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Channel: 建築・アート・デザインをめぐる小さな冒険
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[旅行][建築][アート]ニューヨークの建築、アートめぐり(4日目)

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4日目はきょうこ氏とエンパイアステートビルの前で待ち合わせたが、僕らも彼女も遅刻してしまい、エンパイアステートビル展望台の列で合流することになった。「待ち合わせに間に合わない」と慌てていた妻も、相手の方が遅れるとわかり余裕が出たのか、スタバでカフェラテを購入。冷えた手を温めながら、僕らは建物へのんびり歩いていった。


Empire State Building / Shreve, Lamb & Harmon (1931)
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エンパイアステートビルに上るというのは、ベタだけど、実のところかなり楽しみにしていた。マンハッタンという島の地理を理解するのには、最も高いところから眺めるのが一番だというのと、旅行においてその「ベタな物語」を体験することはそれなりに意味があることだと思っているからだ。古典文学を読んだり名画を鑑賞するのと同様に、有名な景色とか体験は、自分と世界をつなげる手立てとなる。ローマにあるスペイン広場でアイスを食べ、真実の口に手を挟まれる真似をした人ならわかる、あの感覚だ。

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さすが観光地だけあって、早朝にも関わらずチケット売り場は45分待ちだった。前2日が洒脱な場所しか行かなかったので、この成金趣味の、ちょっとした遊園地のアトラクションの列にぞろぞろと並ぶような感覚は悪くない。
ちなみに同ビルは2015 Worldwide Attraction Awardsという優れたアトラクションに与えられる賞において「最優秀展望台」賞を受賞したそうだ。僕らが行った後に受賞が発表されているため、現在ではこのとき以上に並ぶだろう。あらかじめ前売券を買っておくことをおすすめする。

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エンパイアステートビルの建設現場で休憩する労働者たち(1930頃,Reutersより)

さてこのエンパイアステートビル、102階、443.2mもあるとんでもなく高いビルだが、1929年に着工、1931年に竣工という、実に2年間という恐ろしく短期間で建てられたビルでもある。徹底した合理化と省力化が図られ、例えば床スラブができるとそこにレールを敷いて台車で外壁材やサッシを運搬し、資材搬送の手間を省いたなど様々な工夫がなされたようだ。この辺りの説明は、ぜひ現地で音声ガイド(日本語)を借りて聞いてほしい。

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展望台は想像通り人で混雑し、また風が強かった。

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集積回路のように規則正しい街区に様々な形のビルが整然と並んでいる。

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島の南側でひときわ高いビルが1WTCで崩落した世界貿易センタービルの跡地の脇に建つ。写真右側にある小さな三角形が自由の女神だ。とても小さい。

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完成予想パースはjdsdevelopment.comより

東側を眺めていて、あの建設中のビル曲がってね?と思って後で調べたところ、SHoP Architects設計による626 First Avenueというビルだそうだ。2棟がそれぞれX軸、Y軸方向に屈曲しているという。イーストリバーから見える新たなアイコン建築となりそうな、アクロバティックな建築である。

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北側遠望。数多のビルが建っているが、その中でもひときわ目を引くのはやはり2日目に見た432 Park Avenueだ。(写真やや右奥)
ところで、マンハッタンの建物は固有名詞でなく、街区の番号がつけられている場合が多い。2日目に見たOne57、601 Lexington Avenueなどが主な例だ。もともとは「○○(企業名)タワー」と名づけられているビルも、街区名称に改称されているケースもある(IBMビル→590 Madison Avenue、等)。常に超高層ビルの建設が続き、建物が売却され所有者が変わることが多いマンハッタンでは、地番と建物名を揃えることは理に適っている。

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島の西側では新たに傾斜した超高層ビルが建設中だ。このビルは10 Hudson YardsというKPF設計のオフィスだが、これについては5日目に触れたい。

やはりこうやって360°見渡すと、狭い島ながら現在でも活発に開発が進行していることがわかる。ニューヨークはやはり動的でダイナミックな都市だと確認できた。超高層ビルの展望台に行けた収穫は大きい。
エンパイアステートビルを後にした僕らは、5th Avenueを南に歩いていった。しばらく歩くと左手に刺激的な文字の書いてある建物が見えてきた。


Museum of Sex
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その名も「セックス博物館」。1階をミュージアムショップ、2〜4階を博物館として運営しているこの刺激的な建物は、歓楽街にひっそりと佇むでもなく、やけに堂々としたファサードでファッショナブルな性生活を明るく提唱している。扉の把手が「X」字になっているのも凝った意匠だ。
店内は清潔感のある白色にまとめられ、セルフプレジャーグッズから各種コンドーム、ヌード写真集などなどがオシャレに陳列されている。
1階の店舗を一通り見た後、2〜4階のミュージアムに足を運ぶ。

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展示品はさしたる貴重なものはなさそうで、セックスにまつわるカートゥーンや映像、オブジェが薄暗い室内に並べられている。日本で言うところの珍宝館、つまり性交渉にまつわる考現学資料館である。なるほど、なるほど。
最後はなぜかパスポートを提示させられ、器物損壊について当館は責任を負いません的な書類にサインを求められた。何事かと思いつつ狭い通路を進むと、そこには床や壁に巨大な○○○が!・・・あまりにバカバカしくて笑った。何があるかはご自身の目で確かめていただきたい。
この性に関する過激(?)なミュージアムがニューヨークのど真ん中にあるという現象は、ニューヨークの懐の深さを図らずも思い知らされた。もちろんこういった施設の存在を不快に思う人もいるだろうし、アメリカは日本以上にポルノメディアに対する風当たりが強いと聞くが、是非がんばって反旗の狼煙を上げ続けてほしい。欲を言えば、よりよいキュレーターに展示品のキュレーションをお願いしたい。


Flatiron Building / Daniel Burnham (1902)
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フラットアイアンビルはマンハッタンでは珍しいその立地特性と、ボザール様式によって端正に整えられた容姿から、マンハッタンを象徴するビルとして110年以上この地に佇んでいる。「フラットアイアン」という名称はこの建築が鉄骨造であることからきていると思っていたのだが、調べてみるとこの土地がもともと「フラットアイアン」との愛称で呼ばれており、このビルが建つまで開発されることはなかったという。シカゴ派のダニエル・バーナムがこの地に建物のデザインを依頼されて用いたのは、ボザール様式、それもモダニズムとネオクラシックを融合させた斬新なものだった。先端は細くわずか2mほどしかないにもかかわらずゴツい装飾的な石で覆うため、特に納まりに配慮したようだ。彎曲した上げ下げサッシなど施工も困難だったと思う。

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建設中(Wikipediaより)

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先端内観(Wikipediaより)

ちなみに内部からみるとこのようになっている。マンハッタン島に浮かぶこの船の舳先は、ダイナミックに変わりゆく街を見つめていたのだろう。


Limelight Market Place(Limelight Shops)
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教会をリノベーションした吹き抜けのある市場というので見に行ったが、内部は天井が張られた普通の店舗になっていて、どうやら再改装されてしまったようだ。

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元の姿(shophex.comより)

これが見たかっただけに残念。

昼は日本食が恋しくなったので、大戸屋に入った。アジア系の店員が「イラッサイマセー」と元気よく挨拶するのに面喰いながら、古民家風の階段を上る。日本では普通の和食ファミレスチェーンでも、NYでは少々割高になるが、その代わりボリュームも1.3倍くらいあり腹一杯になる。
日本食は割高でも人気のようで、僕らも20分ほど待った。きょうこ氏によるとラーメンの一風堂、焼き肉の牛角などはとても人気で、なかなか入れないらしい。
お腹を満たした僕ら一行は地下鉄に乗り、ニューミュージアムに向かった。


New Museum of Contemporary Art / SANAA (2007)
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SANAA(西沢立衛・妹島和世)による現代アートを展示するニューミュージアムは、この旅で特に見たかった建物のひとつだ。様々な形のボックスを積んだような外観は色彩の派手さも形態の突飛さもないが、都市におけるアイコンのひとつとして定着している。外壁はアルミパネルの上にエキスパンドメタルを組み合わせた二重皮膜になっていて、1階はガラスのカーテンウォールで解放されている以外はほとんど閉じている。GAJapan90(2008年1・2月号)の対談で「倉庫をラフに積む」と表現していたが、まだ価値の定まっていない作品を展示する質素な箱を垂直に積み上げたような肩肘張らない「ラフさ」はMoMAやメトロポリタンにはないアートの「新しさ」に建築が寄り添っていると言ってもいい。

僕らはまずEVで最上階まで上がり、そこから徐々に降りることにした。NYで訪れた他の美術館同様に、展示室に順路はない。
美術館の展示方式は順路があるか無いか大きく2つに分けられる。企画展などはベルトコンベアで運ばれるように順路に従って展示品を観賞することで、キュレーターの意図したストーリーを読み解く。明快で全ての作品を見落としなく見ることができるという利点もあるが、退屈な作品もずっと眺めていたい作品も同じような速度で観賞することを強要される。その点で順路が無いものはいつまでも好きな作品の前にいても良いし、一通り見終わった後で戻ることもできるし、興味のない作品ばかりなら展示室に入らなくてもよい。後者の方がよりアートに対する主体性が求められる。この美術館は後者に属する。

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EVで上がった7階は屋上に出ることができた。この上は機械室となっている。

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バルコニーは部屋内側に排水溝を持ってきているけど、逆勾配はリスキーで普通あまりやらない。また外壁面をよく見ると、エキスパンドメタルはアルミの外壁から持出し金物でリベット留めされている。

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サッシ周りの排水溝とAC吹出口、鉄骨の納まりはさすがSANAA。シュッとしている。鉄骨背面の吹出口はさすがにフェイクかな。

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6階はオフィスなので5階へ。ぺリメーターの納まりもきれいだ。

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非常階段を下りて下階のギャラリーへ。非常階段といえど主要な動線部であるのに、蛍光灯はむき出し、床もモルタル仕上と建築でいえばやや“粗末な”仕上だ。あえて割り切ることで、バラック感、いわば倉庫リノベーションの延長をここでやろうとしているように思える。高価な美術品を納める宮殿がオーセンティックな美術館の姿ならば、まだ価値の定まらない前衛アートを納める箱は倉庫の方が似合う。

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階高の高い展示室はジム・ショー(Jim Shaw)という社会派ビジュアルアーティストの個展を行っていた。

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1階へ下りる階段は狭く、ボリュームの隙間にいるようだ。こういった建築的な空間が1か所でもなければ、本当に機械的な箱になってしまう。

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こちらは地下に下りる階段。

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地下のトイレは大胆にモザイクタイルを用いている。

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エキスパンドメタルを張ってつくられた書棚は透け感が美しい。書棚にエキスパンドメタルを張ろうなんてなかなか思いつくもんじゃない。

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人がいなければスケール感がわからない。

ボリュームを重ねた外観に反して、内部からそのダイナミズムを感じられるようにはなっていなかったのはやや予想外で残念だったが、アートと対峙するときに、建築とアートの相互侵犯的な関係性を持たせるべきかというのは常に課題になる。その意味では象徴的な吹き抜けを有するMoMAと対極にあり、内側からは建築の個性を抹消するような手続きとし、外側からは周囲と調和しつつ単調にならないオブジェとして練り上げた結果がこのニューミュージアムの姿だとすると、落とし所として納得できる。ニューミュージアムは決して完成された建築ではないが、両腕を失ったがゆえに無限の存在へと昇華されたミロのヴィーナスのごとく、アート、すなわち人間の想像力に天井が無いことを示すプロトタイプになりえる。それは連綿と続く人間の営為そのものであり、営為の一端にこの美術館があるといっても決して言い過ぎではないだろう。

一行は今日最後の目的地、MoMA PS1を目指した。
Spring St駅から6番線に乗ってGrand Central駅に行き、7番線に乗り換えてCourt Sq駅で降りた時には辺りは夕闇が立ち込めていた。


22-22 Jackson Avenue / ODA (2016)
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MoMA PS1の通りを挟んで向かいにちょっと変わった建物があった。ODAという事務所が設計した22-22ジャクソンアヴェニューという建物で、コンドミニアムのようだ。まだ1階は内装仕上中だが、明快なコンセプトが一見してわかるというのは清々しい。


MoMA PS1 (1971)
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もともと学校であった建物をリノベーションしてMoMAの別館にしたのがMoMA PS1だ。PSとはPublic Schoolの略らしい。MoMAが近代アートの殿堂なら、こちらのPS1は現代アートを取り扱う。そのため、先ほどのニューミュージアム同様にラフな建物だ。

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黒板には館内のマップがラフに描かれている。黒板という学校のモティーフをうまく利用するのも校舎リノベーションの醍醐味だ。

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わずか50歳でこの世を去ったスコット・バートン(Scott Burton)の椅子の部屋。

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人型作品のコーナー。人の形というのは心理的にクるものがある。

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スーパーリアルな逆さまの人。

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絵画かと思って角を見たらピースが嵌めこまれている立体作品。凝っている。

