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Channel: 建築・アート・デザインをめぐる小さな冒険
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瑠璃光院白蓮華堂に行ったこと

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最近の専らの趣味といえば、建築マップを作成して実際に訪れることだ。
僕が幾人かの友人と作ったマップには、数多の建築家が心血を注いで作り上げた建築が、まるで綺羅星のように光り輝いている。美術作品は美術館に行かなければ目にすることができないが、建築作品は、その多くが外観を見ることが許されており、また中に入ることができる場合も多い。これは歩いて鑑賞できる芸術、会いに行けるアイドルみたいなものだ。
また優れた建築は開かれた芸術作品でありながら、一方で都市と団体や個人を結びつける社会的な意義も担っている。社会と個の狭間で、さらに資本的制約や法令による制限、美学やイデオロギーなど複雑雑多な条件をまとめあげトータルにデザインされた建築は、さまざまな側面からの批評を許容し、歩いて見るだけで脳に心地よい刺激を与えてくれる。
しかしながら僕の場合はその刺激を脳内麻薬のように次から次へと欲してしまう危険な状況であり、執拗に目を光らせて建物を見てしまうというちょっと病的なアレなので、何事も程々が一番だ。

この休日は電化製品と仕事用のシャツなんかを買うために新宿に行くことにした。さっそく例のマップを見ると、南新宿にある寺が目についた。竹山聖氏設計の「瑠璃光院白蓮華堂」。新宿駅から見える大きな看板を目にする度に現物はどこにあるのだろうと思っていたが、マップによると新宿駅南口のすぐ近くにあるらしい。折角なので外観だけでも鑑賞しようと、一駅手前の代々木駅から歩いていくことにした。

新宿マインズタワーの公開空地を抜けると、コンクリートの異様な姿が見えてきた。

 
ワイングラス型に下がすぼまった躯体に長円形の開口部がぽっかり空いている。一度見たら忘れない強烈な造形だ。なんでも住職が示した「白蓮華のイメージ」を再現したという外観は、アイコニックで不敵さすら感じさせる。外壁には一切雨樋や設備配管がなく、屋根の雨水も建物内の配管から落として地下のピットに接続するというゼネコンが嫌がる設計になっている。経年で躯体にひびが入ったり、配管が朽ちて漏水や汚れの原因になってしまうため、屋上の配管類を屋内に引き込むのはいわゆる「禁じ手」だ。そのリスクも見込んだ上で、それでも外観を重視し配管を建物内に引き込んでいる。まさに覚悟の意匠。本当によくやるわ。


 
三次元曲面の躯体


狭い前面道路が北にあるため、北側・道路斜線の影響を受け建物はセットバックしている。そのエントランスまでのアプローチには水盤が張られ、小さな橋が架けられている。現世とあの世、蓮と蓮華という宗教的モチーフを駆使し、幅員の狭い前面道路からの斜線制限という敷地からくる形状の制限というリアリティを忘れるような設えとなっている。こうしたところに高いデザインセンスが感じられる。


敷地の外から写真を撮っていると、入口に掲げられた「ご自由にお入りください」との文字に気がついた。これ幸いとノコノコ中に入ると、受付の女性がにこやかに挨拶をし、建物と納骨堂どちらの見学ですかと聞く。僕は建物の方だと答えると、今度は別の男性が出てきて、建物の案内をしてくれるという。思いがけない丁寧な対応にすっかり心奪われてしまった。
後になって知ったのだけど、1日2回、こうした見学会を催しているらしい。
この日の見学者は韓国人学生のカップルと僕の3人だった。


外壁に開けられた無数の孔


矩計図(新建築2014年9月号より)

躯体は「ホワイトコンクリート」という特殊なコンクリートで作られている。このホワイトコンクリート生コンプラントを借り切って練らなければならず、単価にして一般のコンクリートの10倍にもなるという。余分が出ないよう細心の注意を払って発注をしたそうだ。
また化粧型枠の杉板を手に入れるために、施工を請け負ったゼネコンが杉山をひとつ買い取り、建物の完成時には山に生えていた杉が無くなったという冗談か本当かわからないような話も聞いた。杉板の化粧型枠は再利用ができないため、通常の型枠の数倍の数量が必要になる。「山一つ分」というのは、あながち誇張ではないのかもしれない。
また基本的に躯体のやり直しが利かないため、打設は一発勝負なのだそうだ。よく見ると、空調の吹出口が孕んでいたりもするが、それ以外は極めて綺麗に施工されている。さすがはT中さん。
敷地含めた総事業費は約60億円、土地と建物でほぼ半分ずつという。


まず5階の如来堂に案内された。ここは阿弥陀如来が安置された部屋なのだが、寺院にしてはなかなか破格で、グランドピアノが置かれコンサートも催されるという。残響音が短くピアノの演奏や歌唱に最適なのだそうだ。
壁にはロンシャン礼拝堂を髣髴とさせる無数の孔が穿たれており、そのまま外観にも表れる。
特に、天井に届くひとつの窓から差し込む光は、春分の日秋分の日にちょうど如来像に当たるように設計されているのだが、天候の具合もあってまだ一度しかその現象が起きていないそうだ。その光り輝く姿を写真で見せていただいたが、神々しく輝く如来像は確かに迫力があった。


4階の本堂の内陣は壁一面に金箔が貼られ、右側の壁には莫高窟の壁画を高繊細なプリントで再現したレプリカがあった。この壁画のレプリカは中国から寄贈され、これを納めるために急遽設計変更し折上天井を設えたという。現場の慌しさが伺えるエピソードだ。

 
「空ノ間」は如来堂とうって変わって残響時間がとても長いため、バイオリンの演奏なんかに適しているらしい。角の正方形の欠けは排煙窓で、途中から設けられたそうだが、これってスカルパだよね?

 
バルコニーにはミニ水琴窟があり、水が周りから落ちると、階段室にカラカラと音色が聞こえるようになっている。


ロの字型の階段は光の入り方が美しいが、RC打放しの壁面を見るに断熱をしていないのか「夏は死ぬほど暑く、冬は死ぬほど寒い」らしい。階段室から極楽浄土に行けるなんて、なかなかお手軽じゃないか。


3階の法要室を見た後エレベーターで1階に戻り、見学は終了。たっぷり1時間半は見たと思う。専門的な内容や現場の逸話もユーモアたっぷりに語り聞かせてくださった解説員さん、ありがとうございました。

 
配置図、断面図(新建築2014年9月号より)

ところでなぜこんな不思議な寺ができたのか。
宗派は浄土真宗で、もともと都心に寺院を作ることが目的だったそうだ。その付帯機能として納骨堂があるが、中心に据えられた機械式納骨堂は日本最大のターミナル駅から歩いて行けるという立地特性から、関東を中心に全国から納骨の依頼が舞い込んでいるという。
僕も学生時代に墓の研究をしていたこともあり、墓地というものに人並以上の関心があるが、墓地は立地次第だとつくづく感じる。郊外の山を切り開いて作られた大規模霊園などは墓参りに行くにも一苦労で、代理墓参サービスなんてものもあるくらいだ。また檀家の減少、無縁墓の増加により、近い将来、遺族に負担を強いる旧態依然とした全国各地の墓地が荒廃し、墓制の存続も危ぶまれている。

いっそ墓など要らぬ、灰をその辺に撒いてくれ!とも思うけど、現在の墓制では墓地以外の埋葬を禁じているため、エアーズロック辺りまで行かないと叶わないのだ。窮屈だな、この国は。
そんな状況を鑑みると、維持管理がきちんとなされ、音楽イベントなんかで人が集まり普段からワイワイガヤガヤとしているところに狭いながらも納骨される方がまだイイな、と思ってしまう。


近代的な都市は死者と生者を隔絶し、死から目を背け、生への眼差しのみに依存してつくられている。東京都内にある小規模な墓地はその周囲に高い塀を設け、内部の様子を窺い知ることができないケースがほとんどだ。
かつて冠婚葬祭の中心に住宅があり、死を迎えるのも住宅だったが、今では約8割の日本人が病院でその生命を終えている。
こうした生と死が断絶した都市空間は、人口の自然減少という大都市が未だ経験したことの無いフェーズに差し掛かったときに、果たしていつまで有効なのだろうか。

 
Philippe de Champaigne "Vanitas" (1671)/ Giovanni Martinelli "Memento Mori (Death comes to the dinner table)" (1635)

死と向き合うことは決してネガティブなことではない。古代ローマでは「メメント・モリ」といったが、死を想うことで生を生きる哲学は古くから存在し、日本においては仏教がその役割を担っていた。
「寺はもともと寺子屋に代表されるような、地域に根ざした場所でした。そんな寄り集まれる場所をつくりたいというのが住職の願いでもありました」と解説の方は言った。
ゆえにこの寺は、もちろん死者を弔う場所でもあるが、人々の寄り集まる場所としても意図されている。そのためのコンサート可能なホールであり、見学者にもまた丁寧に対応する。

近代が排除した死を内包しつつ、生きる者と共存する空間をつくる。そんな未来の建築の姿を、たまたま訪れた新宿の街中の、異形の寺で感じた。

死者とともに生きる未来は、案外すぐ近くにあるかもしれない。

おわり


建築における「コンセプト」と「現実問題」について

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昨晩、とある学生から下記のメッセージをいただいた。

>>

初めまして。
私はある大学の学部1年の者です。
突然失礼ですが、どうしても気になることがあるので質問させて下さい。
私は三分一博志さんの建築に対する考え方(動く素材[太陽、水、風など]を発見し、調査し、研究し最終的に建築の中に落とし込む)がとても好きで、自分もこういう思想を元に建築をつくっていきたいなと思っていました。しかし、実際に三分一さんの作品である六甲枝垂れを訪れてみて現地の人に話を聞くと、六甲枝垂れは六甲山の頂上にあり周りの湿度が高い上に建物の外部からの風や水を建物の内部に取り込んでいるため、建物内の湿度が高くなり、さらに夏の室温を下げるために冬にできる氷を貯蔵するための氷室を設置しているため、湿度が常に80%以上になり、室内にカビが生え、困っているとおっしゃられていました。その他にも困っている部分がいくつかあると聞いたのですが、これを聞いて、自分の中で理想の建築と現実の建築とのギャップに対する疑問が生じ、とても迷っています。
(中略)
具体的に言うと、三分一氏に限らず、多くの建築家の方々が各々の思想を建築に取り入れ、各々の思い描いた建物をつくろうとするわけですが、それに対して実際に建物を使用したり、管理する側の人間からすると後に予期しない事態などが起こり、その事態に対応しなければならないという現実があるという点に関して、それでも建築家はコンセプチュアルな建築を続けていくべきか否かということです。

>>


学部1年生というが、僕が1年生の時分にはもっとエゴイズムに溢れ、もっと単純に空間の在り方などといった絵空事について考えていたのだが、この質問を投げかけた彼は建築雑誌を飾る煌びやかな世界と現実とのギャップに直面し、その葛藤を吐露する。まだ恐らく10代の学生の極めて真摯な問いであり、またこの世界に属する誰もが一度は目の当たりにするテーゼでもある。
この無垢な質問に感心しつつ、なぜ僕なんかに質問するのだろうと当惑しつつ(笑) この場にて僕なりの意見を述べさせていただきたい。


まず「コンセプチュアルな建築」と「現実の問題」が彼の中では二項対立として存在し、彼はそのせめぎ合いの中で葛藤しているように見受けられるが、まず大前提としてこれらは対立項ではない。

ものを生み出すときに「コンセプト」は欠かせない。
経験的にいうとデザインは

 1)コンセプトを組み立てる
 2)与条件を洗い出し、整理する、紐解く
 3)形を生み出す

という3つの段階を経る。
これは全てのデザインにおいても言えることであり、逆にこれを逸脱したものはデザインと呼びづらい。
彼の言う「コンセプチュアルな建築」とは恐らく、1)のコンセプトが特に際立ち、現実の問題に対する解決はややおざなりになっているものを指しているのだと思う。

ローマの建築家ウィトルウィウスは建築の三要素を「用・強・美」と定めた。多少の解釈の違いはあれど、基本的にこの3つは時代を超えて通用する原則だ。即ち「用途、利便性、快適性」「構造的強度、堅牢さ」「美しさ、心地よさ」などと言いかえることができる。

彼の前半の話によれば、三分一氏の作った建築「六甲枝垂れ」がカビを始めとした諸問題を抱え、美しく明快ながらも管理者にとっては不都合な建物となっているらしいが、このカビ、そして恐らく結露は、当然ながら建築の寿命を縮める。言い換えれば「用・強・美」の「用(利便性)・強(強度)」が満足されていない状態だ。

極論を言えば、そんな現実問題を直視していないものは建築ともデザインとも呼べない、粗悪品だ、と声高に叫ぶこともできるが、それはデザインに対してあまりにも保守的な姿勢である。要はつまんねーヤツになってしまう。

本当に問題が起こると予想された場合、例えば誘発目地を入れなかったので外壁タイルにクラックが入ったとか、脳天シールが切れたので漏水したとか、ディテールで解決できたであろう努力を怠り瑕疵を引き起こしてしまったのなら設計者に問題があるが、現実には全ての問題を予測し事前に解決できる技術者の方がむしろ少ない。
それでも多くの建築家は、真に作りたいもののビジョンを明確に保持し、建築界に一石を投ずるべく巨視的・微視的な努力を重ね形を練り上げる。いつの時代もこうしたトライアンドエラーの上に、技術の向上は存在する。
かの丹下健三が設計した「国立代々木競技場(1964)」でさえも竣工時から鉄板屋根の漏水に悩まされたと聞く。名建築に漏水の話はつきものだという笑い話もあるが、まさしく前例のないデザインに直面したとき、あらゆる手段を講じて問題の予測おこない、解決に導くべく努力し、それでも起きてしまった問題に対して真摯に立ち向かう、それが技術者の態度としてふさわしいものではないだろうか。

