原隆一郎氏は東大で経済学を教える学者で、ここは籠って物書きするのに使うそうだ。
特に興味深かったエピソードとして、松原氏はその時執筆している原稿によって書棚の本の位置を更新していて、それでも探している本が見つからないことはないという。つまりこの書庫は松原氏の頭の中そのものであり、脳内を外在化したものという捉え方ができる。
「身体の外在化」というのは言葉で言うのは簡単だけど、スケール感と符合する例は少ない。その点、直径3.6mの円筒と身体の親和性は高く、僕らには想像しかできないが、松原氏にとってこの書庫が自身の身体そのものなのだろうと思った。
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内覧会は無事終了したけど、僕の中で「阿佐ヶ谷書庫」の何かが引っかかっていた。あの空間を形容するにはまだ言葉が足りない。
しばらくモヤモヤしていたが、突破口を開いたのは同行したスギウラ氏が
「即身仏になるための空間じゃないんだ」
とつぶやいたことだった。
この「即身仏になるための空間」というのは言い得て妙で、仏壇が象徴する宗教性に加え、書物の山の中心に武術と学問を極めた松原氏が座ることで完成する知の立体曼陀羅という宗教的解釈はおおいに成立する。
さらに大地震の際には棚に納められた一万冊の本が一斉に自分に向かってなだれ込んでしまうという運命を背負った劇的な空間でもあるのだ。死ぬわ。
アフリカのある部族は、家族が亡くなるとその家族が使っていたベッドの下に埋葬するという風習があるそうだ。「眠り」と「死」が空間的に結びつき、「家」が時間とともに「墓」になるという象徴的な話だ。
また冒頭に挙げたボルヘスの『バベルの図書館』では、息を引き取った司書は六角形の回廊で囲まれた穴の中に投げ落とされ、無限の落下の中で肉体が朽ち果てるという。
"The Library of Babel" illustrated by Erik Desmazieres
「阿佐ヶ谷書庫」はこうしたイメージと決して無縁ではない。
ひとたび巨大地震が起きれば1万冊の書物に埋もれ、運が悪ければ地下に設けられた書斎はそのまま墓と化してしまう。ちょうどアフリカの部族の「眠り」が「死」と結びつくように、線香の香り立つこの書庫では「知」と「死」はまさしく表裏一体の構造になっている。
僕が「阿佐ヶ谷書庫」で感じた形容できない感覚、あれは建物が発する濃厚な死の匂いだったのだ。
ほぼ同時期に堀部氏は「竹林寺納骨堂」(2013)という建築をつくりあげているが、そうした経緯とは無関係ではないだろう。
この特殊な条件下で、二重にも三重にも意味を重ね、密度の高い建築として成立させた堀部氏の手腕は、さすがというほか無かった。
見学会は新潮社が企画し、竣工から今のところ毎年実施されている。
この濃密な空間を体験したい方は次の機会に申し込んでみることをお勧めしたい。