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僕の好きな建築家・思想家レヴェウス・ウッズのドローイングと立体作品。立体は初めて見たので興奮した。うーん、かっこいい。

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土産物にある建物の置物をグリッド状に並べ、比喩的にマンハッタンの都市批判をする作品(だと思う。かわいい)

現代アートというのは社会的背景や芸術史を含む歴史一般の知識を総動員しないと読めない難解な作品が多いため、大量に見ると脳の情報処理が追いつかず「かわいい」とか「かっこいい」とか小学生並みの感想しか言わなくなるので注意が必要である。
古典的な芸術に比べ価値基準や制作・表現方法が多様化し表現の幅が広がった一方、価値が現在進行形で流動するのが現代アートだ。ある批評家は「現代アート作品としてギャラリーに展示されている9割はゴミ」と評したが、現代アートの価値は今を生きる我々によってまさに見出されるものだ。それゆえ価値が定まり安心して見ることができる芸術作品に比べ難解だと言われるが、逆に言えば僕らがコミットする余地が全然あるということだ。そこには希望がある。
駆け込みで入り閉館まで見尽くしたが、非常に濃密な時間を過ごすことができた。

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2つの美術館をハシゴして現代アート作品群にふれたせいで食傷気味になったためか、夕飯は再度和食をセレクト。きょうこ氏に連れられて入ったのは「にっぽり」という店で、ラーメンとんかつ寿司餃子(和食?)なんでもこいの素敵なお店だった。日本食が恋しくなれば是非こちらのお店へ。
http://www.nipporinewyork.com/

2日間アテンドしてくれたきょうこ氏ともこれにてお別れ。僕らは彼女に感謝を言いホテルへ戻り、彼女は翌日ボストンへと戻っていった。

(5日目に続く)


[旅行][建築][アート]ニューヨークの建築、アートめぐり(5日目)

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ニューヨークの朝は寒い。特にこの日は最低気温が-10℃とかなり冷え込み、外に出ると風が吹き付け、思わず手をポケットに引っ込めた。ニューヨークはこの日から始業する企業も多く、朝の人通りも多かった。僕らはPark Avenueを通ってGrand Central駅まで歩き、そこから6番線に乗りBrooklyn Bridge - City Hall駅まで向かった。第一の目的地は探すまでもなく、駅から出た僕らの眼前にそびえ立っていた。


New York by Gehry / Frank O Gehry (2010)
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建築家フランク・O・ゲーリーがマンハッタンで挑んだ初の超高層ビルは、ドレープのような優雅な外皮を持つダウンタウンの高級コンドミニアムである。その名もズバリ「ニューヨーク・バイ・ゲーリー」。そのフォルムは、一見既存の建物の概念を打ち壊す、彫刻的で個人的私情による奔放なものに見えるが、実のところ極めてシステマティックな設計手法によってデザインされている。形態・工法においてBIMを活用し、例えば外装のステンレスパネルは割付を数万通りのヴァーチャルスタディを行い、基本的なパネルと数枚の変形パネルのみによって構成している。複雑で優美な意匠を、テクノロジーを駆使して限られた予算の中で生み出すという、まさに21世紀のデザイナーの仕事だ。東京ミッドタウン内にある21_21 Design Sightでやっていた「フランク・O・ゲーリー展」で予習していなければ、この仕事の凄さが理解できなかったに違いない。

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基壇部は周囲のレンガ造のビルに色彩と形態を合わせており、アイレベルでは街並みに馴染んでいる。

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ステンレスパネルの拡大。これで各階施工図を起こすとか信じられない。900戸全プラン違いそうだ。凄まじい。頭がおかしい。(褒めてる)

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背面は完全に割り切り、ストレートな裁ち落しとしている。全体がぐにゃぐにゃしている訳ではなかった。

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公開空地の看板と公開空地。マンハッタンにも総合設計制度みたいなものがあるのか。

などと興奮して四方から写真を撮る僕とは対照的に、妻はただただ寒そうだったため、もっと眺めていたい気持ちを抑えつつ僕らはその場を後にした。


WTC / Skidmore, Owings & Merrill 他 (建設中)
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copyright of Aman Zafar

2001年9月11日のその日、中学生だった僕はテレビで映された光景に戦慄したのを覚えている。2棟の細長いビルが煙を出していた。あれは確か英語の教材の表紙に描かれてあったやつだ、とわかった。その直後に起こったことは誰もが知る歴史的事件となった。あれから15年、僕はその黒々とした深淵を覗いている。ぽっかりと穿たれた虚ろな二つの穴には、多くの流された涙のごとき滝が流れ落ち、その周囲を延々と取り囲む黒い石碑には多くの名前が刻まれていた。ニューヨークでは2,763名が命を落とした。
かつて日系人建築家ミノル・ヤマサキが手がけたツインタワーがあった場所は「グラウンド・ゼロ(爆心地)」と呼ばれ、跡地にはメモリアル施設と7つの塔が計画された。国際コンペでマスタープランを勝ち取ったのは米国の建築家ダニエル・リベスキンドで、「フリーダムタワー」と称する自由の女神像を象ったビルを中心に据えた計画だった。このコンペ後に様々な方向からの圧力と思惑が働き、主に収益性に劣るという理由でフリーダムタワーの計画は米国最大の組織設計事務所であるSOMが引継ぎ、リベスキンドは降板させられてしまう(この辺りの経緯はWikipediaの「1ワールドトレードセンター」に詳しく書かれている)。

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一方、ツインタワーのフットプリントではランドスケープコンペが実施され、KPFから独立した若き建築家マイケル・アラッド(Michael Arad)の提案が5,201案中1等に選ばれ実現した。彼が"Reflecting Absence(不在の反映)"と呼んだ2つのヴォイドは黒の大理石で覆われ、滝が流れ落ちている。あぁここは、とてつもなく大きな墓なんだ、と思った。日本でも欧米でも墓石にしばしば黒色の石を使うが、それが引き伸ばされ反転している。マンハッタンは超高層ビルが象徴する文明の極致であるが、ここでは超高層が消え、代わりに地面が抉られている。つまりここは文明の象徴のネガであり、一度死に絶えた都市そのものの墓標なのだ。一度死んだ都市を囲むように新たな都市を築くこと、破壊と再生、不死鳥のごとき崇高な都市と理念の勝利、それがグラウンド・ゼロで描かれた都市計画のストーリーだろう。巨大な空洞を眺めながらそんな空想に浸っていると、隣で犠牲者の家族と思われる人たちが石に刻まれた名前に花を差していった。

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僕はたちまち言葉を失った。都市の墓標であると同時に、犠牲者の家族にとってここは愛する家族の墓でもあるのだ。こんな単純な事実をなぜ忘れていたんだろう。


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コンペ案(左、skyscrapercity.comより)と実現した1WTC(右)

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現行の計画案CG(CNNより)

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安藤氏の提案(greg.org 他)

自由の女神からスーパーマンへの《変身》
フリーダムタワーに代わってSOMが手がけた1WTCはアメリカンマッチョイズムの象徴、つまりスーパーマンである。テロには報復を、破壊にはより強力な再生を、そんな機運が21世紀初頭のアメリカでは渦巻いていた。安藤忠雄氏はWTC跡地に高層ビルを建てない地下のメモリアル施設を提案していたが相手にされなかった。アメリカにとっては辛気臭く感傷的な安藤氏の提案よりも、「テロリズムに屈しない」国家再生の象徴たるスーパーマンが欲しかったという健全な建前に加え、テロによる建物・インフラ・サービスの復旧及び開発による投資の増強、そしてアフガン報復戦争をはじめ国際的に金が流動するための資金調達という経済的理由より、延床面積を増やし収益性の高いビルを建設しなければ「元をとれない」という本音がある。もとより世界的にも極めて地価が高いマンハッタンの南端にあって、その空を使わないのは投資家にとってみれば「金をドブに捨てるようなもの」なのだ。マンハッタンの都市景観が経済原理によってつくられていく過程はレム・コールハース著の『錯乱のニューヨーク』に克明に記されているが、リベスキンドのしなやかな「自由の女神」がSOMの「スーパーマン」に《変身》した一連の経緯はアメリカの筋肉質な国家思想そのものが投影されているように思える。だからマッチョなのだ、この国は。

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1WTCの隣には既に竣工した7WTCがある。こちらはSOMのデイヴィッド・チャイルズの設計によるもので、さしたる特徴はなく1WTCの露払い役に徹している。足元のステンレス格子パネルくらいしか近づいて眺めるものはない。区画めいっぱいに建てたビルは歩行者の干渉をことごとく拒絶する。つまらないものだ。


WTC Transit Hub / Santiago Calatrava (建設中)
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魚の骨のような白い躯体が目に留まった。こんな造形をつくるのは奴しかいない、と思ったらまさにサンティアゴ・カラトラヴァ設計の建物だった。用途は不明だったが、調べてみると地下鉄の乗換駅を含む複合施設らしい。外観はほぼ仕上がっているようで今年中にもオープンしそうな気配ではある。
ところでなぜこの形なのか、説明するのは簡単だ。「カラトラヴァがやったからだ。」それに尽きる。

4WTCは槇文彦氏の設計で完成しているので行こうかと思ったが、妻の顔が寒さと無関心のため硬直してきたので、僕らは次の目的地へ向かうことにした。
予定ではWTC駅に行くつもりだったが入口が見当たらなかったため、隣のPark Pl駅から地下鉄E線に乗って34st駅まで向かった。ここからハイラインまで少々歩く。


James A. Farley Post Office / McKim, Mead & White (1912)
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1982年に郵政長官の名が冠されたジェームズ・ファーレー郵便局は1912年竣工、コリント式列柱をもつボザール様式建築で、アメリカの歴史建造物にも指定されている。設計者のマッキム,ミード&ホワイトは19世紀末から20世紀中盤まで活躍したアメリカを代表する建築事務所で、ニューヨークを軸足にボストン・ブルックリン等に多くの記念碑的建築をボザール様式を用いて設計している。それにしても列柱に圧倒された。日本の擬洋風建築とは規模が違う。中には入らなかったが、エレガントなホワイエは見ておくべきだった。

10 Hudson Yards / Kohn Pedersen Fox (建設中)
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完成パース(hudsonyardsnewyork.comより)

4日目のエンパイアステートビルから見えたハイラインの始点にまさに建てられようとしているこのガラス張りの超高層は、10ハドソンヤーズと呼称されている。設計はKPFで、主にアパレルブランドのCOACHが入居する予定となっている。一見ありふれたガラスのスカイスクレーパーだが、足元はNYの新名所、ハイラインとつながる。計画ではこの付近一帯が「ハドソンヤーズ」と呼ばれる再開発地区に指定され、オフィス、商業施設、コンドミニアム、ミュージアムを含む六本木ヒルズ・東京ミッドタウン規模の複合開発が予定されている。KPFは日本では六本木ヒルズの外観デザインを手掛けたことで知られるが、大規模都市開発手法を作り上げていく上で森ビルと相互に刺激しあったのだろう。建物の外観もどこか虎ノ門ヒルズに似ている。有名な建築家だけでなく、組織の設計者、デベロッパーなど都市開発に関わる企業を注意深く探っていくと、意外なところで繋がるなど面白い発見がある。
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参考:虎ノ門ヒルズ(森ビルより)


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ハイラインに入る前に近くの喫茶店で休憩をとった。この店では10ハドソンヤーズの現場で働く作業員の方もよく出入している。妻はカフェラテを、僕はエスプレッソを注文した。寒さでかじかんだ手に温かかった。


The High Line / James Corner Field Operations and Diller Scofidio + Renfro (2009)
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何はともあれ、ハイラインだ。もともと貨物鉄道線路として活躍し、廃線とともにスラム化した高架路を「アグリテクチュア(農築)」というコンセプトのもと再生させたハイラインは、ニューヨークの新名所として人気を博している。
僕らは北端のデッキから入った。風はまだ冷たく、のんびり散歩という気分ではなかったが、それでも歩く人は絶えない。

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ところどころデッキが枝分かれして見せ場が設けられている。

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水飲み器やベンチは鉄道・人の流れというコンテクストを意識してデザインされていた。この細部まで行き届いたデザインが、全体の完成度を高めるのに一役買っている。

やがてハイラインでまず一番目に見たかった建物が姿を現した。


HL23 / Neil Denari (2009)
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建築家ニール・ディナーリ初の独立した実作であるHL23は都市生活を謳歌するニューヨーカーのための高級アパートメントで、ハイラインにもたれかかるような形で上階が出っ張っている。ニール・ディナーリは東京国際フォーラムの斬新なコンペ案(3等)のほか多数のコンペ案やイメージで知られる建築家で、日本では知る人ぞ知るといった感があるが、数々の大学で教鞭を執りハーバードの客員教授も務める彼は、アメリカではザハやレムと並び賞されるほどの建築家である。僕がニール・ディナーリを知ったのは週活のとき、僕の描いたドローイングをみた当時の面接官(今の会社の課長)が「君の作品はニール・ディナーリのようだ」と評してくれたのがきっかけだった。そんなわけで、この寡作なアーキテクトの建てた実際の建築を見ることはこの旅の密かな楽しみだった。