僕は「明快なコンセプト」から発想しつつ「現実の問題」を解決するべく残りの想像力を動員し実現に向け努力すること、それが建築家及び設計者、デザイナーにとって必要な職能だと思っている。
諸条件・諸問題のインテグレーションの先に、本当のデザインの地平が広がっている。
決して「どちらか取ったら、どちらかを捨てなければならない」といった安易な二項対立に陥ってはならない。


こんなところでしょうか。

すっぴん風メイクと建築

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XBRAND掲載「美的」記事より

「すっぴん風メイク」や「無造作ヘア」などといった言葉を耳にしたことがあるだろうか。これらは僕ら人間のインターフェイスである顔や頭髪において、女性の厚めの化粧や、男性の整えた髪型に対するカウンターに位置するファッション用語である。
これらは往々にして「自然」や「無造作」をテーマに謳っているが、本当に「無造作」なのではなく、周到に準備された下地の上に成立するテクニックであることはよく知られている。
つまり「すっぴん風」であって「すっぴん」ではなく、「無造作ヘア」であって「ボサボサ」ではない。
その線引きは「一手間加えて洗練させる」といった手続きを経なければ到達し得ない意匠(デザイン)にあるといえるだろう。

建築でも「無造作」「無作為」を目指すデザインは数多くあるが、巧妙にデザインされている例は残念ながらそう多くない。


配管が露出した天井の例

卑近な例でいえば、既存の天井を取り払い配管や配線を露出させる手法は、手軽に天井高さを高く見せ、かつ均質な石膏ボードの天井面を荒々しく表情豊かな天井へと変化させる視覚的効果があり、現代においてカフェやアパレルショップ、カジュアルなオフィスなど至るところで見受けられる。近代建築において隠蔽されるべき建築設備が露出するこのドラスティックな意匠は、反面、うまく処理しなければとても見れたものではない。
(ちなみにこの手法は配管類を塗装しなければならないためコストがかさみ、清掃の手間や空調負荷が増大するなどのデメリットも多い)

また雑居ビル内の居酒屋やカフェの内装で躯体のコンクリートをわざと露出させている場合もよく見かけるが、目に見えてわかるぼこぼこしたジャンカや1㎜以上ありそうなクラックが平然と存置されたりして、建築屋としては「オイオイマジかよ」と思うことも多々ある。

「すっぴん」と「すっぴん風メイク」、「ボサボサ」と「無造作ヘア」という対立は、〈ありのままの状態〉と、前述の通り〈「一手間加えて洗練させる」ことで獲得されるもの〉という対立概念に還元される。
建築の意匠も同様に、一見すると素朴で荒々しい素材の構成を見せる場合でも、野暮に見せないようにつくるには入念に計画を練り、ディテールを詰める(=一手間加える)以外に術はない。

ここで、均質な素材で臓器を隠蔽するモダニズムと相反する「隠蔽しない」意匠であっても、モダニズムと同じ経路を辿らなければ到達できない領域にあるという逆説的現象が起きている点も見逃せないだろう。


「ラムネ温泉」藤森照信(2005)

例えば藤森照信氏のつくる建築はモダニズムとは遠くかけ離れて素朴で荒々しく、時にゆるふわ系で「カワイイ」と取られるかもしれないが、コンセントや照明器具、感知器、消火設備、防火設備をどう処理していたかと思いあぐねても思い出せず、その巧妙な隠蔽方法に思わず唸ってしまう。
モダニズムの厳格な表情と真逆の弛緩しきった表情を見せながら、メカニカルな部分は周到に隠蔽する、
言わば「すっぴん風メイク」的建築なのだ。女子力が高い。

モダニズム以降、建築の「お化粧」に対する批判はあって、仕上にタイルや壁紙を貼ったり、木目シートを使用するのは本質的なことではない、偽装だとする向きは少なからずある。
その彼らがしばしば賛美する安藤氏の建築などはコンクリート自身による「お化粧」の極地であり、石やタイルで仕上げるよりコスト的にも高くつくのだから実情はねじれている。
結局のところ、現代的な材料で、レディメイドのカタログから物を組み合わせて作る以外方法が限りなくない現代建築の事情を鑑みれば、「お化粧」と折り合いをつけて親和性を高めていくのが現実的なところだろう。

僕は彼らを非難するつもりもないけど、デザインに関わる以上、時代がどちらに振れても「すっぴん」ではなく「すっぴん風メイク」を、野暮より洗練を、心掛けていきたいなぁと思うのです。

ラブドールと写真家 ―「LOVE DOLL × SHINOYAMA KISHIN」展トークイベント レポート

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出典:WWD


手渡された名刺には「芸術家」でも「アーティスト」でもなく、「写真家」という肩書きが控えめに書かれていた。

「激写」という言葉を生み出し、時代とともに先端を走り続ける篠山紀信氏は、週刊誌のグラビアをはじめ「写真」を媒体に多岐に亘る被写体を撮り続け、活動開始から半世紀経った今でも現役というモンスター写真家だ。
ごく最近にも原美術館で開催された「快楽の館」展(2017)では、ヌードの女性を原美術館の室内外で撮影し、等身大のサイズで同じ場所に配置するという手法で現実と虚構が混濁したセンセーショナルな作品を披露した。

その篠山氏が今度は「ラブドール」を撮影するという。
果たしてどんなアプローチで撮影に挑むのか。被写体に多くを依存する「写真」というメディアを通して、写真家は何を訴えるのか。

2017年4月30日、写真展の会場である渋谷の「アツコバルー」で、美術史家の山下裕二氏との対談があるとTwitterで知った。
早速、学習院大博士課程で身体表象文化学を研究している友人の関根麻里恵さんと、同じく友人で東京藝大でラブドールを用いた修了制作で数々のニュースメディアの注目を集めた菅実花さんと連れ立って、対談に臨むことにした。


「僕はラブドールを撮るの、初めてなんですよ」
こう篠山氏は切り出した。
撮影のために人間の代わりに人形を使ったことは幾度となくあり、また作品としての人形を撮ったこともあったが、以前に撮影した四谷シモン氏の人形とラブドールとの違いについて、前者が「アート」として完成されているのに対し、後者は純粋な「工業製品」であることに興味を覚えたのだという。
ラブドールは鑑賞のための「芸術品」である以前に、男性との性交渉という“機能”を果たすために、極限まで人間に擬態した「工業製品」である。それを篠山氏は「近未来的な写真を撮るのに都合がいい」と評価する。
「『写真』って『真』を『写』すって書くでしょ?だからみんな字の通りに受け取って『写真は真実を写すものだ』と思っちゃう。違うんですよ、写真なんて全部ウソ、ウソつきなんです。で、今回撮ったラブドールもウソでしょ?ところがね、ウソ×ウソ=真実だったりするんですよ」
自身も落語を嗜む篠山氏は軽妙に切り込んでいく。
「それで、あたかも人間に当てるような光や、細やかな仕草を真似させて撮ると、一瞬だけ奇跡のような瞬間がある。そこを逃さず撮るんです」

撮影にまつわる裏話、職質を受けたときの警察との駆け引き、他の現代アーティスト批評なども交えつつざっくばらんに語る篠山氏は、親しみやすさと鋭利な頭脳を併せ持ち、聴衆はその軽妙な語り口と時折垣間見せるプロの眼差しに徐々に呑まれていった。

山下氏から写真と現代美術の関係について尋ねられた篠山氏は「写真を現代美術としてやってしまうとつまらない」と返す。週刊誌の仕事を数多くこなす中で、「写真は生々しさこそが面白い」という結論に達する。これが、あくまで「芸術家」ではなく「写真家」として活動する篠山氏のスタンスだ。


この企画を発案した山下氏は、写真家の人選について「ド真ん中直球でいきたかった」と語る。数々の女優、素人の肖像を世に送り出し、常に時代の先端にいた篠山氏以外に適任が思いつかなかったそうだ。
「この作品集に寄稿するために人を象ったものの歴史について振り返ってみたんですが、縄文時代土偶弥生時代の埴輪、その後の仏像ときて、そこから運慶を除いて、ある程度類型化されてしまうんですね。完全に人の形をしたものを作ること自体、タブーだったんじゃないかと考えるようになったんです」

人の形をしたものに心が宿る。そう考える民族は必ずしも日本人だけではない。世界各地で人の形をしたものにまつわる逸話があり、信仰が存在する。
その禁忌の対象を撮ることについて山下氏は「薄皮を剥いでいくエロス」と形容する。
“禁忌の中にエロスは存在する”とバタイユは言ったが、ラブドールは「人に限りなく近いモノ」であると同時に「性的消費のために作られたモノ」であり、メタレベルで禁忌の感情を誘発する。華奢な体型を有し、現代人好みの顔を研究して作られたこの罪深き創造物は、あまりに美しく、そして官能的だ。


「digi+KISHIN」の映像作品が上映されている展示室の壁には、バラバラになったラブドール達の写真がある。これまで人間を模倣し、愛情の眼差しをもって撮られていた被写体の変わり果てた姿によって、今まで見せられていたものが一転、虚構だと気づかされる。
「最期はこの手でバラバラにしてやろうと思った」と篠山氏は笑う。「撮れば撮るほど、ドールって美しいんですよ。そのうち俺達はこいつらに支配されてしまうんじゃないかって思えてきて、それなら先にバラしてしまおうと(笑)」
これらの精巧なラブドールを製作するオリエント工業には、AI搭載のオファーが絶たないのだという。菅さんから聞いたのだが、既にAIを搭載したドールも存在するそうだ。

まるでSF映画のような出来事が、僕らのすぐ背後に迫っている。これらドールの写真がひたすらに耽美で、同時に胸騒ぎを覚えるのは、篠山氏のファインダー越しに「ウソ×ウソ=真実」が見え隠れしているからではないだろうか。

洗練されたドールが現代人の欲望を映し出す。たとえ虚構と知りつつも人々はそれを求め、やがて現実を凌駕し、より理想的な「ヒト」へと近づいていく。そのずっと後方で、人間は自分たちの模造品の華やかな躍進を眺めることになるかもしれない。

篠山氏の写真は、いつまでも「ウソ」だと笑っていられない近未来の予言を内包する。
ルブタンのハイヒールを履いた彼女たちは、その澄んだ瞳で静かに僕らに問いかけている。

篠山紀信写真展 - LOVE DOLL×SHINOYAMA KISHIN-』
 日時:2017年4月29日(土)〜 5月14日(日)
    14:00〜21:00(日、月曜は11:00〜18:00)
 場所:渋谷 アツコバルー arts drinks talk
 URL :http://l-amusee.com/atsukobarouh/schedule/2017/0429_4198.php

墓とインスタ 変容する死との距離感

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九相観図(部分, 道源宗一和尚筆)とインスタ納骨


「#納骨」といういささかパンチの効いたハッシュタグがつけられ墓前で笑顔を向ける若い女性の写真と、それを揶揄するコメントが僕のTLに流れてきた。
その投稿には納骨という一般的に公にすべきでないとされる儀式をSNSに投稿することに対し、不謹慎であるとの批判的な意見が寄せられていた。
卒論で墓の研究をおこない、卒制で池袋に巨大な墓地を計画し、一人で、あるいは女性とのデートにおいてすら墓地を歩いてきた僕にとって、その光景は極めて現代的な葬送の形だと感心したのだが、ここにおいては意見が分かれるところではあると思う。
ところでなぜ墓は禁忌の対象なのだろうか。

「墓」の語源には、亡骸を置いておく「放り場(はかりば)」からきているという説がある。近代以前の日本において、大名や豪族、僧侶といった特権階級の人々の亡骸は丁寧に埋葬され、塚や塔が築かれたが、それ以外の庶民の亡骸は往々にして野山に棄てられていた。遺体は腐敗し、ハエや蛆がたかり、野犬に食いちぎられやがて土に還る。その目を覆いたくなる情景は死への畏怖の念を喚起し、極楽浄土へ誘われんがために死後の世界を解く宗教に人々が執心したのは想像に難くない。また衛生的にも決して良好とはいえない「放り場」は、人々に「穢れた場所」という意識を植え付けた。それが近代以前の日本の墓であった。
江戸時代以降、庶民も石塔を建て埋葬する文化が広がり、また戦後には埋葬空間の容積を圧縮させるために火葬が普及した。昭和40年頃までは70%が土葬だったというくらい、意外にも現代の埋葬形態は歴史が浅いのである。
そして近年、過去に紹介した「瑠璃光院白蓮華堂」など都心のビルディングタイプのハイテク納骨堂も徐々に浸透している。まるでマンションやホテルのような内装、サービスで、在りし日の「放り場」の面影は微塵も感じさせない瀟洒な建造物が次々に生まれている。
瑠璃光院白蓮華堂に行ったこと - 建築・アート・デザインをめぐる小さな冒険

こうして近代墓の変遷を俯瞰してみると、墓というコンテンツは視覚的・衛生的な「穢れ」から脱却し、死との距離感に変容をもたらしていることがわかる。
モノとしての墓には、生理的・精神的な恐怖を呼び起こす穢れの場から、アイコニックな石塔建立の時代を経て、より衛生的で視覚的安心感をもたらす演出装置としての納骨堂、といった大きな変遷がみてとれる。この変遷とともに、死と対峙する距離感が変容するのも、またごく自然なことなのだ。

一方で、地域ぐるみで冠婚葬祭を執り行った地域共同体は、核家族化と単身世帯の増加、郊外から都市への若年層の流出という人口の自然減、社会減により瀕死の状態にある。テレビでは老人の孤独死問題が取り上げられ、国家は地域共同体の崩壊について喫緊の対策を迫られている。その地域共同体のオルタナティブとして、SNSが新たな社会的ネットワーク、いわば〈仮想的共同体〉として機能していることは、もはや疑いようがない。
納骨をインスタに上げた彼女もまた、地域共同体の崩壊した現代において、SNS上の〈仮想的共同体〉に自身の父親の死の記号を刻むことで、〈仮想的共同体〉における安息と他者からの承認を得ようと試みた現代人の一人である。それは情報化に伴い、オルタナティブとしての共同体が外在化された現代という時代を象徴している。