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ハイライン側に面する壁面はステンレス製の凹凸をつけた外装パネルで覆い、皮膚のような表情が与えられている。またガラスのカーテンウォールには内側の斜材を隠すための有機的なブレースのパターンが描かれている。このフェイクが果たして正しいのかどうか正直なところよくわからないけど、建物のニューロンのような有機的なイメージを印象付けるには効果的だ。

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立面図(archdiaryより)

驚くことに、この建物はハイラインを越境している。ハイラインの法規上の扱いが気になるところ。


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段状になったところは学生らしき人たちが思い思いの時間を過ごしていた。近くに大学があるらしく、そのほかにも複数の建物をハイラインは繋げている。
こうしてみると日本の駅前に数多くつくられた歩車分離のペデストリアンデッキを思い出すけど、日本のそれよりも積極的に使われている感じがする。「駅への動線」にしてしまうと実用重視で慌しく走る人なんかもいる殺伐とした場所になることが多いが、ここは純然たる観光地として作られているために、行きかう人々ものんびりと歩き、スマホで植物や風景を撮ったりしている。何よりウッドデッキというのが足にも見た目にも心地よい。
またニューヨークの街路にはどこでも必ずゴミが落ちているが、ハイラインにはゴミがほとんど落ちていなかった。デザインは人の振る舞いを左右するのだ。
しばらくすると第2、第3の目的の建築が見えてきたが、妻は寒いからチェルシーマーケットに行くというので、僕らは1時間ほど別行動をすることにした。


IAC Building / Frank O Gehry (2007)
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今日2回目のゲーリーは、ドレープのようなひだをもつ白いかぼちゃのようなビルだ。もともと外装をチタンで考えていたらしいが、クライアントの意向で全面ガラス張りに変更された。白い部分は外装パネルではなく、全てガラスにシートを貼っている。サッシではなくドットプリントのグラデーションによって透明/不透明部分を生み出すことで、「窓」の概念に挑戦しているようにもみえる。もしくはガラス、サッシ、外壁で区分された建築の構成要素に対するアンチテーゼかもしれない。しかし、このガラス割はよくつくったと思う。

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せっかくなので中に入ってみたが、突飛なアトリウムや複雑な内装があるわけではなく、オーソドックスなロビーだった。特殊な外装に資金を使い果たしたとみえる。とはいえ外観が攻めに攻めているため、基準階の家具配置も機械的な配置ではなく面白いことをしているようだ。


100 Eleventh Avenue / Jean Nouvel (2010)
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フランスの建築家ジャン・ヌーベルが設計した23階建てのアパート、100イレヴンスアヴェニューはIACビルの隣に建っている。ゲーリーの隣にヌーベルとは、また凄い組合せだ。
特筆すべきファサードは窓枠をモンドリアン風に重ねたようなもので、数種類の色のガラスが嵌められている。それも微妙にずらしながら配置されるため、表情は近代的なビルにありがちなのっぺりとした冷たさがない。

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窓枠のアップ。ねじれたような窓枠に加え、ガラスの面もランダムにねじれている。隙間のシールはやや甘い。恐らくいくつかの単位で構成されているみたいだが、同じサイズでもガラスの出入りが違うなど、いくつのサッシがあるのかぱっと見てわからない。

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せり出した窓枠は小口にパネルが貼られ、裏の鉄骨下地で支えられている。鉄骨も相欠きでボルトで留められており、見附幅は窓枠と揃えられている。さすがに見せ場だけあってディテールに抜かりがない。

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見上げれば植栽のポットが浮いている。自動灌水はあるんだろうか。外壁も内壁も天井もサッシで気が狂いそう(笑)

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裏側はレンガタイルで覆われ、モダンなファサードと対照をなしている。
これだけ個性の強いファサードをもちながら、米LEED(日本でいうCASBEE)認証ビルというのが凄い。


再びハイラインに戻る。まだ妻と合流するには時間があるので、少し先のホテルを見に行くことにした。

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ハイラインにはいくつかの建物が跨っている。その中をすり抜けていくとまた青空が広がる。なるほど、このシークェンスは飽きない。

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一段下がった部分にはハドソン川を望むカフェテラスがある。春や秋に一息つくには最高のロケーションだ。

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枕木でできたビーチチェア。線路の上に跨り、飾りの車輪がついている。この演出がにくい。


The Standard Hotel High Line / Ennead Architects (2009)
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ザ・スタンダードホテルがNYで目を付けた土地は、なんとハイラインの上だった。ジェームズ・ポルシェック率いるエンニード・アーキテクツはこの困難な立地を逆手にとり、コルビュジエのマニフェストを受け継ぎつつ、現代的な方法でハイライン上のホテルを築いた。ガラスのカーテンウォールによって開放された外壁面は、2色のカーテンを交互に配することでこの手のビルにありがちな硬直性を回避し不均質なファサードを生み出している。意図的に表層を操作をするのではなく、使い手のカーテンの引っ張り具合をそのままファサードにするというのは斬新で面白い。

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このカーテンの効果を最大限に生かすために、スラブは外観に影響しないよう極力薄く作られている。こんな薄くて二重床は考えにくいが、ホテルで直床は遮音性能上ありえない。仮にスラブ150mm、置床100mm、天井100mmとしても350mmは必要。うーんと思い室内画像を検索すると、カーテンボックスが折上がり、床は立ち上がりなしということが判明。カーテンファサードのためのディテール、とても納得した。高所恐怖症だったら足がすくみそうな部屋だ。

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室内画像(Tripadvisorより)とネタ記事
このハイラインとハドソン川を望む眺めは魅力的だが、逆にハイラインを歩く観光者からも見られているということには注意しなければならない。現地のサイトではオープン直後にネタにされていた。


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妻とチェルシーマーケットで待ち合わせたが、ハイラインから入ることはできず一旦地上に降りた。チェルシーマーケットは古い倉庫をリノベーションした商業施設で、飲食店からグッズショップまで幅広く取り扱っている。彼女はめぼしい店を見つけていて、二人で2種類のスープを買い建物内の腰掛石に座って飲んだ。英国風クラムチャウダーとロブスターのスープだった。冷えきった身体に熱いスープがありがたかった。そしてとてもうまい。

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外には安藤忠雄氏が内装を手掛けた「Morimoto」があるが、予約なしでは入れないというほどの人気店。のれんのはためき具合からこの日の気候がよくわかる。寒い。

またハイラインに上り、先ほどのスタンダードホテルを過ぎるとデッキが途切れている。楽しいハイライン散策も終わり、いよいよハイラインの終点、ホイットニー美術館に到着した。


Whitney Museum / Renzo Piano (2015)
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昨年5月にオープンしたばかりのホイットニー美術館、設計はレンゾ・ピアノで、パリのポンピドゥー・センターや銀座のエルメス、関西国際空港なんかで日本人にはなじみのある外国人建築家のひとりだ。旧館はマルセル・ブロイヤーが手掛けた段状のファサードが象徴的な建物だったが、新館もその段状を踏襲しつつ斜めにずらしたりホワイエの天井を斜めにしたりと複雑な形態になっている。1階を支えるのは細いCFTの柱、ロッドで吊られたガラスのカーテンウォールは透明で、どちらも高度なエンジニアリングの賜物だ。

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細枠の回転ドア

ニューヨークと回転ドア
余談だが、ニューヨークの大規模な建物のエントランスには回転ドアが多い。ホイットニー美術館、シーグラムビル、エンパイアステートビルetc...大型施設の9割以上は回転ドアを採用していた。気になって少し調べてみると?建物内部の熱の損失を防ぐため、?風圧で開かないことがない、?防犯のため の3つの理由からきているそうだ。4枚の回転扉は外部と内部が必ず1回断絶されるため、暖かい空気が外部に逃げにくいのに加え、冷たい風が内部に吹き込むということはない。また超高層ビルの足元で起こりやすいビル風によって開閉に支障をきたすこともないので、マンハッタンに適している。そして回転ドアは一度に多くの人間が出入できない・素早く出ることができないため、犯罪者が逃走しづらいという。そのメリットの反面、火災時なんかの避難も遅くなるわけだが、そのときはハリウッド映画でよく見る「体当たりでガラスをブチ破る」という奥の手があるので特に問題ないのだろう。(最近のビルは二重ガラスだから破るのは難しそうだ。)
日本のビルは風除室を設けて両引きの自動ドアを2組設けるのが一般的となり、回転ドアは普及しなかった。それでも優れた気密性のために大型ビルやドーム建築などでしばしば用いられてきたが、2004年に六本木ヒルズで起きた挟まれ事故の影響もあり、回転ドアはますます敬遠されてしまった。また同じ米国でも西海岸の方は、回転ドアの方が珍しいようだ。
グロピウスが提唱した「インターナショナルスタイル(=世界中どこでも同じビル)」も、細部に土地柄が滲み出す。そうした細部を拾っていくのも建物の見方のひとつだ。

こちらも階ごとに異なる展示を行っているようなので、まずはニューミュージアム(4日目)同様にエレベーターで最上階に上る。

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建物はところどころ外部に出られるようになっており、ハイラインやハドソン川、ダウンタウンが見渡せる。先ほどのザ・スタンダードホテルもよく見えた。

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最上階の常設展はポロック、ワイエス、イサム・ノグチ他様々な近現代アート作品がみられる。ここホイットニーは特にアメリカンアートを中心にコレクションしており、そのあたりの知識が薄いと難しいところもあるが、やはりエネルギッシュで面白い作品が多い。

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こちらの作品は個人のロッカーをキャリーバッグ用のバンドで縛っており、端のロッカーなんかは押しつぶされて使えなくなっている。過剰なセキュリティ社会に対する皮肉だろうか。

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ロバート・ゴバーの「Newspaper」という作品。ハッキリ言ってバカにしている(笑)この作家は壁から足だけがはえたような彫刻作品なんかも作っているが、千住博氏も著書『ニューヨーク美術案内』で「わからない」と漏らしている。ただこういう作品を前にすると、否応なく見る側のスタンスが問われる。

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チェイニー・トンプソンの作品は機械的なパターンが見えるだけだが、近づいてみると恐ろしい執着で描かれたことに気づく。

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こちらの作品なんかただ格子状に筆を走らせただけに見えるが、普通の順序で描くとこのように重ならない。描き方を想像すると、一回描いた後に再度筆を置き、順序を部分的に修正していくほかない。狂気としとか言いようがない。

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天井に目をやれば、展示壁を吊るためのレールがグリッド状に仕込まれていることがわかる。展示空間の設計者は作品に引き(全体を見るための距離)をとりつつ緊密に作品群が観賞でき、なおかつ快適に歩行できる距離をとてもうまく設えていた。作品について熟知しないとできないプロの仕事に、頭が下がる思いだ。

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下階はフランク・ステラの個展だった。とにかく巨大でエネルギッシュな立体作品が多い彼だが、平面作品はあまり知らなかった。この横長の作品"Damascus Gate (Stretch Variation III)"なんかは観光バスよりも大きく、横幅15mだそうだ。

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ゆうに人間のサイズを超える作品を大量に制作するステラだが、ただ廃材を適当に繋げているだけではないことがわかった。溶接、ボルト留めなど、まるで工業製品をつくるような手つきで色とりどりの金属片を組み合わせていくそのプロセスはどこか建築的で、ゲーリーの作品にも通じる奔放さとテクノロジーの融合を予感させる。近年は3Dプリンタ―で作成した有機的な形態を取り入れた作品も登場し、今後ますます注目される作家の一人であることは間違いない。ファンになってしまった。
こうして写真を並べてみても、作品が巨大すぎて人間が逆に模型みたいに見えてしまう。

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下に続く階段には数々の電球でできたアートが吊り下がっている。単純だが綺麗だ。単純なものほど心を打つ。

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1階まで下りると、ホワイエには夕日が差し込んでいた。西日にはロールスクリーンが役に立つ。

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この書棚、本もろとも買いたい。置く場所ないけど。


美術館を堪能した僕らは別行動をとることにした。
僕は前日に行く予定だったクーパー・ユニオンに、妻はマリベルのチョコレートを買いに、それぞれ向かった。


One Jackson Square / Kohn Pedersen Fox (2009)
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波打つような個性的なファサードを持つワン・ジャクソン・スクエアはKPF設計による高級アパートで、高い部屋では1室2400万ドル(約30億円)ほどするらしい。ひぇー。


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地下鉄の壁に容赦なく埋め込まれる配管類。これごと美術館に置いたらアートだな思う。アートだよね?フランク・ステラなら多分そう言うよ。
14St駅から地下鉄L線に乗り14St-Union Sq駅で6番線に乗換え、Astor Pl駅で下車するルートで、クーパー・ユニオンを目指す。Astor Pl駅に着いた時は日が傾き始めていた。