彼女の行為を「不謹慎だ」と非難することは容易い。しかし、日本人は死者を割と都合よく解釈してきた節があることを認めなければならない。柳田國男が紹介した両墓制や、盆彼岸の習俗の類は顕著なもので、手を合わせた先に祖霊がいるというような生きる者の都合によって柔軟に解釈された信仰がごく一般的に存在する。流行り廃りはあれど、その根底には「祖先・家族を大切にする」という儒教の「祖霊信仰」が姿を変えつつ流れている。大切な人との大切な瞬間を留めるインスタグラムに投稿することが彼女にとっての「祖霊信仰」ならば、それは安易に否定されるべきものではないのではないだろうか。

仮に僕が彼女の父親ならば、咎めるどころか「死後も一緒に写真を撮ってくれるなんて本当にエエ子や・・・」とウッカリ思ってしまうかもしれない(笑)

ボーヴェ大聖堂

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―その瓦礫が表しているものは絶望ではない。大聖堂において苦痛は、ただ解放と再生を謳いあげるテ・デウムへの悲痛な期待のなかにだけ存在する。― ジョルジュ・バタイユ*1



パリから北におよそ77km、ボーヴェという人口5万人程度の小さな街に、世界中のあらゆるキリスト教建築のなかでも、ひときわ巨大なカテドラルが存在する。
「サン・ピエール大聖堂」、通称"ボーヴェ大聖堂"と呼ばれるこのカテドラルは、パリを代表するノートルダムアミアン、ランス、シャルトルらを凌ぐ48mの天井高をもつ、完成時は世界最高の高さを誇る大聖堂だった。
おおよそ一般的なカテドラルの平面はイエス磔刑の姿を模したとされる十字形の平面を有するが、ボーヴェ大聖堂は内陣と袖廊、及びその交差部のみで構成されたT字形である。この形状に至った背景には、身廊が完成後に崩壊し、現在に至るまで修復がなされていないという特殊な事情がある。いわば「未完の大聖堂」なのだ。


ボーヴェ大聖堂 平面図、断面図


ボーヴェ大聖堂の建造は13世紀に遡る。中世のカトリックの大聖堂は、周囲より圧倒的に高く、天に届かんとする尖塔/身廊を造ることが至上命題であった。
ゴシックの教会は石を高く積み上げるために、壁のはらみ出しを抑えるべく外側に控え壁を設ける。これが「フライング・バットレス」と呼ばれる構造部材で、このフライング・バットレスのアーチが連続する外観が、ゴシック建築特有のゴツゴツした印象を形成している。
ボーヴェ大聖堂もその例に漏れず、二重のフライング・バットレスによって高い天井を実現させるも、1284年に大規模な屋根の崩落にあい、一時は建設がストップしてしまう。
工事が再開したのは実に3世紀後のことで、1569年、ようやく高さ157mの巨大な尖塔が完成を迎える。
しかし、完成後わずか4年で尖塔と身廊が倒壊。その後、宗教施設として使用するのに必要な袖廊と内陣部分のみが再建されたが、資金難や社会情勢の変化から巨大なカテドラルを建造する意義が失われ、現在の姿のまま工事が中断されてしまった。

ボーヴェ大聖堂はその巨大さに対する構造設計の脆弱さから、しばしば失敗作のレッテルを貼られてしまう。確かに柱を太くし、より堅固で断面の大きなバットレスで支えていたら、崩壊せずに生き残ることができただろう。フランス一高く巨大なカテドラルとして世に名を轟かせていたかもしれない。
だが、現実にボーヴェ大聖堂は自らの自重を支えきれずに崩れてしまった。都市の威信をかけた建築が、バベルの塔の如き愚行の象徴となり、石造建築の限界を示す教訓として語られるようになってしまった。
長い年月をかけて積み上げられ、世界最高と謳われたであろう芸術品が一瞬にして瓦礫の山と化したこの出来事について、当時の人々の無念を推し量るのは、さほど困難なことではない。

僕はこのボーヴェ大聖堂の、4年間のみこの地球上に存在した幻の姿に想いを馳せる。身廊や尖塔が失われ、補強のための鉄骨に縛られているにも関わらず、なお孤独な気高さを感じさせる佇まいはその空想を受け止めるのに十分すぎるくらい大きな器だ。その空虚の部分、存在しない身廊は、逆説的に、空虚であるがゆえの無限の空間について饒舌に物語る。その身廊に、尖塔に、空想の中の僕は眺め、いとおしむ。時に身を屈めて覗き込み、大きく仰ぎ、そしてふわりと宙に浮き、ステンドグラスから降り注ぐ光の媒質で満たされた空間を自在に泳ぐ。複雑なフライング・バットレスの隙間から差し込む光は虹色に変化し、石工が丹精込めて磨き上げた大理石の肌を、大小様々な彫刻で飾り立てられた細長い身廊を、複雑な陰影のままに染め上げていく。いつまでもこのエーテルの海に漂っていたいと願うのは、永遠に喪われてしまった光と翳への渇望だろうか。
キリスト教文化はカテドラルの崇高な空間を生み出したが、崇高な空間はまた人々の理性と情熱が生み出したものであることを何度でも思い出そう。かつてバタイユがランス大聖堂に捧げたテクストに漲る熱気のように。

ボーヴェ大聖堂は未だ完成しないまま周囲から屹立して佇むがゆえに、僕の好奇心と想像力を無限に掻き立てる。空虚の身廊に、在りし日の名も無き石工の、ガラス職人の、生き生きとした姿が浮かんでは消えてゆく。灰燼に帰してしまった空虚には、空想を潜り込ませる余白がある。

ボーヴェ大聖堂は崩壊によって、皮肉にも永遠の存在を示唆し続けている。

*1:ジョルジュ・バタイユ酒井健訳)『ランスの大聖堂』(ちくま学芸文庫,2005)p21

金沢建築弾丸ツアー(1日目)

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「建築を見に行く」という行為は、著名な古刹・城郭・洋館でもない限り、建築の業界に携わる者でなければなかなか理解し難い行動かもしれない。いや、この業界にいても理解を示さない人は一定の割合で存在し、ましてや絨毯爆撃のように片っ端から目とカメラに収めていく人は中でも少数派だろう。僕にとって「建築を見に行く」ことは、先人に習うものづくりの基本的なスタンスである「観察する」こと以上に、アドレナリンが分泌するスポーツのような、あるいは知的なゲームに身を投じる静かな狂騒が存在する。このブログのタイトルのように建築をめぐるスリリングな冒険は、一度味わったら抜け出せない妙味がある。

2017年9月23日、24日は一人で金沢を旅することにした。
休日の多くの時間を勉強に割くような無味乾燥とした生活のなかで、この2日間の小旅行はいたく心待ちにしていたものだった。中でも特に見たかったのは谷口吉生氏が手がけた「鈴木大拙館」で、過去に訪れたNYの「MoMA」や愛知の「豊田市美術館」、広島の「中工場」では空間の作り込み方やシャープなディテールにシビれたものだが、金沢の「大拙館」はこれらに比べると極めて小規模で、写真を見ても全容が掴めなかった。この手の建築を理解するためには、空間に身を置き自分の目で確認する他ないことは明白だった。

例のごとく「旅行の設計」を利用して予定を組み立てていく。今回は1日目に車、2日目に徒歩と移動手段を分けて計画した。もともと加賀藩の城下町である金沢市街はコンパクトで高密度な街区を形成しており、美術館や記念館など見るべき施設が徒歩圏内に集中している。こうして2日間で回ることができる限界まで予定を詰めこんだ結果、金曜と日曜の夜に夜行バスで往復するという貧乏学生の旅行みたいな計画になってしまった。なんてこった。


金沢駅前広場・鼓門」白江龍三+トデック他(2005)


身体のスケールからかけ離れた巨大なガラス屋根を頂く広場と、それを支承するねじれた木の門。格天井や鼓といった伝統的意匠を取り込んだポストモダン的な構造物で、アメリカのTravel & Leisure(トラベルアンドレジャー)が「世界で最も美しい駅14選」に金沢駅を選んだことで話題になった。

 
トラスとその端部の納め方。設計者の癖が滲み出す執拗なディテール。


西口には社会主義国のそれを髣髴とさせるモニュメントが。意図は一見してわからなかったため調べてみると「カナザワ」という片仮名と能登半島の形状を模しているのだとか。わかるかって。

確かに写真栄えはするが、実物を見ても大味で洗練されているとは到底言い難く、中国や新興国で支持されそうなデザインに思えた。金沢は伝統工芸が盛んな街でもあるから、よりナイーブな「和」に舵を切った方が似合っていると思う。だが昨今のJR地方駅舎の没個性的なガラスと金属パネルの箱、という惨状に比べれば、地域性を歪ませつつも取り込み、独自のデザインへと昇華させているという点は評価したい。


谷口吉郎墓?」

谷口吉生氏の父、谷口吉郎氏の墓が市内某所にあることと聞き、ライフワークである墓の実測に向かった。そこの管理者に事前に聞いた場所に建っていた墓石は2塔あったが、どちらも故人の名が刻まれておらず、吉郎氏のものであるという決定的な証拠がなかった。自邸を設計し、「墓士」の異名をもつほど多くの墓の設計をおこなってきた谷口氏が自らの「最期の家」を設計しなかったというのがどうも腑に落ちず、写真を数枚撮ったものの結局実測するには至らなかった。こちらは引続き調査する。


「金沢ビーンズ」迫慶一郎/SAKO建築設計工社+大和ハウス工業(2007)


中国に本拠地を構え大型の案件をこなす建築家が設計した書店。ロードサイドの店舗としては最大の蔵書数を誇るという。竣工当初は白色のLEDが白色の床と壁を照らすような手術室のような空間だったが、不評だったのか、現在は一部が電球色のものに変えられて温かみのある店内になっていた。


本棚で埋められた緩やかな曲面を描く壁面の随所に、立ち読みを促す「立ち読み台」が設けられている。書店で立ち読みを促すというのは、プログラムからして斬新だったが、利用している状況には出会えなかった。薄いガラスは冬季には結露するのだろう、取合っている面材が水を吸ってボロボロになっていた。ハッキリ言って、なんて素人くさい納まりなんだろうと思った。ロードサイドの店舗という比較的短命な建築ゆえに許される面もあるのかもしれない。


トイレは驚くほど青! 女子トイレは赤らしい。この思い切った色彩はOMAやMVRDVのようなダッチデザインに通じるものがある。


家具も随所に「ビーンズ」オリジナルの意匠がみられた。洗練されてはいないが、見た目に楽しげな工夫がみられる。


店を出て屋外の非常階段に登ってみる。蹴込のないスカスカ階段。

一回りして、それなりのコストの中で当初の意図通り実現する難しさ、厳しさを感じた。だが建築家がこの手の仕事にどんどんコミットしていけば、間違いなくロードサイドの風景は違ったものになるだろう。収益性と合理性だけで機械的に量産される郊外の店舗建築に一石を投じたことは、大いに意味がある。


「石川県庁舎」山下設計(2002)


3棟の巨大なヴォリュームが立ち並ぶ比較的新しい県庁舎。エントランスにある3層吹抜けの巨大なアトリウムは、シルバー調のやや冷たい印象を覚えた。各種催し物が開催できる大きな空間が必要だったのだろうが、高級感が出過ぎないよう抑制の効いた意匠でまとめられている。


19階は展望台となっていて、360度ぐるりと金沢の街を見晴らすことができる。
上から眺めると、海と山、それを繋ぐ陸地が緩やかに広がり、ほぼ中央に城下町が形成されている。展望台からはこうしたマクロな地形の特徴がわかった。


展望台には庁舎の模型があった。立面は「山」の字の明快な構成。鳥瞰で見ても、やや権威的なきらいがある。
空いているスペースには住民による作品の展示がおこなわれており、公共に開かれた場として機能しているようだが、いわゆる「お役所」建築の域を出ない保守的なつくりであった。高層建築なので仕方ないのだろうが、もったいない気もした。


車寄せにあるドライエリアはRのついたフラットバーを等間隔で並べるという凝った意匠。


「金沢海みらい図書館」シーラカンスK&H(2011)


この旅行で「大拙館」の次に楽しみにしていた日本海の沿岸部につくられた図書館である。さすがに潮風からの塩害でアプローチにある溶融亜鉛メッキ製の支柱はまだらに変色していたが、過酷な環境にありながら外壁は竣工当時の白さを保ったままだった。
内部は西欧の図書館にあるような巨大な気積を有し、開放感と空間を共有する一体感を目指している。


外壁はフッソ樹脂塗装の有孔パネルで、開口に合わせてジョイント位置をずらし、消防隊進入口もパネルの割付に合わせて設定している。こうした細やかな操作は、雑誌を眺めているだけではなかなかわからない。やはり建築は現物を見ることが一番勉強になる。


3階は建築面積の1/4程度のフットプリントしかなく、吹抜けに面して読書スペースが設えられていた。宿題をやっている子供たちの姿も見られ、この辺りの子供たちは公共空間に恵まれているなと思った。


3階の本棚は空間の白さ、透明感と呼応するように、クリヤーの側板が採用されている。

 
防火シャッターは柱の前後で千鳥状に配置することで、柱材の見た目の軽さやシャープさを出していたり、付属する防火戸は書棚と高さが揃えられている。こういうところに高度な設計のセンスが感じられる。


ベルマウス状の開口部。エッジの鋭さを出さないよう丁寧に仕上げられている。


男子トイレは白を基調とした無駄のない意匠。


1階から2階へと上がる螺旋階段は裏から見ると1枚の鉄板を曲げ、溶接して塗装されている。この建築で最もエロティックな部分だ。

「海みらい」は図書館の機能をヴォリュームに詰め込むだけでなく、より居心地の良い空間を目指して設計された。そのために設計者が求めたのは巨大な気積であり、その大空間に光を落とし込むドット状の開口部のディテールが描かれた。そこから2枚の板で断熱材をサンドする工法が提案され、空間にフィードバックしている。この空間の在り方から工法が提案されるプロセスは、はじめに通り芯ありきの設計手法とは180°アプローチが違う。実務者として学ぶべきことが多い。


「facing true south」中永勇司(2011)

直訳すると「真南向き」という不思議な名前は、屋根に設けられた2つのハイサイドライトが真南を向いていることに由来する。このハイサイドライトは日射の解析により、真夏の直射日光が直接室内に入るのを防ぎ、また冬季の日射を取り入れることで温熱環境の向上に寄与しているそうだ。伝統的な工法により架構が組まれた複雑な屋根は、テクノロジーと伝統技術の融合を体現している。個人住宅のため、外観のみ見学した。


「大野からくり記念館」内井昭蔵(1996)


この地で活躍した幕末のからくり師、大野弁吉の業績を紹介し、さまざまなからくり細工の展示を行う施設で、たまたま近くを通りかかったので外観のみ撮影した。斜めに渡された木の柱が入れ子状になって交差し、屋根とガラスのカーテンウォールを支えている。有機的な平面計画は設計者の奔放で貪欲な造形意欲が華開いていた。


「大野灯台」(1934)


「日本の灯台50選」にも選ばれている地上高さ26.4mの灯台。普段は公開されていないので外観のみ見学した。灯台というと円筒形の平面が一般的だが、こちらは珍しい矩形。旅行サイトのレビューをみると「がっかりした」という意見が散見されたが、必然から生まれた寡黙なマッスと半円のガラス面をもつ純粋なモダニズムの結晶は十分鑑賞する価値があった。


「もろみ蔵」


古い醤油蔵を改装したギャラリー兼カフェ。この地区には古くから醤油蔵が立ち並び、「醤油ソフトクリーム」なるものが人気とのことで食べてみた。香ばしくて美味。


街並みを散策していて、ふと民家や商家の入口に垂壁があることに気づいた。他の地域や、同じ金沢でも観光客で賑わう江戸時代からの街並みが残る「ひがし茶屋街」などでは見られない意匠で、頭をぶつけそうなほど低い。何のためのものだろうか。


「石川県西田幾多郎記念哲学館」安藤忠雄(2002)


哲学者西田幾多郎にを記念してつくられた日本唯一の哲学記念館。小高い丘の上に鎮座するヴォリュームと、その前面の緩やかな階段といった構成は「近つ飛鳥博物館」(1994)に似ているし、もったいぶったアプローチや屹立するEVシャフトなどは「淡路夢舞台」(1999)を思い出す。設計者名が伏せられたとしていても、紛れもなく安藤建築だとわかる。


楕円形のプランターは100角のピンコロ石を器用に貼って仕上げていた。ガウディのグエル公園のタイルよりも職人の技術を要しそうだ。


トップライトから降り注ぐ光がシンボリックな円形の空間を照らし出す。


逆円錐形のコーンとそれを取り巻くようにオフセットされた逆円錐形の壁面の緊張感ある関係性。
安藤氏の建築はこれまでにもたくさん見てきたが、この二重コーンは特に施工が困難だったと思う。


手摺に目をやると、驚いたことにトップレールを支持する柱が見当たらない。どうやら自立した強化ガラスを挟み込むような形でトップレールが載せられているようだ。「引き算の思想」がディテールのレベルで実践されている。

 
展示室へはこの細長いスロープの空間を通ってアクセスする。

 
壁面にスチールの厚いフラットバーが見えたので、なんだろうと思って引き出したら、展示室とホワイエのゲートだった。ここのホワイエと庭は夜間も解放しているので、時間帯によってこのゲートで区切るようだ。注意深く見なければ見落としてしまいそうなくらいさり気ない、しかし非常に緊張感のあるディテール。


突如現れるヴォイド。ジェームズ・タレルや!(違


安藤建築においては、コンセント類の変更は認められない。

 
溶融亜鉛めっき鋼板でつくられた渋い案内板と、天井の高いトイレ。

ところでこの人なんでトイレばかり撮っているのかと思うかもしれないが、トイレは建築の中でもヒエラルキーの比較的低い部屋で、コストダウンの対象になりやすい。また雑誌に掲載されることもほとんどなく、そこまで意匠上重要視されることがないが、機能上欠かせないものである。ゆえにトイレのデザインには設計者の力量や配慮、哲学が如実に表れる部分でもある。安藤氏の美術館建築は便器すらアートに見えるような綺麗なレイアウトであり、特に感激したのは直島にある「地中美術館」(2004)の男子トイレで、これは紳士諸君は是非とも体験していただきたいし、淑女の皆様は男装してでも見ていただきたい(後は自己責任でお願いします)。

やはり世界的巨匠の作品と呼ぶのに相応しく、随所に学びのある建築だった。しかし、逃げの効かない割付けや対称・均等といった厳格な美学から構築されたデザインは、施工する側にも多大なプレッシャーと精度が要求される。これは2日目の「大拙館」で一層顕著にみられるのだが、そのコントロールも含め建築家(とそのスタッフ)の力量が試される。安藤氏の作品の中でこの「哲学館」が話題になることは少ないが、安藤建築のエッセンスが凝縮されている空間を十分楽しむことができた。

かほく市立金津小学校」安藤忠雄(1993)

 


「哲学館」から車で15分ほどの山の上に立つ小学校。この日は学校の行事のため内部の見学はできなかったが、木造の体育館を一周した。木造建築はほとんどわからないけれど、ダイナミックな架構は見る者を圧倒する強度をもっていた。


金沢21世紀美術館SANAA(2004)

学生以来2度目の来訪。この美術館の出現によって金沢城付近の様相は一変、美術館の敷居はずっと低いものになった。プログラムの根底から見直されたデザインと、それを実現させる高度なエンジニアリングの結晶とも言うべき作品で、この日見てきたどの建築よりも抽象度が高く斬新だった。開館後10年以上経つが、入場者数は年々増加しているというから驚く。


時間帯によって様相が変化する。

・零度の建築、あるいはメルクマール
この日は2つの展示を行っていた。円の中心部から襞状にニ分割されたような展示空間は、管理上2つのプログラムを分けつつ、両者の視線は交錯し、時には同じヴォイドを眺められるといった仕掛けがなされていた。一般的なホワイトキューブ+単一動線の美術館とは異なり、建築側の仕切壁は最小限度に留め、プログラムにより閾を適宜移し替えることによって展示規模や意図に沿わせた弾力的な運営が可能となる。この建築が画期的なのは、美術館というものを「美術品を納め順番に見せる大小の箱」から、展示のディレクションの可能性を無限に与える「透明な方眼紙」にしたことであろう。僕はロラン=バルトが「言語の自立性」と「社会的道具性」の中点に位置するカミュの文章を、文体の存在が消去された「零度のエクリチュール」と表現した例になぞらえ、建築家の存在を消去し(それでも純然たるSANAAの建築なのだけれど)、展示風景そのもののポテンシャルを引き出すことに成功した〈零度の建築〉と呼ぶことを試みる。この〈零度の建築〉は、車からスマートフォンへ、ハードからソフトへと移行するテクノロジーと同期した時代のメルクマールであり、ポストモダンの亡霊を薙ぎ払うには十分すぎるほどのインパクトを持って迎えられた。


またディテールに目をやると、学生のときは気づかなかった抽象的な箱を演出するための工夫が随所に見られる。屋内消火栓やコインロッカーといった、どうしても用途上室内に出てきてしまう設備は、白塗装と同面納まりで存在感の消去に努めている。箱を抽象的に仕上げるためには、こうした地道な労力が必要なのだ。


サインは具体的に、しかしそれ自体アートにも見えるよう丁寧にデザインされている。


外壁サッシと結露受けの取合いは太めのシール。バックマリオンなしのこのガラスの高さにしては、どう考えてもガラスが薄すぎるように見える。上からハンガーで吊っているのだろうか。
考えてみると、この透明感を演出するのにはガラスは無色透明でかつ薄くなくてはならないし、バックマリオンはあってはならない。とするとガラスの自重は天井から吊るしかなくなる。言葉で表現するのは簡単だが、実際に図面を起こし施工するのは、やはり高度なエンジニアリングが不可欠だ。これを実現してしまうから、SANAAは凄い。


すっかり辺りは暗くなり、人の気配も徐々に少なくなってきた。この金沢の地に降り立った宇宙船は、一層抽象度を上げて光を放つ。

僕らはSANAAの登場しなかった世界に戻れないし、最早SANAAを経由せずに現代建築の文脈を語ることはできなくなってしまった。そしてこの〈零度の建築〉を超えていくための言語を、エクリチュールを用意しなければならない。目の前の強靭なオブジェクトに意識が飛びそうになるのを堪えつつ、この日はホテルへと戻った。

(2日目に続く)

【編集中】金沢建築弾丸ツアー(2日目)

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(現在編集中です。しばらくお待ちください。)


叛逆する平面―知られざる東京都慰霊堂

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東京都慰霊堂をご存じだろうか。

東京で暮らしていても縁遠い施設ゆえにその存在を認識している人はあまりいないんじゃないだろうか。かくいう僕も恥ずかしながら2、3年前まで所在すら知らなかった。
最寄り駅は総武線両国駅で、両国国技館江戸東京博物館から少々北に歩いた公園の中にある。公園といっても聖域の類なので園内は落ち着きがあり、普段から散歩をしたり寛ぐ人々を見かける。

慰霊堂の設計者は伊東忠太で、RC造平屋建の本堂は1930年(昭和5年)に竣工した。
もともとは1923年に発生した関東大震災の犠牲者を祀る「震災慰霊堂」として建設されたが、太平洋戦争での東京大空襲による身元不明の犠牲者を合祀するために戦後改名され、園内も現在の形に整備された。現在の平和な東京からは想像し得ない悲惨な歴史の証人である。

この慰霊堂のデザインをめぐって、少々興味深い逸話がある。


当時のコンペ広告 東京都復興記念館

この慰霊堂の設計にあたって、当時、東京震災記念事業協会主催のデザインコンペが催された。
提示された一等賞金は3,000円、現在の物価に換算するとおおよそ350万円。国家的事業の名に恥じない優れたデザインを集めたかったからだろう、審査員には帝大教授を務める伊東も名を連ねていた。
その国家的デザインとして見事一等に選ばれたのは前田健二郎案で、中世西欧の城砦を髣髴とさせる胸壁を有した新古典主義風の基壇の上に、灯台のような灯火台を有する円筒を載せた、さながら「巨大な燭台」といった提案だった。


一等 前田健二郎 東京震災記念事業協会編『大正大震災記念建造物競技設計図集』洪洋社,1925

この前田健二郎なる青年は当時32歳、東京美術学校図案課(現在の東京藝大建築科)で岡田信一郎に学び、逓信省から第一銀行を経て独立したばかりの気鋭のエリート建築家であり、「コンペの鬼」と称されるほど数多くのコンペを勝ち取っていた。

ところがこの燭台に「モダンすぎる」*1とケチがついてしまう。
時は軍国主義にひた走る大正末期、愛知県庁や九段会館のような帝冠様式こそ国家的建築に相応しいと大真面目に語られた時代。西洋建築史ではナチスモダニズムの最たるバウハウスを迫害し、古典主義建築を「偉大なるアーリア人の様式」と喧伝した時代である。この頃の日独伊は建築様式におけるナショナリズムが盛んに叫ばれていたが、日本においては国威発揚の御旗の下、日本風にしなければ格好がつかないという政治的な事情があった。


左:愛知県庁舎 右:九段会館

またコンペ募集時の趣旨では「大正十二年九月一日の大震火災を記念し併せて遭難者の霊を永久に追弔し将来を警告する記念建造物を建設し以って犠牲者の弔祭場となし又社会教化に利用し得るもの*2とだけ書かれており「復興」の意味合いは希薄だったが、これでは辛気臭くてたまらないだろうと元々の設計趣旨にまで批判の矛先が及び、喧々諤々とした議論に発展してしまった。
ここで一旦抜いた刀を鞘を納めるために審査員の伊東が担ぎ出され、日本風の様式でなんとか頼むと懇願され、やむなく設計したのが現在の慰霊堂である。
竣工した照りむくりの唐破風をもつ純日本風・仏教建築風の慰霊堂を見て、前田案を否定したおエライさん達は「アァ、伊東センセイに頼んで正解だったナ」と胸を撫で下ろしたに違いない。


だが、そこで終わらないのが建築家伊東忠太である。


まず目につくのがそこかしこに出現する幻獣たち。伊東忠太が幾度となく登場させる幻獣軍団を散りばめ、厳粛で冷たくなりがちな鉄筋コンクリート造の慰霊堂の印象をユーモラスに溶かしている。
幻獣に注意を奪われつつ中に入ると、白亜の列柱に支えられた格天井をもつ巨大なホールが眼前に現れる。壁に穿たれた天窓から自然光が入る明るいホールの床は座敷ではなく石貼。畳の代わりに長椅子が置かれている。この構成、何かに似ていないだろうか。


ちょっと教会みたいだなぁと思った方、鋭い。

そう、内部構成はカトリック教会に酷似しているのだ。
伝統的に、日本の建築は格天井と天窓の取り合わせをしない。またこの手の広間は東洋では平入りが多く横軸に長手をとる形式が多いが、ここでは縦軸に長手をとるプランを採用し、わざわざ側廊や翼廊まで設けている。天窓はカトリック教会ではステンドグラスが嵌り、側廊には聖人の像や宗教画が置かれるものだが、ここでは震災の悲惨さを語る絵画がセオリーどおり納められている。
それを踏まえて平面図を見るとあら不思議、堂々としたラテン十字プランである。
和洋折衷とはいうが、ここまで隠喩としての西洋をブッ込んできた建築は日本中探しても見当たらないんじゃないだろうか。