41 Cooper Square / Morphosis (2009)
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モーフォシスのトム・メインが手がけたクーパー・ユニオンの校舎、41クーパー・スクエアはその奇矯な姿を目の前に晒していた。ステンレスのパンチングメタルで覆われた外観が夕日に照らされ鈍色に染まる。真ん中にはいびつな深い切り込みが入り、ガラスが覗いている。1階レベルではV字の柱が上階を支え、壁面は斜めのガラスで覆われている。ついに来た、という感慨と興奮、そして徐々に日が沈む寒さで不意に震え上がる。中にはさすがに入れないとしても、外観だけ見たいという一心で、獲物の隙を窺う野良犬のように建物を一周した。

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このような端部は通常納まらない場合が多いが、考えて納められている。

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裏側は大通り側ほど彫刻的ではないが、それでもパンチングメタルをうまく使って動的に見せている。

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側面は搬入出口で、床のスリット側溝が変えられている。壁は杉板型枠をアクセント的に用いていた。

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斜めのRC柱はクラックがピシピシ入っている。3次元的にモーメントがかかってるのだろう。無理もない。計算で理論上成立しても、本物の構造物にはあらゆる力学が働き、しかも嘘をつかない。柱の周りには日本みたいに巾木も柵も頭上注意喚起のクッションもない。このおおらかさは好きだが、訴訟大国のアメリカで大丈夫なんだろうか。

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上りたくなる絶妙な傾斜。外壁清掃のためのトゲが取り付けられている。

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スリット見上げ。型枠には4×4のピーコン穴がある。コンパネもサイズが日本と違うかもしれない。

この建築が画期的なのは、ただ変わった外観や迷宮的なアトリウムをもつということだけではなく、先も出てきたLEEDのプラチナ認証を受けているスーパーエコロジー&エコノミービルだということだ。今後、環境問題に関するトピックは世界的にますます重要な課題として認識されてくる。その中で建築デザインにできることのひとつを、テクノロジーを駆使したサスティナビリティ建築として、41クーパー・スクエアは具体的な形で提示している。
内部の見学は定期的に一般向けツアーがあるらしいので、次は是非その機会を狙っていこう。


The Standard East Village / Carlos Zapata (2008)
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41クーパー・スクエアの2軒隣にあるザ・スタンダードホテル・イーストヴィレッジ。この大胆な曲面ガラススクリーン、白いグラデーションを一目見た時「もしかしてヤツ(ゲーリー)か?」と思ったが、違った。建築家の名はカルロス・ザパタというベネズエラ人で、ベトナムのビテクスコ・フィナンシャルタワー(2010)など巨大建築も手掛ける実力派だが、恥ずかしながら存在を全く知らなかった。竣工年からいくとゲーリーのIACビルの1年後なので時期的にパクったとは考えにくいが、それにしてもこのつるんとしたグラフィカルなファサードは雰囲気がよく似ている。ザ・スタンダードホテルというブランドは、世界各地にその土地のコンテクストを生かした個性的なホテルを生み出しているらしいことがわかった。一度泊ってみたい。


一通り見て満足したので、ホテルに戻ることにした。外気温は既に氷点下、超高層ビルが林立する中心部は、絶えずビル風が顔に冷たい息を吹きかける。
ふと、前日の夜にみた光景を思い出した。きょうこ氏と別れホテルに向かう道すがら、ロックフェラーセンター近くに座りこんでいた黒人のホームレスに「おい、腹減ってないか!?」と声をかけた白人は、持っていたマクドナルドの袋ごとそのホームレスに差し出した。ホームレスは「ありがとう」と言いそれを受け取った。そんなやりとりが、まさに目の前で起きたのだ。路上に座る他者に対して、自分はそんな振る舞いができるだろうか、信仰があればできるだろうか、いや恐らくできないだろう。
ニューヨークの冬は寒い。様々な場所から様々な目的を持った様々な人種が集うこの都市でも、冬の寒さをみんな知っている。だからこそ他者に対し温かい、という側面もあるのかもしれない。
僕は都市のこと、アートのことを少しばかり話すことができるが、あの白人のように、あの場で飢えた誰かを救うことができるのか。自問自答は続く。
明日がくればこの都市を去らなければならないが、僕にできるのは、この動的な都市の今の姿について可能な限り記述することくらいだ。
だから記憶し、記録する。

でもあの名も知らぬ白人には、まだ届きそうにない。

(6日目に続く)

[旅行][建築][アート]ニューヨークの建築・アートめぐり(6日目)

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ステファヌ・マラルメは「世界は一冊の書物に到達するために存在する」と言ったが、マンハッタンの章は数ページほど書き足さなくてはならない。

と言いたくなるほどNYの建築とアートにどっぷり浸かった旅行もいよいよ最終日。日本に帰りたくない、仕事したくない、と駄々をこねても始まらないので、手始めに朝5時に起き、ホテルの部屋の実測をした。旅行などでホテルに泊まるときは、吉村順三だったか清家清(忘れた)に倣い、その部屋の図面をラフに描き起こすのを習慣にしている。今回泊まったホテル・エリゼ(Hotel Elysee)はレバーハウスの隣に位置し、中核駅であるGrand Central駅にも徒歩でアクセスできるため、どこに出かけるにも都合がよかった。

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全面ミラーのクローゼットは外出前の身支度をサポートするのと同時に、部屋に入ったときの奥行を広く見せる視覚的効果もある。

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なぜか入口扉の枠が不定形だった。面積上の都合だろうか。

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ベッドルームは落ち着いた雰囲気。アンティーク調の大きなテレビ台はブラウン管用のものがまだ使われていたが、中は液晶テレビだった。これがなければより広く感じそう。

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プランはこんな感じ。(着彩は帰国後)


チェックアウトは13時らしいので、午前中のうちに心残りの場所に全て行こうと画策した。開館時間などから最適なルートを割り出し、僕らは行動に移した。


St Patrick's Cathedral (1878)
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ロックフェラーセンターやエンパイアステートビルと同じ5thアヴェニューに面するセント・パトリック大聖堂は、19世紀に建てられたフランスのゴシック・リバイバルの影響を感じる教会である。ゴシックカテドラルの基本であるラテン十字形のプランに側廊がつき、ファサードにはシンメトリックな双塔を配している。この尖塔の高さは101mとフランスのシャルトル大聖堂より小ぶりだが、有名なノートルダム(69m)よりは全くもって高い。が、実際のところヨーロッパの大聖堂ほど大きく感じられず、むしろこじんまりという印象だったのは、周囲に容赦なく建つ超高層ビルが感覚をマヒさせていたからだ。
ヨーロッパの中世から続く都市は大聖堂とその前の広場を中心とし、その周囲は高さを抑えた街並みが続く。大聖堂は街のシンボル(求心的存在)であり、「どこからでも見える」ことが重要だったし、今でも世界各地の大聖堂の付近は、それより高いビルをなかなか建てない。ビスタの問題もさることながら、教会に影を落としちゃアカンという都市開発側の自制や市民の抵抗も助けていた。しかし、それがここマンハッタンでは逆転し、大聖堂の周囲はそれよりも高いビルに囲まれてしまっている。本来ゴシックの大聖堂とは、キリスト教の教えるところの「神の光」により近づくため、工学の粋を集めて高さの限界に挑んだ最先端の様式である。本当の意味でその意思を継承するのであれば教会も鉄骨の塔状にして、1kmくらいのどこよりも高い尖塔をつけるべきなのだ。
戯言はこの辺にして、内部に入ってみる。

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内部はさすがに圧巻だった。シャルトルやアミアンといったフライング・バットレスをもつ大聖堂とは違ってステンドグラスの縦横比が生み出す極端な高さ強調はないが、ブルーのステンドグラスを通して入る光がやさしく降り注ぎ、吊り下げられたオレンジ色の照明と大空間の中で交わり光を落としている。身廊の柱は細いシャフトが束ねられたもので、装飾的なゴシック建築特有のものだ。
ところで、このカテドラルを彩るステンドグラスは聖書の場面を描いている。これは文字が読めない人々に対して聖書の教義と神の威光を説く目的として始まり、やがてステンドグラス自体が光の芸術として昇華された。それゆえにゴシックのカテドラルは「建築化された聖書」とも呼ばれる。

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身廊を反対に見たところ。バラ窓の下には後になって設けられたパイプオルガンがある。

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天井には石のアーチが幾何学的に走り、頂点にはイエス・キリストを表す「ihs」の文字。ヴォールトを構成する石材もうまく色を散らしている。石の目の向きをよく見るとキリストを中心とした十字架が浮かび上がってくるのは、果たして意図したものだろうか。

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ピエタ像。ミケランジェロのピエタ像にインスパイアされたと書いてあった。ミケランジェロのものより大きめ。

ここは朝早くから夜まで開いているが、早朝はすいているのでゆっくりと見学ができる。また暖房もついていて暖かく入場無料と至れり尽くせりだ。また来よう。

教会を見終わった後一度ホテルに戻り、地下鉄6番線で68st駅まで向かった。

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地下鉄にあったマナー広告。シャレがきいてる。

セントラルパークに向かって歩んでいくと、高層アパートに囲まれた一角に戸建の大邸宅が見えた。これがまさしくNYで訪れる最後の美術館だ。


Frick Collection
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フリック・コレクションは鉄鋼王フリック氏の邸宅を改装してつくられた美術館で、ここが所蔵している画家はベラスケス、ドガ、フェルメール、レンブラント、エル・グレコ、ターナー、ファン・アイク等々、錚々たる顔ぶれだ。地下1階のギャラリーが増築されたほかは当時のままの内装としているらしく、室内の調度品の一部に絵画があるといった趣がある。フリック氏はニューヨークでも有数のパトロンだったが、芸術の審美眼があったのかどうか定かではない。有り余る資産を当時、上流階級で流行していた絵画のコレクションに充てたというのが定説だ。投機的な目的で一流の芸術品を買いあさることは不純に感じるかもしれないが、今日のニューヨークが世界のアートの中心になっているのは彼らが芸術・文化に対し競ってフィーを支払ったからに他ならない。アートと資本は常に表裏一体の共犯関係にある。

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平面図(initaly.comより)

下部にある矢印が先ほどのエントランス。この豪邸の広大さがおわかりいただけるだろうか。

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館内は写真を撮ることはできないが、中庭は写真OK。この中庭だけでも日本の家なら2,3軒入ってしまう。

フリック・コレクションを堪能した僕らは、先ほどの駅から6番線に乗り、Grand Central駅まで向かった。ここから目的地までは歩いてすぐの場所にある。


New York Public Library / Carrère and Hastings (1911)
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ボザール様式で建てられたニューヨーク公共図書館は、誰にでも開かれた知の殿堂として1911年に竣工した。「公立」ではなく「公共」としているのは、この図書館の事業主体がニューヨーク州や市ではなく民間の法人で、寄付によって運営していることに起因する。最も見たかった大閲覧室は2016年秋まで改装のため見学不可だった。行かれる皆さんも注意していただきたい。

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否応なく期待が高まるエントランス。

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階段を上がると、巨大な絵の掛かる空間があった。

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小閲覧室。

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こちらの閲覧室の壁には人物画がずらりと並び、さながら美術館のようだ。一昔前は傍らに本を積み上げていたのだろうが、今は各々ノートPCを並べて作業している。


図書館を出て少々時間が余ったので、タイムズスクエアを見て帰ろうということになった。少々距離があったので、僕らは早足気味で歩いた。

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ところでニューヨーカーは赤信号でも車が来なければガンガン交差点を渡る。きょうこ氏によると、マンハッタンは東西南北のグリッド状に区画が形成されているため信号が多く、いちいち止まっていられないためだという。ゆえにハリウッド映画によくある緊迫したカーチェイスは信号と渋滞の多いマンハッタンには不向きであるが、ビルの間を縫って飛び回るヒーローの舞台にはもってこいだ。天高くそびえる超高層と交差点の多い街路の狭間で人々が抑圧され、自由に飛び回るヒーローにカタルシスを覚えるというのは自然なことかもしれない。思えばスーパーマンやスパイダーマン、バットマンらの空翔るヒーローの舞台はすべてNYか、NYをモデルにしている(ゴッサムシティはNYの旧別称らしい)。
このあたりのメンタリティは巨大化した敵やヒーローがビルを蹴飛ばしながら戦う日本とは一味違うところだ。


Times Square
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タイムズスクエアはアメリカの「渋谷」のような印象で、巨大なモニターがそこかしこに埋め込まれコマーシャルを流している。多くの日系企業が看板を出しているイメージがあったが、今はSAMSUNGやHYUNDAIなど韓国のメーカーが元気のようだ。特にこの一角などは建物の外壁よりモニターの方が多く見えるくらいだ。R.ヴェンチューリが提案したビルボード建築を思い出す。

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Robert Venturi "National College Football Hall of Fame" (1967)

このコンペ案は実現しなかったが、建築と情報メディアの相関関係を最も極端な形で提示したヴェンチューリの予言めいたこの作品は、メディアの勝利と建築の敗北という形でタイムズスクエアの広告塔に引き継がれる。
ただ、誰もが自身の手元や身体に情報を集める機器を持つようになった現代、そして未来において、この大量のエネルギーを消費する広告板がいつまで残るかはわからない。

タイムズスクエアを見た後は、ロックフェラーセンターを抜け東に向かった。妻にお土産をお願いし、僕はホテルへ戻り帰り支度を済ませた。妻が戻ると荷物をまとめチェックアウト、空港に向かう地下鉄に乗込んだ。NY到着直後には戸惑った地下鉄も、帰る頃にはマスターしていた。
かなり時間に余裕をみて行動したので、空港で少々時間をもてあましてしまった。


そんなこんなで僕らの濃密な6日間は無事幕を閉じた。寒かったが一日たりとも降雨降雪がなく、かつ危険を感じる場面にも出くわさなかったのは幸甚というほかない。飛行機の中で新年を迎え、さらにNYでも2回目の新年を迎えるという初めての経験をし、建築とアートを味わいつくした経験は生涯忘れることがないだろう。

この旅と、それを即物的に記述する行為を通して、僕自身の思考を整理し、建築と都市において少しばかり考えるきっかけになった。レム・コールハースが『錯乱のニューヨーク』や『S,M,L,XL』で露わにしたドラスティックな都市論の追体験をしたいという気持ちもあったが、やはり世界から人、モノ、金の集まるニューヨークという都市をこの目で見てみたい、という欲求が強かった。「人種のサラダボウル」と称されるこの都市では隣の人が自分と違う人種であるのが当たり前で、彼らは多様性を受け入れつつ、英語と星条旗でフラットに繋がっている。その光景はある意味理想的で、今の日本が抱える排他的な性格に由来する閉塞感や不安とは明快なコントラストがあるようにみえた。とはいえ米国も未だに多くの問題や病理を抱えており、単純ではない。

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Jasper Johns "Flag" (1954-55) 公式ページより

ジャスパー・ジョーンズという作家をご存じだろうか。彼は星条旗をモチーフにした絵画を数多く制作しているが、彼の描く星条旗はアメリカの国民が共通して認識する《記号》を芸術作品として画布に置き換えているものだ。これは一見、誰しも想像できる《記号》とその記号が《意味するもの》、シーニュとシニフィアンが都市の中で無条件に増殖していることに対して批判をする。ステレオタイプな見方に対する批判の目は、実は都市、そして都市に生きる僕たちそのものに向けられている。飼いならされた「見方」を強烈に揺さぶるものだ。
都市の中の《記号》によって飼いならされた「見方」は思考を硬直化させ、感情を無表情なものに変えてしまう。

だから僕らは、少なくとも、新しいものを生み出そうとする人は、旅や読書、絵画や音楽、映画、舞台などの芸術鑑賞を通して絶えず自分の世界を拡げていかなくてはならないと思う。
毎日スマホの画面を眺め、他愛のないやり取りを延々と繰り返す間に、あなたの横を過ぎ去った風景は無意味で乾燥したものだっただろうか。実際、この世の中に無意味なものなどなく、全ては緊密に繋がっている。メルロ=ポンティの言葉を借りると、意味は僕らによって「見出される」ものなのだ。
僕がつらつらと書き連ねたこのテクストも、風景に意味を見出し世界を拡げる手続きそのものに他ならない。

MoMA(2日目)、メトロポリタン美術館(3日目)、ホイットニー美術館(5日目)ではジャスパー・ジョーンズの作品に会える。彼の旗の絵は1億ドルほどするので所有するのは困難だが、美術館に行けば日によっては2ドルほどで鑑賞することができる。

アートと建築の街、ニューヨーク。

僕は、また行きたい。

(おわり)

[旅行]補章:「旅行の設計」のすすめ

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今回の5泊7日間のNY旅行では安全かつ貪欲にアートと建築に触れ合うというコンセプトのもと、普段の旅行以上に綿密なスケジュールを組む必要があった。というのも、昨年の夏に行ったシンガポールでは、スケジューリングの甘さからリベスキンドのにょろにょろレジデンス伊東豊雄氏の緑化ビルを見逃すなど苦い経験をしたのと、不穏な国際情勢のなかでの渡米に不安を抱く両親を安心させるという2つの目的があったためだ。そうした背景から今回導入したのは、「与条件を守りつつ可能な限り安全で快適かつ二人が行きたい場所を最も効率よく導き出すマトリクスを用いたプランニング」である。これは敷地や予算、その他与条件からその場に最適な建物を生み出す建築設計のプロセスを応用したもので、いわば「旅行の設計」だ。
・・・というと何だか凄そうだけど、原理は単純で、旅行好きの人なら似たことを既にやってるかもしれない。

ところが旅行誌やネットなんかを見ても、旅行のコース提案や行程作成アプリは数あれど、行程の組み方そのものの提案はほとんどないことに気づいた。
そこで旅の締めくくりの補章として、僕が今回試みた「旅行の設計」なるものを記したい。


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1.「マイマップ」を作成する
Googleが提供する「マイマップ」は仮想のマップ上にピンを立て、保存・共有できるサービスだ。2015年秋に携帯アプリからの閲覧も可能になり、ユーザビリティが飛躍的に向上している。
まずは行ける行けない関わらず、その旅行で行きたい場所全てをプロットする。
水色が僕、黄色が妻、赤がホテル、という風に色分けしている。マップは共有できるので、ボストン在住のきょうこ氏にも事前に確認してもらった。
今回、ホテルはアクセスを何より重視した。こういうものを見つけてくるのは妻の方が長けているので任せた。


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2.「主要なスポット」の開館・閉館時刻をマトリクスにまとめる
大抵の施設はWebページに開館日・開館時間を掲載している。特に今回は年末年始(ホリデーウィーク)に絡む日程だったので、どの施設も変則的だった。行ってから無駄足を踏まないよう、外国語のページでも根気よく調べるのが肝心だ。グルメ好きで絶対に行きたい店なんかがあるなら、その店の開店・閉店時間もマトリクスに組み込もう。


3.与条件を洗い出す
今回の旅行の与条件は以下の通り
行動時間・・・朝食は7時に摂り、18時にはホテルに着いているようにする。(安全のため)
行動範囲・・・危険性が高い場所(人が集まるホールやスラムなど)には極力近寄らない。
交通手段・・・地下鉄メインで行動するが、必要あればタクシーも使う。
同行者の要望・・・2日、3日目はきょうこ氏とMet、ノイエ・ガレリエ、MoMA PS1、Museum of Sexに行きたいという意見を最大限尊重する。

その他、悪天候のときの行き場所の代案、交通手段なども想定しておくとなお良い。


4.マトリクスと与条件から旅行の骨格をプロットする
1で作成したマイマップと2で作成したマトリクスをプリントアウトし、3で洗い出した条件より、成立するパターンを作成する。
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STEP1: まず与条件からメトロポリタン美術館(Met)、ノイエ・ギャラリー(ガレリエ)を考える。この2つは距離が近いので同日にすると、MoMA PS1、Museum of Sex(MoS、マトリクスには非掲載)は自動的に別日となる。開館時間で差があるのは、Metが2日は21時までだが3日は17時半で閉まるため、開館時間に余裕がある2日にMet+ノイエとし、3日にPS1+MoSとする。2日にグッゲンハイムを組むこともできるが、Metのボリュームを考えるとこの2件だけで十分だろうと判断する。
ノイエは開館前から長い列ができると聞いていたので、ノイエ→Metの順とした。

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STEP2: ニューミュージアムが4,5日に開館しているかHPから読み取れなかったので(笑)、3日に組み込む。閉館時間に差がないので、順番は未定。

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STEP3: ホイットニー美術館はハイラインとセットで1日がかりとなり、ハイライン周辺は見たい建築も多いのでグッゲンハイムやMoMAと組み合わせて行くのは難しい。MoMAとグッゲンハイムは近いので、9:30と開館時間が最も早い1日に組むと、ホイットニーは4日となる。
ちなみにホイットニーの1日にある"PWYW"とは"Pay What You Want(好きなだけ払う)"ことを指す。19時から最低2ドル程で入館可能という太っ腹な時間だ。NYには"Pay What You Want"を定めている美術館やギャラリーが多くあるので、節約のためにも調べておくと良いだろう。

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完成。
このように、開館日、立地などの条件を手がかりにスケジュールを組んでいく。
この骨格となる「主要なスポット」は、1日1〜3件程度が望ましい。


5.骨格をもとに肉付けをする
短時間で見られる「サブスポット」を、「主要なスポット」間にプロットしていく。「サブスポット」は特に優先度の高いものから選ぶ。この時点で「主要なスポット」は全て網羅されており、「サブスポット」を取捨選択することにした。また使う駅、路線なども全て計画しスケジュールに書き入れておく。

ワンポイント:スケジューリングは「8割」を目安に
一日の内、8割を計画し、残りをバッファ(空白)とする。こうすれば心理的な余裕も生まれ、アートなどの鑑賞に注力することもでき、予定より時間が余れば別の「サブスポット」を挿入することもできる。また僕らは実質5日間の内、「主要なスポット」を4日間(=8割)で周るよう計画した。フリック・コレクションに行くと決まったのは最終日前夜で、このバッファ(2割)を有効活用した。


6.データを印刷し、保管する
スポットの追加はネット上のマイマップ、プリントアウトしたマップともに書き入れる。スケジュールは紙とデータの両方を持つことで、万一紛失したり端末が破損した場合でも、どちらかを参照することができる。またデータは各社クラウドサービスに保管し、スマホ、タブレット、PCと、どこからでもアクセスできるようにしておくといい。僕はOneDriveを使った。


7.事前にシミュレーションをおこなう
行程を組むことで大体の内容は把握ができるが、当日までに一度は頭の中でシミュレーションをすることをお勧めしたい。「この広場に出たら右に曲がって・・・」というように地図を見ながら一度脳内で場面をイメージすれば、なかなか覚えているものだ。今はGoogleストリートビューで大抵の場所はチェックできるので、不安があれば確認しておくのも良いだろう。ただし小さな店や看板なんかを目印にしておくと、忽然と姿を消していることがあるので注意が必要だ。

完成したスケジュールはこちら。
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例えば3日の日程はこのようになっていた。
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ニューミュージアム、Museum of Sex、MoMA PS1をプロットし、付近の「サブスポット=(エンパイヤステートビル、クーパーユニオン(41 Cooper Square))」などを盛り込んでいたが、昼時点で時間が押してしまったため、クーパーユニオンを次の日(4日)のバッファに回す、ということをしていた。


今回、「開館時間」を手がかりに理詰めでスケジューリングすることで、実に無駄なく、迷うことなく目的地に移動することができた。もともと僕はいきあたりばったりの気ままな旅行も好きだが、今回のように限られた時間の中で効率よく動けば、より多くのものに触れることができ、得られる満足感や達成感も一段と大きくなる。また、やたらと詰め込みすぎて消化不良に陥ったり、ツアーのように団体行動や制限時間を強いられることもなく、たとえ時間が押して目的のものが見られなくても、次の日のバッファに組み込むなどすれば取り戻せる柔軟さがある。

しかし上述の方法は全てをカバーできるわけではなく、スポット同士の距離が遠く分散している史跡ツアーや、毎日宿泊場所が異なるような放浪の旅には不向きだ。「旅行の設計」はニューヨークやパリ、京都など、文化(あるいは、訪れるべき場所)が高密度で集中する都市を限られた時間で周る旅において威力を発揮する。

まずはあなたの行きたい場所をマイマップに落とし込むところから始めてみてはいかがだろうか。


おわり。

[小話]伝説の論文

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この話は僕が見聞きした事実に基づいているが、インターネットという媒体の都合上、論文著者の名は一部改変していることをあらかじめお断りしておく。


僕がその論文のことを知ったのは学位論文執筆中の2011年、当時アルバイトで出入りしていた某設計事務所の社員で、僕の所属していた研究室OBでもあるA氏に論文のことで相談していた時のことだ。
「河西建雄さんって人の論文、知ってる?」
A氏は僕に尋ねた。知らないと答えると、
「僕はあれを読んで衝撃を受けてね。書いてあることはさっぱり意味がわからないんだけど」
と言って先輩は笑った。
A氏は日本でも有数の建築設計事務所の、特に名の通った設計グループに所属する優秀な先輩だ。その彼が衝撃を受けたという論文に、僕は俄然興味が湧いてきた。
少々調べてみると「河西建雄」なる人物はとある大学で教鞭を執る建築家らしいことがわかった。しかし作品の数は少なく、また僕自身も初めて聞く名で、それ以上の情報は得られなかった。

その論文は大学の修士研究室のキャビネットの中に、過去の修了生の論文と共に保管されていた。丁寧に装丁されたその論文を手にとると、背表紙の割にページ数は少なく、タイトルも「建築の自画像」というやけにあっさりしたものだった。そもそも六文字の修士論文のタイトルなど見たことがない。
とりあえずパラパラとめくってみる。内容は、確かにわからない。まるで理解されるのを拒むかのように、抽象的な言葉が脈打っていた。後半は「付録」と称していくつかのモノクロの図版が載せられていたが、「建築の〜」というタイトルに反して、建築の写真や図面等は一切なく、抽象的な線を並べたような作品や、墨で滲んだ人の顔のような絵が並んでいる。
正直に告白すると、当時の僕には過ぎた代物だった。自分の論文を進める都合もあって僕はそれを理解するのを諦め、卒業するまで思い出すことはなかった。