1階平面図 伊東忠太伊東忠太建築作品』城南書院,1941,p73

外観は仏教寺院かと見まがうばかりの立派な入母屋造で、舎利塔や狛犬も配されているが、実態は旧東京市保有した無宗教の慰霊施設。そこに「日本風」という注文がつき、いよいよ出自が怪しくなった隙を突いて伊東の想像力はインドを通り越して遥か大西洋まですっ飛んでしまった。
そういった目でまじまじと外観を眺めていると、あざといまでの「日本風」の仮面で覆われた西洋という伊東の皮肉が浮き彫りになってくる。“隠れキリシタン”ではないが、当時のナショナリズムにうわべでは迎合しつつ、平面図で大々的に叛逆する。それもプランを見なければ、そしてまだまだ情報の少ない西洋建築を見慣れた者でなければ気づかないようなレベルで、したたかに遂行する。

この博識に裏打ちされた不敵さこそが伊東忠太という建築家の真骨頂なのだ。築地本願寺のように直球でインドと日本を合体させる例もあれば、東京都慰霊堂のように迎合すると見せかけて叛逆する「ちゃぶ台返し」など決め技は千変万化、それでも多くは破綻を来たすこと無く解いている。まさに天才の所業。ウーン、と幻獣を睨み返しながら唸る。

東京都慰霊堂、知れば知るほど味わい深く興味の尽きない建築である。隣接する「東京都復興記念館」も伊東と佐野利器が手掛けているが、当時のコンペの提案などの資料も展示しており、さらには入場無料という太っ腹な施設のため、こちらも併せて見学することを強くお勧めしたい。

ただ強いて難点を挙げるならば、しんみりしてしまうのでデートにはちょっと不向きだということだ。

*1:都立横網町公園看板より

*2:画像2枚目、コンペ案広告より

製図室にて

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午前3時、愛用のMacの画面が時間を告げる。

無機質な白一色で整えられた製図室には、私と、同級生の加藤しかいない。

といっても彼は寝袋にくるまっていびきをかいている。



エスキス提出の前夜なのに、煮詰まっているのは私だけ。

他の仲間は早々に切り上げて散っていった。



孤独に耐え切れずTwitterのTLを眺めてみても、さすがにこの時間じゃTLの動きは鈍い。

何かの拍子にフォローしてしまった、いつ仕事をしているか全くわからないキ○ガイみたいな人のつぶやきでTLが延々と埋まっていく。

instagramで友人がアップする写真も、今の私には眩しすぎる。



はぁ、っと深いため息をつく。

このタイミングで、前回のエスキスで非常勤講師に言われた一言がフラッシュバックする。






「なんか方向性が根本的にズレてない?」






はあぁぁぁ。どうせいっちゅーねん!




建築学科って模型とか作ってもっと楽しいイメージがあったけど、今はひたすらもがいている。

着地点が見当たらないもどかしさ。

評価されることへの恐怖。

若さをひたすら消費していくんじゃないかっていう焦燥感。

気づけば10代ももうすぐ終わりを迎える。



思えば高校の同級生たちのようにオシャレなカフェでバイトしたり、ディズニー行ったり、友達とオールしたり、サークルに勤しんだり、そういうものを全部諦めてきた。

そして時間とお金を、スチボーやスプレーのりやバルサたちに捧げてきた。

彼氏もできた時もあったけど、彼も建築学生だったからデートはいつも建築めぐりだった。

別に良いんだけど、それデートって言って良いのか?っていう。

限りなくグレースケール。

RGBとは言わないが、せめてCMYKにしたい。



そうやっていつものようにグルグル思考が空回りしだして、気づけば3時半。

30分、何も進んでいない。眠さだけが増している。



やばい、何かしなきゃ。



とりあえず、敷地模型に昼間に買ったスタバのカップを置いてみる。

周辺の街並みに全く調和しないスタバのトールラテ。

こんなの建てたら顰蹙もんだろうよ。



自分の行為に一通りツッコミを入れつつ、でも安藤さんも「都市ゲリラ」とか言ってたしな〜、ひょっとしてこれも見ようによっては建築なんじゃん?プライザーの人置いたら、割とアリなんじゃないの?と思ってチマチマ並べてみる。




・・・思いのほか建築っぽくなってしまった。

先生も「斬新でいいじゃん」って褒めてくれるかもしれない。





んな訳あるかボケ。

一瞬頭をよぎった希望は、次の瞬間には霧散した。

ちゃんと考えよう、ちゃんと・・・

スケッチしていた紙をくしゃくしゃに丸めて、また計画はタブラ・ラサに戻ってしまった。

ほどなくして、私は気を失うように眠りに落ちた。



・・・


気づいたら友達が製図室に集まってきた。

あ・・・エスキス一限じゃん・・・



やばいやばいやばい



今年最高に焦る私の目は講師の姿を捉えた。

ちくしょう、今日もへんちくりんな帽子被りやがって。



へんちくりんな帽子を被った講師はみんなの製図台の周りを回りはじめ、ついに私のところにもきた。





「お、田村さんこれスタディ模型?いいじゃない」





驚いて目を上げると、講師がさっきくしゃくしゃに丸めたいくつかの紙を真剣に見ていた。

「うん、ヒラタアキヒサのヒダノゲンリを発展させたようなスタディだ。とても可能性がある」

と講師は訳のわからないことを言った。



そして丸めた紙を引っ張ったり潰したりして、敷地模型の上に置き、

「この方向で進めてみたら?」

と言い残し、他の学生の方に行ってしまった。




エスキスは切り抜けたが、残念ながら私にはいよいよ建築がわからなくなってしまった。



※この物語はフィクションです。

ウロボロスの書

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「万物は流転し、同じ軌道を繰り返し廻っているのであり、観者にとってはそれを百年見ていようと二百年見ていようと永遠に見ていようと同じことであることを銘記せよ」
マルクス・アウレリウス『自省録』第二章第十四節


ガルシア・ホセ・ムヒカがタクナの街外れのかび臭い古書店で購入した海外の古い手稿を集めた本には、この世の全てが記述されているとされる奇妙な書物について書かれていた。以下にその内容を簡単に記述する。


イスラムのとあるモスクの円形の床下から見つかったその書物は、おおよそ普通の本とかけ離れた形をしていた。上から見ると細い円環(リング)状で、表紙や裏表紙は存在せず、また円環の外周を覆う背表紙に当たる部分は皮が張られていたが、何も書かれていなかった。

更にこの本を開くことは誰一人として出来なかった。内向きの円環になっているため紙同士が密着し、無理に開こうとすればたちどころに留め具が外れ、内容がバラバラになってしまう恐れがあったからだ。百万とも数千万とも伝えられるページ(詳細はわかっていない)が散逸してしまうととても手に負えないと、人々は恐れをなして触れることを拒んだ。

いつ、誰が、何のために書いたのか、何が書かれているのか、何より、なぜ開かないような本の綴じ方にしてしまったのか、諸説が唱えられたが真実は誰にもわからなかった。

ある歴史学者が「本の中にウロボロスがいる」と言った。もちろんそんなはずは無いと笑う者もいたが、見ることができなければその不在を証明することはできない。円環状の見た目も相まって、その書物はいつしか「ウロボロスの書」と呼ばれるようになった。

時の王はウロボロスの書の噂が表沙汰になることを恐れ、モスクもろとも接収して管理下に置き、歴史上からその存在を抹消した。なぜ王がそのようなことをしたのかわかっていないが、世界の全てが記述された書物が王権を脅かすことを恐れたのだろうと分析し、手稿の著者は結んでいる。


現在ではそのモスクがどこにあったか知る由もないが、私はウロボロスの書とはすなわち「世界」そのものであり、その著者は神そのものだったのではないかと考えている。グノーシス派の教義によればウロボロスは物質世界の限界を示す象徴であるが、ヘレニズム文化圏では世界創造は全であり、一であるといった循環性・永続性の象徴である。世界は閉じた円環であり、時間や空間までも円環の摂理から逃れることはできないとされている。

真実が、この手稿の通りだとしたら、今この瞬間もウロボロスの書は世界のどこかに存在し、決して人の手によって読まれることのないページは永遠に増殖し続けているだろう。

看板建築を描くことについて

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《蜷川家具店(1930)》

2018年に入ってから、時間を見つけては看板建築の写真を撮り、立面図を起こす作業に没頭している。一体何を始めたのかと疑問に思っている方もいるかもしれないが、決して伊達や酔狂で描いている訳ではない。・・・と言いつつも、狂人は往々にして自分が正常だと信じて疑わないものであり、既に当人は酔狂の渦中にあるかもしれない。ここで少し頭を冷やしつつ今まで考えてきたことを振り返ってみたい。


***



「蜷川家具店」千葉県香取市佐原


「看板建築」という言葉をご存じだろうか。

1923年に発生した関東大震災の復興時、和風の長屋にファサードだけ西洋風のものを取り付け、手っ取り早く洋風建築に“擬態”するものが流行した。これを東京大学名誉教授で建築史家・建築家の藤森照信氏が学生時代「看板建築」と名付け建築学会で発表して以来、この呼称が定着している。

木造の在来工法でつくられた町家は耐火性に乏しく、震災時の出火で江戸から続く町家群はことごとく炭になってしまった。この反省から都市防火が唱えられ、大きな通りに面する建築物には耐火材でファサードを覆うことが義務付けられた。もちろん鉄筋コンクリート造なら火に強いが、庶民にはまだまだ手の届く技術ではなかったため、木造の在来工法で建てた躯体にモルタルや銅板等でできた西洋風のファサードを貼りつけた折衷方式が用いられた。こうして表は洋風、裏は純和風という二つの顔を持った看板建築が誕生した。1930年頃のことである。

街路に面していかに目立たせるかといった広告的テーマがファサードを構成するだけに、より複雑に、また斬新にと、職人が競って技巧を凝らし、数多くの秀逸な意匠を生み出した。この手の込んだファサードは決して有名建築家による設計ではなく、その多くが地元、あるいは地方の無名の大工や画家、家主が見よう見まねでデザインを練り上げたアノニマスなものだという。

2016年の秋に初めて訪れた川越で、僕は江戸時代から続く蔵造りの街並みよりも、この洋風のファサードを纏った看板建築にすっかり魅了されてしまった。もともと人目を引くためにハイカラで斬新さを追い求めたファサードも、90年経った今では街並みに欠くことが出来ないレトロな建物として地元の人々や観光客に親しまれ、中には文化財に登録されているものもある。東京の小金井公園内にある「江戸東京たてもの園」には看板建築が6軒移築され、休日には老若男女問わず幅広い客層で賑わっている。

ただそういった価値を認められている例はごく少数で、家主の死亡とともに相続が放棄されたり、再開発に取り込まれるなどして、人知れず解体されているケースが全国各地で起きている。また一部の好事家がインターネット上で公開している数枚の写真しか当時を知る手掛かりは残ってないようなものも多々あり、藤森氏の『看板建築』*1で取り上げられていた物件も既に半数近くが姿を消してしまった。2018年1月に名作と謳われる「田中家」が解体されたことも、愛好家の間で話題になったばかりだ。

このように断片的で、藤森氏の著書以上さしたるまとまった情報が無いまま急速に喪われていく看板建築を前にして、一時は無力感や虚脱感に苛まれたが、やがて何らかの方法で残したり、現存するものに目を向けさせることはできないかと考えるようになった。

「看板建築の立面図を描く」というアイディアはこうした背景から生まれた。


《すがや化粧品店(1930頃)》

建築は先ず設計図を描き、設計図を基に施工される。実際の建物から立面図を描くというのは、この建築プロセスを遡行する行為だ。これは一度フラットな情報に還元することで、見慣れた建物を不純物や感傷を排し「初心に還す」ことを目的としている。

表現の手段としてスケッチを描いたり写真を撮るといった方法もあるが、描き手の手癖が明瞭に現れてしまうスケッチは普遍的な記録資料としてやや不適であり、また写真というメディアはより現物に即した情報を提供する反面、電線や外壁の汚れ、建物前の植木鉢などが写り込み、視点がぼやけたり意図せざる感傷を引き起こしてしまう恐れがあった。“古き良き時代”や“郷愁”といった懐古趣味はともすると“古いものは良い”という思考停止に陥り易く、そうなってしまっては本来の趣旨から外れてしまう。ここではより純粋に建築意匠を鑑賞・評価の対象とするため、ファサード構成とマテリアルの質感のみを抽出した「立面図」が対象建築物を表現する手段として最適だと考えた。流行に左右されず、対象を客体化させるために、この工学に立脚した表現手法は100年経とうと200年経とうと普遍的な強度を保っている。


《三村貴金属店(1928)》

また画法は敢えて19世紀頃の西洋建築の立面図を参考にした。これは「取るに足らない大衆の建物」だと長らく認識されていた看板建築を、半ば強引に建築意匠論の俎上に上げるためのレトリックである、という建前はあるものの、実のところ僕自身のフェティシズムに因るところが大きい。許してほしい。

このファサードを描き起こす作業を通じて、「レトロ」という懐古的・退廃的な文脈で一括りに語られることの多かった看板建築とそのファサードについて、現代のフラットな視点からの再定義・再評価を試みたい。かつての商業建築が自然と有していたヒューマンスケールに即した店舗デザイン、「様式」の再現・解釈・省略・派生の手法、多様性を内包した奔放な構成や細部に目を向ければ、きっと現代を生きる僕らにとっても新鮮な驚きや発見があるはずだ。

2017年7月に石岡で初めて開催された「全国看板建築サミット」、そして今年の3月から江戸東京たてもの園で始まった「看板建築」展(2018)は、看板建築が今まさに省みられるべき建築様式だということを示唆している。スクラップアンドビルドによってありきたりな再開発ビルやマンションや駐車場になり果てる前に、二度と取り返しのつかない状態になる前に、風前の灯は省みられなければならない。


神田須賀町の街並み
左:1980年代*2 右:2017年
中央の「海老原商店」を残して全て取り壊されてしまった


誤解が無いように付け加えるが、僕は「看板建築はあまねく保存されるべきだ」とは決して思っていない。現代の商業空間のニーズからは程遠くそのまま運用し続けることは困難であり、空間の有効活用の面からも用を為さなければ有用なものに更新されていくのは必然だと思っている。だからこそ記録作業は重要性を帯び、保存活用に関する是非はより多くの人が関心を向けるべきトピックに思う。特に住宅は個人の所有物なのでデリケートな問題ではあるが、地方・地域の歴史的な文脈や、ある程度定まった価値を有する建築物が当事者同士の都合により破壊されていることが、都市全体の歴史的価値を下げ続けている現状を直視しなければならない。今のところ、保存の是非がほとんど問われることがないまま多くの看板建築が最期を迎えている。

また、ひとたび直下型の地震が起こればこれまで戦災にも耐え抜いた看板建築に決定的なダメージを与え、都心から瞬時に消滅させてしまう可能性も否定できない。建築史家の村松貞次郎は都内の建築物を調査した結果「東京には江戸時代の建築物が一切無い」と結論づけた*3が、特に東京は歴史を積み上げられない都市という性格から、三菱一号館美術館などの特殊な例を除き、手間暇をかけて古い建物を再現するということをほとんどしない。ゆえに看板建築の消滅は時間の問題でもある。

たとえこの作業が現代において芳しい評価がなされなかったとしても、50年後、100年後に都市論の俎上で不意に我々の子孫の目に留まるかもしれない。それくらいのスパンに耐えうるものを描いているのだという不遜な自負によって、この作業は粛々と続けられている。

これは波乱に満ちた大正末期〜昭和初期の日本において瑞々しい感性の花開いた大衆芸術の一部を「立面図」という形式に還元する試みであり、現在急激に失われつつある建築の類型をひとつの切り口から記録する都市建築の考現学である。


作品はInstagramにて公開中
https://www.instagram.com/biblio_babel/?hl=ja

*1:藤森照信(1988)『看板建築』(都市のジャーナリズム)三省堂.