卒業後、僕は建設会社に就職しアカデミックな話題からしばらく離れていたが、SNS上で知り合った年上の藝大生と河西先生の話題になり、ふと、例の論文が頭をよぎった。何でも河西先生の論文は彼の学部時代、ゼミの学生の間でも伝説のように語り継がれ、しかもほとんど誰も目にしたことが無いという。河西先生自身、自らの修士論文の話題を出すことはなく、何かトンデモナイ論文を書いたらしい、という噂だけが独り歩きしていたようだ。その学生には母校に行く機会があったらぜひとも論文をコピーしてきてほしいと頼まれたが、かくいう僕も、当時理解できなかったあの謎多き論文にあらためて触れてみたいという下心がないわけではなかった。

そんな中、僕のゼミの教授が定年を迎え退任することになり、その最終講義のため大学に足を運ぶことになった。講義後の打ち上げの最中、僕はゼミの後輩と会場を抜け出し、彼の手を借りて例のキャビネットからその論文を引っ張り出すことに成功する。

「なんでこんなものをコピーするんですか?」
コピー機から吐き出されていくテキストに何枚か目を通して、その後輩は尋ねた。僕の行為はよっぽど奇矯にみえたのだろう。無理もない。大学に久々に来たOBが、打ち上げそっちのけで一本の不可解な論文をコピーしたいと言うのだから。
「ただの興味だよ」と僕は言った。
「自分の理解の外にあるものは知らなきゃいけないって、最近思うんだよね」
酔いが回った頭で仔細には覚えていないが、そんなことを話したと思う。

僕らはコピーを取り終えると論文をキャビネットに戻し、会場に戻ろうとする途中、研究室の先輩であるTさんに会った。驚いたことに彼はコピーの図版部分をちらっと見るなり、それが河西先生の論文であることを見抜いた。実はゼミには河西先生の元教え子も二人いて、その一人がTさんだった。
「俺もここに来た時、真っ先に河西先生の論文をコピーしたよ。そんな変な図版、一度見たら忘れないよね」
どうやら考えることはみな同じらしい。Tさんが論文の内容を理解できたかどうかは聞きそびれてしまった。
別の先輩は、
「ああ、あの論文ね。あれはすごいよね、よくあんなものが通ったっていう意味で・・・今じゃ通用しないよ」
と言ってニヒルな笑みを浮かべた。どうやらこの論文が学生の間で有名だったというのは間違いではないようだ。初め不審な顔をしていた後輩もこの度重なる証言から興味が湧いてきたらしく、僕も読んでみます、なんて言い出した。この論文の伝説は語り継がれる運命にあるらしい。


そして今、僕の手元にその伝説の論文のコピーがある。書き出しはこうだ。

「われわれの時代の創造は、やっていこうとする焦燥の意志と、やってはならないと言い含められる日常の抑制と、の共存のなかにある」

冒頭文からして既に論文らしからぬ抽象的な文が踊る。章立ては次の通り。

第一章 建築・・・身体、その高さ、その深さ、建築
第二章 自画像・・・荒野、他者、モザイク、自画像
第三章 建築の自画像・・・建築の自画像、制作について
付録・・・作品図版


別のページをめくってみる。

「われわれが疾走すべき地平は、生み出すべくして生まれる真理の生産への道のりではなく、まるでわれわれのそばにすでに控えていたかのような、存在の気配への盲信の道のりでなければならない。すなわち、気配という入口からわれわれはその道のりへ向かい、疾走するのだ。ここそこから、われわれの身体を延長し、ずっとずっと疾走するのである。」

よくよく読んでも指示語の指示内容が判然としないし、第一、接続後の前後が接続していない。この手の文章を世間では「悪文」と呼ぶのかもしれないが、しかしながらそんなものでひとくくりにできない何かがこの文には潜んでいる。文章全体にわたって響き渡る詩的風情、論拠のみえない推量と断定、極度に少ない参考文献と引用、論理の跳躍、そして謎の疾走感。
読み物としては確かに興味深く引き込まれてしまう。が、こと論文としてみるとあまりにも破格だ。そして末尾の図版は、人間の原初に立ち戻ったようなアウトサイダーな雰囲気が漂う。絵の巧拙などとうの昔に捨て去っている。「荒削り」を通り越してもはや「岩石」そのもののようだ。


もしかしたら彼は建築と、それをとりまく言説の虚飾に絶望し、荒涼とした砂漠のなかで仄かな光明に手を伸ばし、掴み取った哲学書から純粋に「モノ」そのものを表象する手立てを、内向きの熱狂の中に見出したのではないだろうか。それは血走った眼を思わせる狂気であり、近づき難いオーラを放つが、しかしそれほどまでに彼を奮い立たせ、疾走するまでに駆り立てたものは何だったのだろうか。

僕らは社会の中で常にうわべを取り繕い、体裁を整え、善良な予定調和に向かうべくエネルギーを傾ける。これと同様に、自らの進路が決まる修士論文では着実な手段を講じて論を着地させたいと思うものだが、彼はそんなものには一切見向きもせず、一世一代の狂言回しを披露する。ここにこの建築家の天賦の才が輝きを放つ。
この静かな狂騒の内に「モノ」を現出させる手立てを見出すというのは、なんて幸福なことなのだろう。

やはり僕には、この論文は手に負えない代物だったのだ。

[旅行][建築][アート]千葉日帰り建築めぐり

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「ホキ美術館に行きたい」

動機はいたってシンプルだ。千葉市には社会人を始めて2年ほど住んでいたが、日々の仕事に忙殺され建築見学もろくにしないまま慌しく去ってしまった。しかしホキだけは見なければ建築に関わる者として恥ずかしい、そんな勝手な思いこみが日増しに強くなり、この間の連休を利用してようやく行くことにした。せっかく遠くに行くならその周辺の建築も見て回りたいというもの。そんなわけで今回も「旅行の設計」をもとに行きたいところをマイマップ上にプロットし、効率よくめぐるルートを組み立てた。同行者のささいさんは初めてお会いする方だったが、パンパンに膨れ上がった建築づくしの旅程にも理解を示し、「私も詰め込んでしまうタチで」と笑っていた。ステキだ。
ささいさんとは朝の8時半に合流し、千葉駅までは電車で向かい、駅前でレンタカーを借りた。
千葉の建築めぐりのはじまりはじまり。


千葉県立美術館 大高正人(1974)
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朝9時から開館している県立美術館は建築家、大高正人による作品だ。大高氏は前川國男に師事し、1960年の世界デザイン会議をきっかけに槇文彦氏、黒川紀章氏らとともにメタボリズムグループを結成する。この美術館は大高氏がかつて中央図書館、文化会館と名作を生み出した千葉市の、湾岸に近い場所に佇んでいた。
外観は前川國男による上野の東京都立美術館に似たレンガタイルのキューブで、複数の展示室がクラスター状に配置されている。そのヴォリューム同士の隙間には休憩コーナーが設けられ、屋外の彫刻を眺めることができる。
各展示室の軸と、45度に振られた休憩コーナーへの軸が一点に交わる小部屋があり、そこに監視員が一人座っていた。監視員は一人で3つの展示室を監視する、いわばパノプティコン的一望監視がここでは意図されている。実用的だがやや息苦しいと感じたのは、僕らが作品を観るより先に「見られている」と意識してしまうからだろう。ここは視線の監獄なのだ。

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この監獄展示室を抜けると、一気に天井が抜け、中央に塔を持つ大屋根の空間が立ち現れる。このドラマティックな吹抜けをもつ展示室は彫刻作品の部屋だが、作品群は特に空間との接点はなく、ただ並べられているだけに見えてしまう。この特異な空間を生かしきれていないが、学芸員側としても扱いづらい空間だと感じているだろう。
外部には出ることができたが、どこか散漫な印象を受けた。
展示内容、建築としても「いわゆる県立美術館」の域を出ないが、何より運営側の意識が変わらなければ作品の質も配置による空間との共鳴も生まれない。一度は訪れても良いが、再訪したいと思えないのが残念だ。


千葉県立中央図書館 大高正人(1968)
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県立美術館がモダニズムとしての大高建築ならば、こちらはメタボリズムとしての大高建築だ。十字で構成されたPC(プレキャストコンクリート)梁のユニットが連続し天井を覆い、十字のPC柱がそれを支えている。PCはいずれも仕上として露出しており、梁の端部は切り落とされたように突き出して止まることで、建築構成の原理を表している。さらにこのPC梁の露出は外部にも連続し、垂木のようにリズミカルにスラブを支えることで内外一体となって空間原理を構成するフレームというエレメントの存在を強調すると同時に、無限に拡がる空間の拡張可能性を予感させる。メタボリズムとは、建築の構造に生命の新陳代謝を重ね合わせ、伸縮自在な空間の拡張と更新の可能性を示した運動だった。

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外観と梁端部のディテール。

だがここで大高氏は終わらない。大高氏はコルビュジエの示した近代建築の原則と、生命の論理を持ち込んだメタボリズムに、更に日本建築の美意識をも掛け合わせ止揚を試みたのではないか、と思った。外部に突き出した型持ち梁は丹下健三の「香川県庁舎」を髣髴とさせ、朱色に塗られた外壁材と深い庇は神社の社殿を匂わせる。更に言うとこのコラージュ的様式の集積を、その次にやってくるポストモダンの萌芽と位置づけることもできるかもしれない。
外部を構成する白と朱とガラスのコンポジションは、内部のコンクリート剥き出しのブルータリティと一見無関係に思わせるが、内外を貫く十字のフレームというエレメントによって逆説的に一貫した構造的思想を際立たせている。どのような内部・外部の要求にあっても、メタボリズムはその外側、つまり要求を包含する大きな枠組みを構成する思想であり、ここではそれを実践をしていると言えそうだ。
しかし、写真の通り圧迫される印象はつきまとった。細部の情報過多のせいかもしれないが、それを受容するだけのリテラシーが自分には備わっていないのだとも思う。図書館という性質上、直接日光を入れることは難しく、薄暗く陰湿な空間になってしまうという理由もある。

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上階は雨漏りやエフロが目立ち、何度も補修した跡が見られた。耐震は・・・と思って調べたら、案の定耐震基準を満たしておらず、5月から休館するとのこと。建て替えは時間の問題かもしれない。見学はお早めに。
県立中央図書館の一時休館のお知らせ


千葉県文化会館 大高正人(1969)
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今日3つ目の大高建築は、先の図書館のすぐ隣に位置する大ホールを持つ建築だ。図書館とほぼ同時期に設計されたにも関わらず、ここで用いられる言語は図書館とは異なり、シンボリックで古典的でさえある。十字の軸上に、二方向のエントランスを配し、その直行方向にホールを構える。十字の交点は床壁石貼りのホワイエで、中心に向かって傾斜した壁が迫り、天窓へと視線を導く。図書館において顕在化した拡張可能性への示唆とはうって変わって、理性的な幾何学への陶酔を謳っている。

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宗教施設と見まがう中央のホワイエ。石種と仕上げを微妙に変えている。

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会議室棟。モダニスト大高正人、ここにあり。

この振れ幅には正直戸惑った。先の図書館と、同じ建築家がほぼ同時期に設計したものに到底思えなかったからだ。同一の人物ならばジキルとハイドのような多重人格者か、どちらもこなすむちゃくちゃ器用な人物だろう。今までよく理解していなかったが、どうやら大高正人という建築家は一筋縄ではいかないらしい。

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シンボリックであるが、どっかりと翼を休めた巨鳥のように落ち着いた佇まいを見せていた。


日本キリスト教団千葉教会 リヒャルト・ゼール(1895)
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こちらの教会はドイツ人技師、ゼールによって120年以上前に建てられた木造の小さな教会で、県の重要文化財に指定されている。解説には木造ゴシックと書かれていたが、どう見ても僕の知っているゴシックとは趣が異なる。
内部の見学は事前連絡が必要とのことで、外観だけ眺めるのみとなった。


千葉大学ゐのはな記念講堂 槇文彦(1963)
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槇氏のごく初期の作品であり、日本においては名古屋大学豊田講堂に続く2作目であるこの講堂は、近年改修によってその姿を一新させた。力強いRCのフレームに槇氏のディテールが冴え渡り、初期作品にして完成されている。なんだこれ。

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雨樋ひとつとっても丹念に設計されている。杉板の型枠跡も効果的で美しい。

中には入れなかったが、氏の大胆な発想と静謐な手つきが伺える良作だ。この頃の槇さんはRC一辺倒のブルータリストでそれもまた良い。


千葉大学新ゐのはな同窓会館 鈴木弘樹(2013)
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ささいさんの紹介で、すぐ近くの同窓会館も面白い建築であることを知った。一見高層に見えるが、薬師寺三重塔のように裳階を廻したようなホールの1階+地下の諸室からなる。多重の庇はガラスボックスの日射を制御し、同時にこの建築をアイコニックなものにしている。白い庇は恐らくウレタン塗装だが、近づいて見るとやはり雨垂れの汚れが目立った。ガラスの清掃時は庇に乗っても大丈夫なのだろうか。

昼食は丸亀製麺でさっと済ませ、僕らは京葉道路を飛ばして次なる建築を目指した。


ホキ美術館 日建設計(2010)
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戸建住宅街の只中に、その美術館はあった。地区計画や斜線制限からか地上レベルは抑えられ、代わりに展示室の半分以上を地下に埋めている。アプローチはゆったりと設えられ建物の中腹部から入るような格好だ。右手にカフェ、左手にミュージアムショップがあり、その奥から展示室が始まる。
内部は撮影禁止とのことだが、数多の雑誌やWebメディアで紹介されているのでそちらを参照されたい。
特に気に入ったのは展示室の照明で、天井に無数の小口径のスポット型LEDが埋め込まれ、複数の光をひとつずつ展示作品に照射していた。昼白色と電球色それぞれをミックスすることで、作品の繊細な色彩表現を可能な限りサポートしている。フジツボのように天井を覆う照明は、集合体恐怖症の方にはキツいかもしれないが、斬新で面白い。
絵画作品は膨大な写実主義絵画のコレクションで、風景画では植物の葉の一本一本、人物画では肌の透明感、衣服の質感、重量まで感じさせるような迫力に満ちていた。スーパーリアリズムは対象そのものを写真のように正確に描きつつ、写真を超える「芸術」となるべく筆を重ねる。対象をどこまでも具体的にカンバスに写し取る手法は、神への祈りとオーバーラップする。描くことは祈ることだ、と日本画家の千住博氏は言った。全くその通りだと、絵画たちを眺めながら思った。

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再び外に出て外観を眺める。コンクリートの外壁をリズミカルに刻む縦のラインは、一見Rがかった型枠の目地に見えるが、ここまでの緩いRならこれほど型枠を刻む必要もなく、意匠的に付加しているようにみえる。

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そして圧巻の30mキャンティレバー。本当に重力を感じさせず、浮いているようだ。この感覚、どこかで・・・と思ったらローマのMAXXI(ザハ)だった。ザハもプカプカ浮いていた。

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職員用駐車場はなんと車路!日建らしからぬざっくりデザイン。

それにしてもお世辞にもアクセスの良い場所にあるとはいえない私設美術館がこれほどまでに賑わっていたのは、コレクションの質もさることながら話題性のある建築が後押ししているように思う。その意味で保木館長の先見性と、設計チームの提案力、ゼネコンの技術力が一体となり、記念碑的作品を生み出したこの事業は、やはり建築に関わる者として見ておくべき作品だった。RCはパタパタ仕上だねとか、東側擁壁沿いの植栽計画ミスったねとか、欠点を挙げようと思えば挙げられなくはないが、それを加味しても余りある「建築の強度」を思い知った。
惜しむらくはこの美術館の周辺に魅力的な施設がまだないことだ。住宅地という立地から建築単体で完結せざるを得ない(風景を見せられない)ため、塀はないが周囲から孤立しているように見える。
ならば逆に美術館を見る施設があっても良いのではないか。ホキ美術館をカッコイイ角度から臨むコーヒーの美味いカフェがあったらなかなか儲かると思う、というか行く。誰か作ってください。


DIC川村記念美術館 海老原一郎(1990)
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DIC(旧大日本インキ化学工業)は建設業者でも塗装色などでなじみの深い企業で、そこが保有する絵画のコレクションを展示する美術館だ。割肌の桜御影石を積んだ西洋の古城のような2つの塔がそびえ、目前に白鳥が優雅に泳ぐ池を臨む。ロケーションは最高と言っていい。

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ひとたび中に足を踏み入れると、2つの塔はシンボリックなホワイエであることに気づく。展示室は数棟の建物が繋がっているような形で、なかなか全容が掴めない。
肝心の作品は、まぁ知らない絵画を探す方が難しいってくらいに有名な作家の作品が丁寧に陳列してある。目玉はレンブラントの「広つば帽を被った男」で、国内に3点のみ存在するレンブラント作とされる絵画のひとつ。他にもモネ、ピカソ、ブラック、シャガール、ボナール、ルノワール、現代美術ではポロック、NYでハマったフランク・ステラ等々、欧米の美術館に匹敵する充実のラインナップだ。海外からの観光客も何組か来ていた。
眩いばかりの作品群に思わず「ここにある作品のいくつか、県立美術館に分けてあげたら良いのに」なんて冗談を言い合った。
時間も限られていたため早足で一周してしまったが、ここは是非また来たい。次来る時は、時間にゆとりを持って回ろう。


旧川崎銀行佐倉支店 矢部又吉(1918)
佐倉市立美術館 坂倉準三(1994)
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旧川崎銀行佐倉支店として矢部又吉の設計により1918年、このレンガ造の建築は完成した。当時からもうすぐ100年が経とうとしているが、100年という短い時間に日本の建築が辿る道のりは諸外国と比べても圧倒的だった。ことに近代化の象徴がレンガ造の建築であり、やや内陸のこの町にとってこの建築が「新しい時代」の象徴であったことは疑いようがない。
元々佐倉藩が築いた城下町として栄えた佐倉は、武家屋敷群が点在し、いくつかは国や県の重要文化財に指定されている。その佐倉に突如現れた近代の象徴は、過ぎ去った時代の象徴として保存され、背後に坂倉準三設計の美術館ビルを抱える伽藍堂となった。

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この空間は佐倉市立美術館のエントランスとして、またアートの展示室として利用されている。近代建築の保存方法は様々に試みられてきたが、こうして当時の状況を再現しつつ、現在でも利用されているというのはかなり幸運な残され方だと思う。

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美術館のアトリウムと接続部分。

美術館の方は入館無料で、多くの子連れ客で賑わっていた。ベビーカーを押したママ友の集団もロビーに腰掛け、四方山話に夢中だった。要は地元のハブ施設なのだ。金沢の21世紀美術館に似て、アートと市民をユルくつなぐ地域に欠かせない快適な空間だった。
ただ僕らはホキ美術館や川村記念美術館の怒涛の作品群に触れたばかりで食傷気味だったので、展示室への入場は遠慮した。


佐倉の街並み
美術館を出ると日は傾きかけていた。時刻は17時を回り、美術館の係員さんも周辺で見られるところはもうないというので、周囲をぶらぶらと散歩した。旧城下町だけあって、至るところに蔵や古い民家が見える。

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店蔵(見世蔵)。平入りと妻入り、漆喰の白黒を巧みに並置した優れた意匠をみせる。

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バルコニーのある蔵。初めて見た。

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店蔵と母屋からなる旧平井家住宅。

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車庫と化した蔵屋敷。近代的な使われ方だ。

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アートのようなトタン葺きの蔵と大谷石造の蔵。大谷石蔵を千葉で見るとは。

少し歩くだけでも建物単体として見ごたえがある蔵がいくつもあった。
しかし街全体には具体的な繋がりが見えず、全体でなかなか「景観」と呼べるものにならない。しかしこれが現代の、等身大の日本の風景なのだ、とも思った。伝建地区に指定され観光客に媚びて虚構の街並みとなるのも、価値が共有されずバラバラと空中分解するのも、どちらも今の日本の姿だ。
この絶望的な状況の突破口はデザインにある、いやデザインにしかない、とも思う。建築家、松島潤平氏の「ノスタルジー・リセッティング」という概念を思い出した。僕らは足を止めていられない。
佐倉に来るなら今度は早めに来ようと誓い、僕らは旅を終えた。

この日一日で千葉の多くの建築を目にした。いずれもその地域や時代を象徴するような建築ばかりで充実した内容になった。ホキ美術館に行くだけでも十分価値はあるが、少し足を伸ばしてその周辺を回ってみるのもぜひお勧めしたい。

おわり

[小話]「ガリガリ君値上げCM」の反響に対する違和感

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SNS上で、とあるCMが話題を呼んでいる。

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ガリガリ君「値上げ篇」(60秒)

なるほど、こんなやり方で値上げを宣言するとは面白い、と思ったが、どうも多くの人は純粋にこの態度について「賞賛」しているようだ。


ガリガリ君値上げに、社員全員で謝罪!誠意がスゴイと大絶賛 −grapee

ガリガリ君、社員総出の「お詫びCM」が大反響 「値上げ」逆手に動画再生10万回超える −J-CASTニュース

25年間踏んばったけれど…「ガリガリ君」が値上げするも絶賛されるワケとは? −Spotlight


こういった反応に対して、なんか違うよな、と思った。

10円の値上げで社員総出でお詫びCMをつくるというのは、ハッキリ言って「過剰」だ。昨今のデフレと原料の価格高騰の煽りを受け、製菓業界では相次いで商品単価の値上げしているが、特別にCMを打って出ることはしない。値上げは消費者にとってマイナス要因だからだ。車のリコールじゃあるまいし。
だが赤城乳業はそれを逆手に取り、たった10円の値上げを、さも深刻な面持ちで伝えるという「過剰」なパフォーマンスによって、消費者に誠意と企業の姿勢を訴えるという手段に出た。
そしてその目論見は見事に奏功し、大きな反響を得る。

しかし、本来なら営業マンでもない企業のトップが、たった10円の値上げに頭を下げる必要はない。
なぜこんなCMを作ったのだろうと考えると、先ほどの「消費者に誠意と企業の姿勢を訴える」という理由の外側、つまりこの「過剰」なパフォーマンスの裏に、同じく「過剰」に反応してしまう昨今の世論に対する痛烈な皮肉が込められているように感じる。

一度問題が起きると、ネットを通じて拡散し、企業の存続、個人の生命に関わるまでに無名の大衆に叩かれ続ける社会体制が築かれている現代。この状況にあって、一見瑣末なこと(10円値上げ)に過剰な対応(社員総出で陳謝)で応えるこのCMは、現代の日本が抱える「過剰反応」という病巣をも射程に入れ、その異常性を浮き彫りにしているかのようだ。

このように言うとシリアスになってしまうが、平たく言えばこのCMは、企業のトップ含め社員一丸となって仕掛けた渾身の「ネタ」なのだ。牧歌的な歌声も、ある種のバカバカしさを強調する。だから僕ら消費者はこの「ネタ」に対し笑い、ツッコみ、そして考えるのが正しい反応といえよう。

だが大衆は純粋に「賞賛」した。今回問題にしているのはここだ。

このCMは「ネタ」として滑稽なまでに慇懃な態度をとった「パフォーマンス」であったはずだ。
それが賞賛すべき態度だと持ち上げられてしまえば、社会はますます息苦しく、企業はますます消費者に抗えなくなってしまう。
もっと極端なことを言えば、「なぜ赤城乳業は10円の値上げで社員全員が頭を下げたのに、アンタのところはしれっと50円も上げてるんだ!頭を下げろ!」なんてキチガイじみたクレーマーも現れるかもしれない。もちろん当の本人はそれが「ネタ」であるなんて気づかない。

サービスの水準が上がれば、より低い水準のサービスにケチがつく。
建設業界で言えば、某業界トップの不動産会社が手がけたマンションの杭が支持層に届いていないことが判明し、沈下の起きていない棟も含め全棟建替をすることになり、以前から同様の問題が起きていた他社のマンションも部分補修から全棟建替とせざるを得なくなった。住民が対応の差に不満を抱いたからだ。


「態度の賞賛」は「態度の強要」になり、やがて緩やかに僕ら自身の首を締め上げていく。


問題が起きれば即刻袋叩きに遭ってしまう不安定な昨今の事情を鑑みると、僕はこういった反応に対して、拭えない違和感と気味の悪さを感じてしまう。

[建築]台東区近代寺院散策 〜 妙経寺・善照寺・松源寺

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週末に散歩がてら台東区にある寺を3つほど回ってきた。寺といっても戦後に建築家の手によって建てられた近代建築で、全てRC造のものだ。
これらは新御徒町駅から徒歩圏内で、穏やかな気候の中、ぶらぶら散歩するにはちょうど良かった。

妙経寺 / 川島甲士 (1959)
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最も駅から近いのは挑発的な鐘楼が目を引く妙経寺だ。設計者は川島甲士。清水建設設計部から逓信省営繕部を経て独立、芝浦工大の助教授を務める傍ら、「津山文化センター」(岡山県津山市, 1965)で一躍名を馳せたモダニズムの建築家だ。「津山」の6年前に竣工したこの日蓮宗の寺院は折板屋根の本堂と納骨堂、鐘楼、住職の住戸が広場を取り囲むように配置され、その奥は墓地と続く。
本堂は?耐火建築であり ?従来の権威がかった様式ではなく、地域の冠婚葬祭のセンターとして開かれた空間であること、という要請に対応するものとして、RCの折板屋根が架けられた。この折板構造は大空間を飛ばせることから50〜60年代にホールを持つ建築に好んで用いられた。川島氏は字義通り「がらんどう(伽藍堂)」をつくったのである。