*2:同.pp12-13.

*3:村松貞次郎(2005)『日本近代建築の歴史』(岩波現代文庫)岩波書店. pp275-276.

藤森照信氏講演会「辰野金吾と東京駅」レポート

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図1.東京駅(1914)

2019年1月26日(土)10:30~12:00、東京駅構内の東京ステーションギャラリー2階にて連続講座「東京駅で建築講座」の第2回、藤森照信氏の講演会が催された。題して「辰野金吾と東京駅」。元東大藤森研OBの柳井良文氏の紹介によりこの回を受講する機会を得たので、ここにその講演会の記録をまとめることにする。(以降敬称略)

 

仏文学者辰野隆が語る父親、金吾は「足軽に毛が生えたようなもの」だそうだ。長野県辰野村の庄屋からの姓で、「帯刀膳焚」という下級武士の出身であった辰野金吾は、電車に乗っていると、縁のある地名を見るにつけ息子にエピソードを言って聞かせるような人物だった。

唐津藩の英語学校で、高橋是清(後の日銀総裁、大蔵大臣、総理大臣)が東太郎を名乗り辰野に英語教育を施す。後に高橋を追って辰野が上京し、当時新設された工部大学校に入学する。
辰野家の「人が一やることをニやり、ニやることを四やりなさい」という家訓を守り、大学校時代は人一倍勉学に勤しむが故に、地味な学生時代を過ごしていた。同級生には発明家である高峰譲吉らがいた。四名の造家学科の卒業生、曾禰達蔵、片山東熊、佐立七次郎、辰野金吾のうち、成績は曾禰、辰野、片山の順だったがJ.コンドルは教授の後釜に辰野を起用。最も才能に秀でた曾禰が選ばれなかった理由は、丸の内の小姓の出という根っからの武家気質で少なからず国家に反感があったとの事で、結局6年間の工部大学校に在席後に、7年間役所勤めをした後、海軍、三菱と職を移す。他にもそれぞれ片山は劣等生であり宮内庁入庁が決まっていたため、佐立は若すぎるという理由により見送られた。ロンドン大学やバージェスの事務所で学んだ後、消去法的に決まった辰野金吾が工部大学校で教鞭を執ることとなる。
 
かの渋沢栄一が辰野のパトロンとなり兜町の建物を依頼する。処女作となった「銀行集会所」(図2)はパラーディオ式、川に面した渋沢栄一邸(図3)はベネチア以外において世界でも純度の高いベネチアンゴシックで造られた。

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図2.銀行集会所(1884)

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図3.渋沢栄一邸(1888)
渋沢は東京を商都とする野望を掲げ、横浜港の機能を兜町に移し、堀の水路を利用した交易の中心地とする計画とした。ベネチアは当時商都のモデルであり、ベネチアの様式(ベネチアンゴシック、パラーディオ等)が参照される。
ところが横浜港の移転について、横浜在住の外国人等の反対により頓挫。三菱の牙城である丸の内で仕事は絶え、やっとの思いで譲り受けた丸の内の北東の外れ、日本橋本石に計画された日銀本店の設計を任される。
 

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図4.日本銀行本店(1896)
日本銀行本店(図4)の設計に際し辰野はジョン・ソーンの「イングランド銀行」や「ベルギー国立銀行(ネオバロック様式)」を参考に、ネオクラシズム、ジョージアン様式を取り入れるも、藤森曰く“柱のプロポーションが中途半端、せっかく設えたドームやパラーディオ風の列柱空間も歩行者から見えず、盛り上がりに欠ける”。設計の巧拙はさておき、地味なのは日本はまだ謳い上げる段階ではない、という意志の現れと受け取られる。
また防禦性への配慮からか、①入口が奥まっている②門扉で外界から閉ざす③周囲に堀を設ける(緊急時に地下の水没が可能)④正面に設えた銃眼(?)のような開口部、といった慎重かつ保守的なつくりから、同僚からは「やはり辰野 “堅固” だ」と揶揄される羽目にあう。
 

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図5.日本生命九州支店(福岡市文学館, 1909)
辰野は50歳で工部大学校の部長を辞し民間事務所を開き、日銀の地味な作風から一転、赤白ボーダーの華やかなヴィクトリアン様式(クイーン・アン様式)を取り入れる(図5)。産業革命以降の発展した都市景観から生まれたこの様式について辰野はその意味を熟知し、“日本はもう謳い上げても良い”と判断したと考えられる。英ノーマン・ショウがこの様式の先達だが、例えば角の塔は目立たぬよう計画されており(図6)、むしろ壁面の連続性に重点を置いている。対する辰野は角の塔をデザインの主眼に据え、象徴的に飾り立てる(図7)。また屋根上の飾りもノーマン・ショウは控えめなのに対し、辰野はゴテゴテと盛る。これがその地域の記念碑たる建築を作った辰野と、街並みの整理に意識を向けたノーマン・ショウの決定的な違いという。

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図6.Richard Norman Shaw "Allianz Assurance Building"(1883)

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図7.岩手銀行本店本館(岩手銀行赤レンガ館, 1911)

ドイツ人鉄道技師フランツ・バルツァーが描いた東京駅初期案は瓦屋根を冠した和洋折衷のもので、複数棟からなる計画だったが、後に辰野がクイーン・アン様式で提案し、一体感や皇居への配慮を盛り込んで幾度と無く修正を加え正式に決定される。決定当時の喜びようは所員の記憶にも鮮明にあり、「これで諸君らに給料が払える」と言い万歳したという。
余談になるが辰野は万歳が好きで、死に際にも妻への謝意を述べた後に万歳をして息を引き取った程だという。

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図8.東京駅(1914)
東京駅は全体をクイーン・アン様式で時代精神を高らかに謳いあげる一方で、部分ごとに作ったまとまりに欠ける建築と藤森は評する。やはり屋根の上にはこれでもかとドーマー窓や塔を載せた賑やかな造りとしている。所員の誰にも設計を触らせなかったという皇族用出入口を設計し、「どうだ、良いだろう?」と誇らしげに所員に見せたが、全員が良いと思わず苦笑が漏れた、とのエピソードすら語られている。
結局最期まで設計が巧いという評価をなされることが無かった辰野だが、学生時代めっぽう強かった相撲よろしく、皇居に向かい大きく広げた東京駅はまさに皇居に向けた横綱の土俵入り、辰野金吾の集大成を作り上げた、と評して講演会は締めくくられた。
 
以上が本講演会の概要となる。
 
講演会の内容は概ね同著『建築探偵の冒険 東京篇』(1989, ちくま文庫)の内、「全町三三五メートルの秘境―東京駅」、「東京を私造したかった人の伝―兜町と田園調布」の各章の内容を下敷きにしていたが、辰野金吾という人を軸に史実や関係者への聞き取り調査によって人物像に肉薄する講演は非常に刺戟的だった。日本初の建築家、かつ建築界の権威という堅い肩書きとは裏腹に、下級武士の子息という出自、勤勉な努力家で地味だった学生時代、時に揶揄もされる決して巧くない作風、東京駅の設計を受注した際の歓喜の様子から、辰野のどこか憎めない人柄が滲み出ている。それは無欠のエリートだった曾禰や、芸術の才に秀でた片山にはない欠点を、士族の矜持と他人の倍の努力で補完し、日本を代表する建築家に登りつめた辰野自身の魅力に拠るところに思われる。「才能が無ければ努力で補え」というシンプルなロジックを愚直に実践した人間の強度を我々は目の当たりにし、その追体験を通して東京駅に昇華されるカタルシスを覚えることができる。こうした背景を知らない一般市民からも辰野建築が今なお愛されるのは、日本の建築を背負って立った一人の人間の生き様や矜持が、彫りの深い建築に滲み出ているからではないだろうか。
 
辰野金吾という人となりと、語り部たる藤森照信氏のユーモアを交えた真摯な研究成果の競演であるこの講演会は大変貴重なものだった。藤森氏が質疑応答する暇も無く足早に立ち去った後も、熱量を帯びた空気がしばらくステーションギャラリーの剥き出しのレンガ壁を温めていた。
 
おわり
 
 

図版出典

図1:筆者撮影、図2:藤森照信『日本の建築[明治大正昭和]3国家のデザイン』三省堂. 1979、図3:『明治大正建築写真聚覧』国立国会図書館デジタルコレクション、図4:「日本銀行本店」Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/日本銀行本店〉、図5:「旧日本生命保険株式会社九州支店(福岡市赤煉瓦文化館)」福岡市の文化財http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/cultural_properties/detail/51、図6:Googleストリートビュー、図7:「岩手銀行赤レンガ館」Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/岩手銀行赤レンガ館〉、図8:「東京駅」無料写真素材東京デート〈https://www.tokyo-date.net/etc_tokyo_st2/

『看板建築 昭和の商店と暮らし』発売のお知らせ

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2019年5月29日、『看板建築 昭和の商店と暮らし』という本が出版される。看板建築のみに焦点を当てた出版物としては藤森照信氏の『新版 看板建築』(三省堂,1999)以来、実に20年越しのもので、間違いなく看板建築をめぐる言説の貴重な資料のひとつとなる。

この看板建築愛好家たちが待ち焦がれた著書に、僕の描いた立面図と写真の解説文、冒頭の解説、コラムといったテキストが掲載されている。看板建築の立面図を描き始めて1年半、全国の書店に並ぶ書籍への掲載によって、ようやく2018年の年始に自分の中で決めた「3年以内に本を出す」という目標を、曲がりなりにも叶えることができた。まずは機会を与えてくださった出版社さん、そして本づくりに対するあらゆる知識や業界の構造、契約、ゲラチェックに至るまで面倒をみてくれた元編集社勤務の妻にお礼を申し上げたい。

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この本の企画について声がかかったとき、本づくりは中盤に差し掛かっており、大枠の構成や掲載物件などはあらかた決まっていた。声をかけてくださった編集者さんはInstagramハッシュタグを追って情報収集をしていたところ、立面図が目に留まったという。そのため、当初は立面図の掲載について打診をしてきたのだが、話を聞いてみると文章を書くライターも探していた。なにしろ対象がニッチなだけに類書や資料が少なく、普段仕事を依頼しているライターさんにも「予備知識が必要で難しい」と匙を投げられ、途方に暮れていたところだった。立面図を描きながら全国に散らばる看板建築をGoogleストリートビューでキャプチャーし、建築についての解説を加えていくツイートスタイルを築きつつあった僕にとってこれは海原に小船を浮かべていたら甲板にマグロが飛び込んできたような千載一遇のチャンス、二つ返事で文章も請けることにした。

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掲載された立面図

ところがその期限というものが実に差し迫った状況で、わずか1か月の間で初稿を全てアップさせなければならならず、日中の業務時間、家事や食事、妻との時間、立面図イラストを描く時間などを差し引いた隙間時間を投じてライティングを練り上げる他なかった。そこで、写真についての短い解説文などは移動時間にTwitterの非公開アカウントにツイートをする感覚で書き溜めていき、コラム等で事例を提案するものについては休日にサイクリングやランニングを兼ねて足しげく都内を徘徊し、写真を撮り溜めては物件ごとフォルダに整理していった。こうした地道な作業を積み重ね、依頼分の仕事を遅延無く円滑に上げることができたのも、資格の勉強に一区切りがついたのに加え、普段のTwitterによる短文とブログによる長文、本職において身についたデータ整理と活用のスキーム、それぞれの準備運動がうまく噛みあい奏功しているように思う。いつもやっていることの少しだけ延長上に書籍の仕事があったという感じだ。こうした仕事は稀である。

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担当した建物解説のページ

一方で肝心の看板建築自体はメディアでも取り上げられたり展覧会が企画されたりと社会的な知名度も増してはいるが、消失のスピードは依然衰えていない。藤森氏は1999年の『新版 看板建築』のあとがきで、初版の『看板建築』から6年経って多くの看板建築が取り壊されていったと当時の状況を述懐しているが、それから20年も経った。体感的には更に半減はしている勢いで、都心は再開発によって街区ごと刷新し、地方は後継者の不在から駐車場や小綺麗なチェーン店やプレハブ住宅に変わっている。1年前に写されたストリートビューで存在を確認し、いざ行ってみると工事の白い仮囲いが廻されている、といった状況にもしょっちゅう出くわした。失われつつあるものを追う者の宿命で、時には身体の力が抜け、呆然と立ちすくむこともあるが、その反面、新たな発見の喜びは人一倍大きい。そんな悲喜こもごもの渦中に身を投じるのはその道の者にしかわからない密の味で、一度入門したら中々やめられない、誰が言い出したか“沼”という言葉がしっくりくる。

沼に嵌らずとも楽しめる本書は、僕の書いた少々肩肘張ったコラムや解説を挟みながらも、看板建築とそこに住まう人々に光を当て、温かい眼差しを注いだ本だ。ぜひ手にとって、今まであまり知られてこなかった看板建築の世界をちょっとだけ覗いてみてほしい。 

看板建築 昭和の商店と暮らし (「味な」たてもの探訪)

看板建築 昭和の商店と暮らし (「味な」たてもの探訪)

 

『看板建築図鑑』発売のお知らせ

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2019年12月24日、前著『看板建築 昭和の商店と暮らし』の出版から7ヶ月後、満を持して『看板建築図鑑』を出版する運びとなった。初の単著である本書は、2018年の春に「大福書林」という出版社から届いた「このブログ記事にある立面図集をつくりませんか?」というお誘いからスタートした。実は2018年の年始に「3年以内に書籍を出版する」という目標を掲げ、イラスト制作とブログ、SNSを活用し積極的に「仕込み」をしていたという経緯があり、こうしたお誘いがあるのはある程度狙い通りのものであったものの、本ブログ掲載の直後に反応があったのは少々面食らってしまった。

 

さて話を伺ってみると、大福書林は瀧さんという小柄な女性が個人で興した出版社であり、ここで出した『いいビルの世界』、『喫茶とインテリア WEST』といったレトロ建築の本は、出版社名こそ意識しなかったもののかねてから気になっていたものだった。そして何度かお会いして対話を重ねるうちに、流行に左右されることなく丁寧に本づくりをおこなう姿勢が徐々にみえてきた。大手出版社ならば手続きに時間がかかったり、上司や営業といった担当者以外の意向にも左右されたりするという噂も耳にするが、会社の運営から営業、編集までひとりでおこなう個人出版社では、二人の合意さえ取れたら物事が進む。大手書店でも平積みや面陳列が目立つ営業力も然ることながら、こちらの要望も最大限取り入れてくれそうな物腰の柔らかさ、何より美しいもの、さりげないものに対する瀧さん自身の感性の鋭さに惹かれ、この出版社であれば作品の魅力を余すことなく引き出してくれるだろうと確信し、瀧さんのお誘いを受けることにした。

 

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本書は看板建築のイラストを中心とした作品集である。それと同時に、看板建築にまつわるさまざまな知識を紹介する、専門書とはいかないまでもかなり専門書寄りの書籍でもある。僕は建築史家ではないが建築士ではあり、世間的には同列のプロとしてみられる(きっと建築家、建築士、建築史家の違いを説明できる専門外の方は少数だろう)。さらに後世に残る資料にしたいという気宇壮大な企てから、知識面でもやや踏み込んだ内容になっている。

たとえば「看板建築・リヴァイヴァル」という言葉が出てくるが、これは僕のつくった造語で、平成以降に昭和初期の看板建築のファサードを模してつくられた比較的歴史の浅い建物を指している。ノスタルジーや景観との調和、といった文脈から生み出されていることを指摘したうえで、ゴシック・リヴァイヴァルやバロック・リヴァイヴァルのように、時空を超えて当時の様式(形式)が再評価されつつあることを示している。これは看板建築探しから発見したもので、看板建築をめぐる新たな展開として紹介した。

 

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読み物ページの例

文章において、書籍化となればエビデンスが必要になる。建物の情報については、店の主人に話を伺い、区の図書館や都立図書館に赴いては複写し、郷土資料館や役所への聞き込みなどの地道な作業を経てひとつずつ裏取りをした。特に苦戦したのは建物の竣工年で、資料によってまちまちだったりする。とある市の国登録有形文化財の竣工年表記が店のHPと相違することを市の担当者に問い合わせたところ、近年になって棟札がみつかり、市が発行する資料やそれを基に書かれた媒体が誤りであったことが判明した、ということもあった。自治体等が発行した先行研究資料においても、必ずしも事実が書かれているのではないという教訓は、〈歴史は生き物である〉というエピグラムを想起させる。歴史研究者であれば日々直面する文献間の齟齬という課題に興味本位で立ち入り、深淵を覗きこんで深淵に睨み返されたこともしばしばあった。とまれ、イラストを中心とした作品集ではありつつも、イラストと同じくらい資料参照とテキストに労力を割いている。

 

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肝心のイラストは資格試験の終了後から本格始動させた。線画、色塗りの時間をストップウォッチで計測して作業時間を想定し、それを元に工程表を組み立て、進捗管理をおこなうという方法で、自身の作業時間を意識しつつ妻との情報共有を図る。以前は気ままに暇をみつけては描いていたのだが、書籍化となると悠長なことも言ってられなくなる。まるでアスリートのように日常の娯楽や無駄を削ぎ落とし、時間を管理し、アウトプットを進めていかなければ追いつかなかった。不要な外出も少なくなり、それとともに食事量も調整したので、体重も5キロほど減った。2019年はそうした年で、もはや趣味とは言えない状態になってしまったが、著書2冊と講座開講によって、自分の興味関心事を趣味からレベルアップさせることができたのは、マイペースな僕の性格からすれば十分な成果といっていいだろう。

 

タイトルの『看板建築図鑑』については、当初『看板建築図集』として始めていた一連のイラスト群の最後の文字を取り替えたものだ。「図集」というと、本書のイラストの参考にした『ボザール建築図集』をはじめ、Amazonでは『○○詳細図集』といった建築系や「図案(デザイン)集」といった意味をもつ書籍がヒットする。どちらかというとアカデミックな意味合いで用いられることが多く、一般的になじみがあるかといわれれば、必ずしもそうとは言えないし、そもそも「図集」という言葉自体、広辞苑には載っていない。一方、「図鑑」であれば小学生でもわかり、内容も「図集」よりイメージがしやすい。文字組み時の座りも申し分なく、より多くの人に手に取って眺めてもらいたいという意図から、最終的にこのタイトルにおさまった。

 

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「図解 海老原商店」は本書のために描きおろした

ここで本書の意義について触れておきたい。

看板建築に特化して写真以外の方法で記録した媒体はいままで無かった。あくまで都市景観の一部の特異点として、好事家の観察対象に留まっていた看板建築を、横並びに大真面目に描いて記録したものは、この本が最初になるだろう。「影をつけた立面図」という切り口が果たして適切だったのかどうか未だに議論の余地はあるが、その是非を問う間もなく看板建築は都市空間から姿を消しつつある。そうした一刻を争う状況においては、巧拙ひっくるめて撮影・記録し、どのような方法であれアウトプットしなければならないという危機意識がこの作業を突き動かした。

看板建築のもつデザインの豊かさ、斬新さ、ちぐはぐさは、映し鏡のように、近代化にひた走る当時の日本の状況を象徴している。冷めた言い方をすれば西洋建築の劣化コピーなのだが、ひとつひとつが異なる表情をもち、全てがオリジナルな建築であるという状況は、現代の日本ではもはや叶えられない夢になってしまった。

現在のマスを占める住宅はハウスメーカーによって、サイディングや化粧スレートといった工業製品による均質で劣化の少ない安定した建材を用いて、デザインもカタログからセレクトするように、極めてシステマチックに進められている。そうした企業努力によって、ローコストで一定の質を保った住宅が大量に供給されてきた。

対照的に看板建築は、地元大工との一対一の対話から生まれた唯一無二の存在がほとんどで、その本来の面白さをファサードに表出し、都市空間に雄弁に語りかける。こうした存在が都市空間において貴重なものだという意識が一般に浸透すれば、戦前の建築の保存活用についてより建設的な議論が生まれることだろう。単にノスタルジーとして消費されるものではなく、歴史的な文脈を背負い、かつ一定数現存する看板建築だからこそ、都市空間に目を向ける契機になりうる、と僕は考えている。自治体においては、これを都市の資源と考えるか否かが、歴史や文化に対するスタンスの分岐点になりうる。

『看板建築図鑑』は美しいビジュアル(自分で言うと照れくさいが)によって、看板建築を「再発見」させることがねらいだ。そして看板建築を保存・活用の議論の俎上に上げるための、カンフル剤としての役割も担っている。そのため、いわゆる廃墟趣味やノスタルジーから距離をおいて、純粋な造型の豊かさ、妙味に触れられる媒体としての機能を持たせている。表現も、研究とは違い、今現在都市に生きる人々に目を向けられなければ、この作業の意味が薄れてしまうと考え、視覚的に訴えることを徹底した。その姿勢はイラストのみならず、書籍の装丁にも表れている。

 

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版型はやや縦長で、あまり見たことがないプロポーションである。これは、イラストの建物に縦長のものが多いというのと、洋書のような雰囲気を出すためにあつらえた独自のものだ。

表紙の「蜷川家具店」は佐原の伝統的な街並みのなかにある看板建築で、作品としての美しさ、密度は申し分なく、また版型にもフィットしたので表紙を飾るのに最適だった。

製本は並製(ソフトカバー)ではなく上製(ハードカバー)で、保存に適したつくりだが、ソフトカバーの手になじむ感じも捨てがたかったので、台紙の厚さを試行錯誤し、上製でありつつも軽く、手になじむ仕様になっている。この台紙へのこだわりは瀧さんの提案によるもので、並製と上製のジレンマを克服するべく奮闘していただいた。またカバーを外した表紙には竹尾のビオトープという風合いのある紙を採用し、アンティーク調に整えた。

 

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こうした数々の工夫によって、作品の雰囲気を最大限に引き出した装丁に仕上がった。全く頭が下がる思いだ。

もし本書を書店で見つけたら、是非手にとってみていただきたい。めくるめく看板建築の世界へと、貴方を誘う準備はできている。


ご購入はこちらから。

 

最後に、本書に関わっていただいた全ての方に、御礼を申し上げたい。ありがとうございました。


『東京のかわいい看板建築さんぽ』発売のお知らせ

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© tegamisha

先般、看板建築の3冊目、自身の名前では2冊目となる著書を上梓した。
本書は東京都内に現存し、かつ現在も営業中の店舗に焦点を絞ったさんぽ本で、都内の下町めぐりに最適な構成となっている。

タイトルからも察しがつくように、メインターゲットを女性に据えているものの、建物鑑賞の着眼点においては私のTwitterフォロワーからしたらお馴染みのもので、今まで書籍や雑誌などに紹介されてこなかった建物も多数掲載しており、資料的にも価値あるものに仕上がっている。男性諸兄も表紙やタイトルに惑わされることなく手に取っていただきたい。
また前著と異なる点として、専門的な用語を極力使わずにわかりやすい言葉遣いを心がけ、初心者にもとっつきやすい体裁を整えた。見本誌を送った実家の両親曰く「こっちの方がわかりやすい」そうだ。

掲載した物件数は計45件。構成は私の方から提案したのだが、やはりエリア毎にした。ほとんどが同時期に固まっているため年代順にしてもあまり意味がないし、表層のマテリアル別にしてしまうとページごとの変化に乏しくなる。その点、エリアごとであれば散策に適した構成にできる。
「神田・神保町エリア」「日本橋エリア」「築地・銀座エリア」「品川・芝・高輪エリア」「台東・墨田エリア」「その他エリア」の6つのエリアに分け、そこから各7~10件ずつほどセレクトしているのだが、実はこれがなかなか難儀な作業だった。

というのも今回はメインビジュアルが写真のため、引きが取れないと煽りのキツい写真になってしまい、そうした物件は当初から避けた。またデザインが良いからといって極度に荒廃した建物も選びずらい。ここがイラストとの決定的な違いで、いくつか掲載を断念せざるを得ないケースが生じた。
またセレクトの途中から「現在営業中で訪れることができるもの」という方針が加わり、仕舞屋を除かなければならなくなった。(それでも魅力的ないくつかの仕舞屋はコラムに掲載した。)
さらに昨年に出した『看板建築 昭和の商店と暮らし』や『看板建築図鑑』との差別化のため、物件の被りを減じる措置もとる必要があった。
ようやく掲載が決まったものの取材を断られてしまったケースが加わり、結果的に僕が当初提案したものは半分程度しか残らず、残り半分は追加提案をすることになった。
「東京の看板建築なのに、○○が掲載されていなかった」という批判もあるかもしれないが、都内のものはほぼすべて検討の俎上に上げており、それぞれ選べなかった理由があることをお許しいただきたい。

こうした多難なセレクトにも関わらず、掲載できた建物はみな表情豊かで、しかも生き生きとその土地での暮らしを謳歌しているようにみえる。商店としての役目を終えた建物にはなかなか見出せない「生命感」といえばよいだろうか、現店主のもとで手を加えながら営みが続けられているものがもつ輝きがあるのだ。写真家の岩崎美里さんによる洗練されたカットが、こうした建物の魅力を引き出している。

セレクトのあとは撮影箇所の指示を出し、撮り下ろしの写真に300~400字程度の解説文とキャプションを加えるスタイルで文章を書き連ねていく。3冊目ともなるとこうした作業は慣れたもので、いくつかの修辞法を使いつつ、時に序盤のフリを文末に回収する、といった技術を密かに組み込んだりしながら文章を組み上げていった。

表紙を飾るのは江東区佐賀の「コスガ」。王冠にも似た黄色のパラペットを戴く重厚感のあるファサードながらも、窓や入口に非対称の崩しが取り入れられ、正統派の西洋建築にはない面白さが滲み出ている。1冊目が「パリ―食堂」、2冊目が「蜷川家具店」ときて、「コスガ」と、それぞれの書籍のカラーを象徴するような物件が選ばれているのがなかなか興味深い。出版社の編集方針が違えば、成果物には自ずとカラーが出る。私も出版社も、同時期に同じテーマで出す書籍が似たような本にならないかという心配はしていたものの、結果的には杞憂であり、切り口によって全くの別物に仕上がった。本作りの妙味でもある。

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© tegamisha

しかし、自分で言うのもなんだが、よくも1年間に3冊も出したなぁと思う。特に『看板建築図鑑』と『東京のかわいい看板建築さんぽ』は同時並行で執筆を進めるという荒業だった。

そんなキャパオーバー寸前の状態であっても、それぞれ納得のいくレベルの書籍を複数出版させてもらうという経験は、平々凡々なサラリーマンにとってなかなか味わえるものではない。これもTwitterというツールなしには実現しなかったことで、逆をいえば少々ニッチな趣味でも信念もって発信し続ければ、チャンスを得ることもある。
たまたま「看板建築」というコンテンツが世間的に見直されている時期とかぶったのもあるかもしれないが、結局は新しいことを始めるには、誰かのお墨付きを得る前に、まず「やってみる」しかない。そういうことを肌で感じた2年間だった。

またチェック作業を通して、自分の筆跡がそのまま残ってしまうこの作業は、きっと何度繰り返してもスリリングなものだろうなと思った。
建築はひとたび建ててしまえば、数十年と残るが、その場に身を置かなければ本質的に知ることはない。一方で書籍は何千部と複製され、どこかの書店や図書館、あるいは個人の書棚に残ってしまう。誰にどんな影響を与えるのか、全く計り知れない。趣味本とはいえ内容のミスは許されないというプレッシャーは常に感じていた。
百戦錬磨の作家であっても、その筋に通暁した研究者であっても、きっとこの校正作業には神経を尖らせているに違いない。もっともそのクラスになれば優秀な校正者がついているのかもしれないが、自分しか知りえない情報も多々あり、妥協は自分に跳ね返ってくる。
3冊を通して、執筆よりも校正の方が神経を削がれるということも学んだ。

こうした労苦を乗り越えて、『東京のかわいい看板建築さんぽ』は東京の下町を味わい尽くすための必携書だと、胸を張って言えるものに仕上がった。初めて書籍に掲載される物件も多数あり、しかもすべて現時点で訪れることが可能。それでも、ここに掲載している建物も数年後には数を減らしている。
本書を手に、今ある東京の風景をいま一度見つめてほしい。

 

旧坂本小学校解体前見学会レポート

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先週末はTwitter近代建築界隈で話題になっていた台東区下谷にある旧坂本小学校の解体前の見学会に行ってきた。
『旧坂本小学校』は下谷区入谷尋常高等小学校新校舎として1926年竣工、鉄筋コンクリート造3階建てで、設計者は阪東義三(東京市営繕課)、施工者は長谷川精二郎と伝えられる。*1「復興小学校」とひとくくりにされることも多いが、関東大震災以降の土地区画整理事業の対象区域外だったので正確には「改築小学校」と分類されるのだそうだ。

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プランはコの字型で、中央に屋外運動場を備えている。片廊下型で教室群は全て屋外運動場に面して配置され、劇場のように中庭を囲んでいる。ちなみに復興小学校の配棟計画はコの字の他、L字、ロの字のいずれかになっていることが多い。

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左:エントランス側、右:中庭側

昇降口に入ると、正面の三連の尖頭アーチを抜けて屋外運動場に繋がる。この三蓮の尖頭アーチは、エントランスと同じ軸線上に配置され、視線を中庭へと誘導すると同時に、通風と採光を確保している。形態はドイツ・オーストリアなどの東欧圏で流行していた表現主義風で、目地のないシームレスで彫刻的なフォルムが特徴的だ。分離派建築会メンバーの同窓生である阪東義三ならではといえる。

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左:旧坂本小の階段室塔屋、右:九段小の階段室塔屋

また外観で特徴的な階段室のパラボラアーチは、復興小学校ではしばしば用いられてきた。写真右は在りし日の九段小だが、坂本小では九段小のように時計台を兼ねる訳でもなく、朴訥で不穏な表情を見せる。

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坂本小学校立面図*2

設計図の立面図では縦方向が通ったデザインであったことから、着工後に何らかの理由でデザイン変更されたとみて良さそうだ。

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階段室のヴォールト屋根と水切り部分

屋上から見るカマボコ型(ヴォールト)の屋根。曲面屋根の宿命として汚れやすいというのがあるが、出隅に水切りのための段をつけていたというのは初めて知った。このヴォールトはそのまま内部空間にも露出し、余剰空間はやや使いにくそうな物置になっていた。

 

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講堂は現存している最古級のもので、こちらは鉄骨造。トラスで組まれた壁柱が突き出し、その隙間に大開口を設けている。

 

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講堂を中庭から望む

この講堂のファサードはRC造校舎との連続性に配慮しているが、よく見ると本体とはやや趣が異なり、円柱とエンタブラチュアからなる神殿風にまとめられている。特に柱は付加的な装飾であるため、エンタシス(円柱の下部又は中間部から上部にかけて細くなっている柱)のようにも見え、神殿的な性格を強調している。

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講堂のエンタシス?の柱型

なぜ学校に神殿?と思ったが、内部壇上の重厚な扉に注目いただきたい。こちらは「奉携所」と呼ばれる、天皇、皇后の御真影を掲げた場所だったという。

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左:ステージ壇上の奉携所、右:額縁に廻された雷文装飾

大正期以降、日本の教育現場において天皇の影響力を強めるべく、奉安殿が設置された。奉安殿とは、天皇御真影教育勅語の謄本を納める施設で、旧坂本小にはこれに類する「奉安庫」に加え、御真影を掲げた「奉携所」が講堂に設けられた。講堂デザインに神聖さを象徴する神殿の形式を取り入れたとすれば一応辻褄が合うな、と勝手に想像してしまった。

奉携所の三方枠には雷文があしらわれ、扉には銘木の一枚板が贅沢に使用されているが、それだけ重要な場所という位置付けだったのだろう。

 

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一般教室

西・北・東の校舎の内、西側校舎が最も原型を留めていた。廊下側には欄間付きの木製引戸、木製窓がそのまま残り、RCラーメン構造の特長を存分に生かした開放的なプランニングとなっている。

 

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階段と手摺のアップ

階段はモルタル洗い出しの人造石仕上げ。丸みを帯びたデザインは児童の安全性に配慮しているのだろう。

 

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音楽室の後部にはタイル貼りの手洗場が設けられていた。なかなか手の込んだタイルワークだ。

室内を一巡し、外観撮影のために外に出た。

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外観を撮影していると、エントランスの片隅にひっそりと記念碑(校長名碑)が残されているのに気づいた。表現主義の薫香に満ちたなだらかな稜線で立ち上がったコンクリートの台座、月桂樹のレリーフでピンときた。これは戦前のものかもしれない。

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左:戦時中の応援旗、桜に「入谷」の文字、中:記念碑の校章は「入谷」の別バージョン、右:昭和26年から廃校になるまで使用されていた「坂本」の校章

室内の展示資料によると、桜花に「入谷」の文字が浮かぶデザインは、昭和26年に「坂本」に改称されるまで使用されていた。つまりこちらの碑(写真中)は入谷尋常高等小学校時代のものである。さらに側面には金属製の解説文があった。一部欠落した部分を除き、読み取れる部分を転記してみたい。

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 本校ハ明治三十二年七月ノ創立ニシテ年ヲ閲スルコト二十有八年
 大正十四年十一月二十日改築起工仝十五年十一月十五日竣成ス
 記念塔ハ𦾔校舎校庭ニ建設セシモノナルガ改築校舎落成ニ際シ其
 一部ヲ改造シテ新𦾔記念ヲ表スル為此ニ移セシモノナリ
   大正十五年十一月十五日
 東京■入谷■■■學校長 松田久稔 誌
 校舎設計技師■學士   阪東義三
 工事請負人       長谷川精二郎
(拙訳:本校は明治32年7月の創立で、28年後の大正14年11月20日に改築校舎が起工、大正15年11月15日に落成した。この記念塔は旧校舎の校庭にあったが、改築校舎が落成した際に一部を改造し、新旧校舎の記念のためここに移設した。)


この碑の解説文に設計者の阪東義三、施工者の長谷川精二郎の名が刻まれている。こうした校長名碑が戦時中の金属供出対象にならず、今まで残っているのはなかなか貴重であり、ぜひ残してほしい。

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都内の復興小学校・改築小学校は老朽化から解体される例もあれば、旧十思小学校(中央区)のように「十思スクエア」としてコンバージョンされ再活用される例もあり、復興小学校は誕生から100年を目前にして岐路に立たされている。それでも当時最新鋭であったRC技術で100年もつ躯体は現代建築よりも長寿命、適切な補強でまだまだ延命できる可能性は残っている。

この旧坂本小学校は団体の積極的な関与により、元在校生によるコメントが書き込まれるイベントが行われた。建物の壁という壁に書き込まれた昔を懐かしむコメントは、建物が生きて使われていた当時を生々しく謳う。これだけ沢山の人に愛されてきた建物が無くなってしまうのは、当事者でなくともやはり寂しい。

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都内には廃墟になってまだ活用の目処が立たない復興小学校が残っている。これらの有効な活用方法と適切な運用がなされることを願ってやまない。

おわり

*1:日本建築学会編『日本近代建築総覧 : 各地に遺る明治大正昭和の建物』技報堂出版, 1983

*2:台東区文化財報告書第55集 台東区の歴史ある建物シリーズ 3『台東区の復興小学校』台東区教育委員会, 2017

五十嵐太郎・菅野裕子著『様式とかたちから建築を考える』を読んで

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五十嵐太郎・菅野裕子著『様式とかたちから建築を考える』(平凡社, 2022)

横浜国立大学の菅野先生より新著をご恵贈いただいた。私のような業界の隅で細々と生きる一介のサラリーマンを気をかけていただき恐悦至極、感謝感激、早速背筋を正して拝読したのだが、これまた素晴らしく「素人に容赦ない」内容だったのでここに書き留めておきたい。

本書は先立つ五十嵐太郎、菅野裕子著『装飾をひもとく:日本橋の建築・再発見』(青幻舎, 2021)の原点となる書籍である。前著は日本橋界隈の近代建築の様式、ディテールを仔細に解説した同名展覧会の図録という位置付けだったが、本書はより広範に亘り、国内の近代建築とその引用元となる西洋建築の比較解説がメイン。菅野氏の職場が横浜ということもあり、横浜の古典主義建築の紹介は類を見ない程、具体的な解説が綴られている。

 


本書は1.観察編、2.様式論、3.歴史編、4.図解編の4つの章立てから編成されている。

1の観察編では、様式的に特色のある5つの近代建築にフォーカスし、建築意匠論としての詳説を加える。例えば、露亜銀行のイオニア式柱頭で用いられた四隅に張り出した渦巻きの形状について、元々古代ギリシア建築の出隅部分で用いられたものが、ローマ時代に出隅以外でも使用されるようになった、スカモッツィの建築書に詳解図が掲載され、バロック期にこの表現が好んで用いられた、ということを知った。このような知識は少なくとも私の所持している書籍には見当たらず、一般書で解説されることは後にも先にもまずないと考えられる。

2の様式論は、擬洋風、複製建築、ポストモダンといったキーワードから掘り下げている。一見、バラバラな建築ごとの論考が、「様式」の観点から再編集され、様式の裏に隠された意図を剥き出しにする。

3の歴史編は、膨大な引用から西洋建築における様式の変遷をめぐる。本来ならばここだけで1冊の本にまとめられそうなほど濃密な内容は、大学の西洋建築概論を受講しているようなスピード感があり、うっかりしていると振り落とされそうだ。

最後の4の図解編は、1や前著で紹介された国内の古典主義建築のオーダーにおける柱頭を16個取り上げて、詳解図で細やかに解説している。同じイオニア式、コリント式でも、設計者による違いが一目瞭然であるとともに、戦前までの建築家がこうしたオーダーの意匠に心を砕いたという事実に、改めて感じ入ってしまう。令和の現在では、オーダーを適切に扱った建築を生み出せる建築家も、社会的な要請も絶えてしまった。この図解が一般書に掲載され市販されたという意義は大きい。

 

 

一般書はその筋の素人でも置き去りにされないよう、一般的に知られる言葉を用いて、事物の概要を簡潔に述べるに留まる。広く浅くである以上、踏み込んだ解説が副えられる例は少ない。一方、専門書は読者に一定の知識を有することを前提として多くの言葉の解説が省かれ、よりきめ細かな事実を照らす。

こうした住み分け、言わば読者に対する“忖度”は本書では通用しない。研究者の目から見た驚き、発見、類推、感動が、豊富な資料と経験に裏打ちされた言葉の隅々からありありと伝わり、読み手はその専門領域をめまぐるしく駆け抜ける追体験を通して、建築の知りえなかった見方に肉薄する。頭を空っぽにして読むにはやや不向きだが、より深く古典主義建築を知りたいという知的好奇心旺盛な方にはピッタリとはまるだろう。

本書に通底する思想は、最終章におけるガブリエーレ・モロッリ氏の「人間の目は知っているものしか見ない」という言葉が象徴的に表している。私も日常の仕事の中で知りえた知識により、街の見方がガラリと変わったこともあり、この言葉には大変共感を覚えた。この街の建築の形は、いかに法規と経済性、施工性、メンテナンス性、不動産としての資産価値といった要素に拘束されてできているのか、自身がその場に身を置かなければ知ることがなかった。一方で古典主義建築は、現代の我々からみると遠い世界の出来事に見えてしまうが、つい1世紀前の建築家は真剣にその表現について考えていた。知らなければ見過ごされそうな部分に対する執拗な分析と考察により、古典主義建築への解像度は飛躍的に向上するだろう。

こうした本書の「素人に容赦ない」内容は、古典主義建築とその生み出した建築家に対し真摯に向き合う姿勢の表れでもある。それは建物に対する慈しみ、眼差し、畏敬の念、そして穏やかな讃辞を内包している。 

2人の建築史家が紡ぎだした珠玉の様式論、近代建築の見方をより深く知りたいならば必携の一冊である。私も手元に置いて、何度も読み返したいと思う。

 

購入はこちらから。

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