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有効ブロックの裏にはガラス。欄干の造形も凝っている。

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鐘楼の方は本堂と打って変わって自由奔放だ。目を引く紅の屋根に、突き出す水抜き孔。屋根は2本のダルマ断面をもつ柱で支えられ、その柱を橦木がブチ抜いている。これぞまさにアヴァンギャルド!反骨精神!
この屋根の形状については「外に向かい跳ね上がる外向的上昇指向を表す」とも「インドの水牛をモチーフにした」とも言われているが、サングラスをかけて剃りこみを入れたチョイ悪坊主がロックを流しながら縦ノリで撞いていてもおかしくないくらい、強烈な芳香を放っている。
厳かな所作で式典を執り行う儀礼空間としての本堂と、身を捩り無常の音を鳴り響かせる鐘楼という機能のダイナミックな対比は、「静」と「動」それぞれの身体の挙動に、モダニズムの言語を巧みに対応させている。この対比は空間に緊張状態をもたらす一方で、豊かに茂った植栽が間を取り持ち、印象を柔らかにしている。コンパクトながら存在感のある建築だった。


善照寺 / 白井晟一 (1958)
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通りから入る細い路地の両側は笹が植えられ、その奥に真っ白なシンメトリックな妻壁が覗く。善照寺本堂は、丹下健三と並び称される巨匠、白井晟一の作品の中でも、特に凛とした佇まいをみせている。
この白亜の聖堂ならぬ白亜の寺院は、地面から切り離されて浮き上がり、外周には片持ちの廊下を回している。その浮世離れしたプロポーションをしげしげと眺めていると、この本堂自体が浄土そのものの表象なのではないかという気がしてくる。
白井晟一はドイツの実存主義者ヤスパースの下で哲学を修めた異色の建築家だ。ものの「存在」を問う実存主義を身につけている彼は、もしかしたら「存在しないもの(浄土)」に照準を定め、建物を地上から切り離し非現実を徹底的に作りこむことで、非現実の浄土世界(抽象世界)から逆説的に現実の「生」(具象世界)を照射しようと企図したのではないか。

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この仮定に従えば、物質感・遠近感を喪失した白い壁、極度に薄く跳ね出された廊下の浮遊感、構成と明度差によって御影石が浮遊して見える正面石段の造形にも全て合点がいく。
本願寺の別院である善照寺の宗派である浄土真宗では「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば仏となり極楽浄土へ行くと説く。白井氏はこの浄土世界を西欧的な抽象世界(形而上空間)と読み替え、虚空に浮遊する非現実世界を近代的マテリアルの代表であるコンクリートを用いて再現を試みた。
更に言うと、浮遊する石段は「あの世」と「この世」を掛け渡す橋と見立てることができる。その証拠に、建物の四周には玉砂利が敷き詰めてある。玉砂利は枯山水でも用いられるが、作庭において「川」や「大洋」を表す。ここでは「三途の川」である。
この推論の妥当性は読者諸兄の意見を請いたい。

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廊下を反対側から見る。

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台形のキャンチスラブ。パースが利いて見える。

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中には入れなかったが、ガラス越しに空間がわかる。

つまるところ、この建築は浄土世界の表象であり、アートであり、哲学そのものなのだ。白井晟一に大抵の建築家が追いつけないのは、建築が哲学そのものだからだ、と理解した。


松源寺 / 川島甲士 (1969)
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曹洞宗のこの寺院は寛永6年(1629)にこの地に移されてから400年近くの歴史を持つ古刹だが、本堂は妙経寺と同じく川島甲士によりRC造で設計された耐火建築である。この寺院を特徴づける屋根は緩やかにカーブし、先端でくるんと曲げられて雨樋の代わりとなっている。軒の意匠を合理的にデザインしているようだが、先端はやはり雨垂れの跡が目立ってしまう。
またここは川島氏の葬儀を執り行った寺という。学生時代に建築家の墓について研究していたので、もしかしたら川島氏の墓も変わったものがあるのではないかという密かな期待もあったが、日も暮れてきたのと、その墓地は同型の石塔が整然と並べられている狭小墓地特有のものだったため、余計な詮索はせず帰路に着いた。

この日見た三つの寺社は、伝統を守りつつ革新する「守破離」が顕著にみられた。近・現代の寺社建築は伊東忠太の「築地本願寺」以外ノーマークだったけど、存外面白いかもしれない。


おわり


[小話][建築]ガンダム建築

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「機動戦士ガンダム」を知っているだろうか。
かれこれ30年以上続くアニメーションのシリーズで、内容は知らなくても名前くらいは聞いたことがあると思う。

僕は「ガンダム」が結構好きだ。もっと言えばシリーズ全体、外伝的な小作品、小説や漫画も含めたコンテンツに中学、高校とどっぷり浸かり、プラモデルも相当な数を作るくらいには好きだ。作中では「モビルスーツ」と呼ばれるロボットに人が搭乗して戦うのだが、ハイテクなのにある種の泥臭さも感じる作品世界は現実世界と地続きのようなリアリティがあり、他のロボット系のコンテンツと比べても頭ひとつ抜きんでている。
その「モビルスーツ」の代表格が「ガンダム」であるので、SF風のメカニックなものを「ガンダムみたい」と形容する人も少なからずいる。

表題の<ガンダム建築>といえば、高松伸、若林広幸、阿部仁史、渡辺誠諸氏らの80〜90年代初頭の作品に対し、その傾向を総称して指す場合が多く、特に渡辺誠氏の「青山製図専門学校1号館」は最もガンダムみたいだと一部の好事家には有名である。頂部の宇宙船のようなギャラリーの造形的インパクトは相当なもので、一見すると忘れ難いものがある。ところで<ガンダム建築>とは一体何なのだろうか。

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アドルフ・ロースは「装飾は罪悪だ」と断じ、ルイス・サリヴァンは「形態は機能に従う(Form Follows Function)」と宣言し、近代建築はゴシック、バロック、新古典主義と連綿と続く建築における装飾的意匠を放棄した。
ル・コルビュジエは船や穀物のサイロ、工場といった無装飾で機能主義的な壁面を賛美し、フィリップ・ジョンソンはガラスで四周覆われた透明な記念碑的住宅を作り上げ、ヴァルター・グロピウスによって「国際様式(インターナショナル・スタイル)」と命名された鉄とガラス、コンクリートによる無国籍的な建築が世界を席巻し、都市の風景は一変した。こうして築かれた近代建築の代名詞たるモダニズムは、今日まで影響力を保ち続けている。

これに対し60年代以降に流行するポストモダンは、現代的な材料を駆使しつつ、近代建築の透明で平滑な壁面にギラついた装飾を復活し、近代建築が構築したデカルト的均質空間に対するアンチテーゼとして、視覚的に過激な建築を次々に生み出していった。SF映画に出てくるようなロケットや古代神殿のオーダー、神社の鳥居や西洋建築のキーストーンなど、古今東西のありとあらゆる建築や文化的象徴をシニカルかつフラットに並べ、瞬時に消費していった。ちょうどテレビが世界中の風景をひとつの画面に映し出すように、表層のみを剥ぎ取られたオブジェが文化的脈絡と断絶され、混乱した風景に拍車をかけた。この都市と資本のニーズに迎合しつつ皮肉る不毛ともいえるモードは、バブルの崩壊とともに終焉を迎える。

その後、国内の建築においてポストモダン建築もそれ以外の装飾的な建築も「バブル期に潤沢な資金を投じ、投資目的で狂ったように建てられた奇形のハコモノ」として一括りに批判の対象になり、その文化的意義の有無に関わらず屠られていった。この手の言説はそれまでムーブメントの中心にあった建築界内部からも発せられ、「ポストモダンの旗手」と仰がれた隈研吾氏も、90年代中盤には掌を返したようにこの狂騒から脱出している。

以上が日本のポストモダン建築におけるおおまかな筋書きである。

こうした経緯からポストモダンを「様式」と形容するのはちょっと憚られるが、慣習に倣えば<ガンダム建築>は上述のポストモダン建築に含まれる。

ポストモダン建築の中でも、特にSFのような機械的なモチーフをちりばめたものを、誰かが「ガンダムみたいだ」「ガンダム建築だ」と言い始めた。視覚的類似性に加え、いずれもヒロイック(英雄的)なカッコよさを追求しつつ、より偏執狂的、オタク的ともいえる複雑な表情をつくりだしている。


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「青山製図専門学校1号館」はちょうどバブルの真っ只中、1990年に竣工した。今にもうごめきそうな油圧シリンダー、鮮やかな赤とシルバーの外装、睥睨するコックピットのような開口部、卵形の貯水タンク、突き出した避雷針を兼ねたマストなどなど、見ているだけでお腹いっぱいになりそうな機械的モチーフに満ちている。
この生粋のモダニストからは眉をひそめられそうな外観をもつビルは、建物として、というより一個のキャラクターとして街に棲みついている。
<ガンダム建築>ではないが、浅草にあるフィリップ・スタルクの「ウ○コビル」などと同じく、変なアイコンとして意識に染み付いてしまっている人はそれなりにいるはずだ。

僕はというと、いわゆる正統的な建築の文脈からは外れているが、だからといって隅には置けない「冗談みたいな」面白さを抱えていると思っている。この「冗談みたいな」というのはデザインにおいてなかなかに重要で、例えば広告などは人目を惹くキャッチコピーにジョークを交えることはしばしばあって、中には、打合せ中に冗談を飛ばしてたのがそのまま通ってしまったんだろうなぁと思うようなものも見受けられる。もちろん数ヶ月で消える広告デザインと数十年残ってしまう建築デザインをそもそも同列に扱うのは難しいが、それでも「冗談みたいな」建築は僕らの心に爪を立て、既成概念に揺さぶりをかける。

冗談といってもレベルはさまざまで、ダジャレがコンセプトという根本的なものや、外観の印象からアニメに出てくるガンダムのイメージがそのまま立ち現れたシュールさというのもあれば、外観を構成するパーツにほとんど共通部材がなく、全て3次元データで管理され施工したという実務者からしたら失神しそうな冗談みたいなエピソードなどもある。そんなメタ視点から眺めれば、冗談みたいな<ガンダム建築>の裏に冗談にならないプロの仕事が垣間見え、そのギャップがまたシュールだったりする。
まっすぐに柱と壁を立て、平らな屋根を作ればもちろんそんな困難は少ないが、生みの苦労が少ない建築が人の印象に残ることもまた限りなく少ない。ここで敢えて難題を設定し「冗談みたいな」建築がたち現れる。映画でしか既視感のない金属の塊が眼前に現れることへの驚き、好奇心、そして技術や理想、ひいては人の行為、有機的なダイナミズムに対する感動。これこそが<ガンダム建築>にわれわれの目が奪われてしまう理由ではないだろうか。

* * *

バブル期の<ガンダム建築>は建築内部までヒロイックな原理が働く例はほとんど存在せず、表層に機械的記号を張りつける程度で、建物そのものの外観が貨幣と交換されるべき象徴としてつくられ消費されていた。一部に次世代の兆しが見えたものの、経済状況の変化により未発達なまま放棄せざるを得ず、デッド・テクノロジーとして歴史の暗闇に葬ったのはつい最近のことだ。

海外に目を向けると、年始にNYで見たモーフォシスの「41クーパー・スクエア」(2009)などはテクノロジーを駆使し極めて合理的に作られた<ガンダム建築>だといえるし、コープ・ヒンメルブラウの「リヨン自然史博物館」(2014)なんてのは今にも動き出しそうなダイナミックさがある。アルゴリズムによる自律的デザイン、BIMを初めとした3次元でのデータ管理が徐々に浸透し、3Dテクノロジーによって複雑な形状をもつ建築が海外では次々に実現しつつある現代という時代に、僕なんかものすごくワクワクする。

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"41 Cooper Square" Morphosis (2009) via e-Architect

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"Musée des Confluences" Coop Himmelblau (2014) via ArchDaily


日本で20年ほど前に死に絶えた<ガンダム建築>が再び出現するかに見えたのはザハ・ハディッドのオリンピックスタジアム案だった(あれはキュべレイみたいだった)。
しかし運営の杜撰さやコスト見積の甘さ、各課調整の不手際を運営側が直視せず、「奇抜なデザインのせいでコストが高い」とか「巨大でおぞましく圧迫感がある」とか有象無象の世論の批判をマスメディアが扇動することで論点がすり替わり、結局うやむやなまま計画を頓挫させてしまった。皮肉なことに、<ガンダム建築>をつくることの困難さを痛感する象徴的な出来事になってしまった。

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"Tokyo's New National Stadium" Zaha Hadid (2012) via Zaha Hadid Architects


こうして日本における<ガンダム建築>は再び立ち消えてしてしまったが、いつの日か“Gの鼓動”を感じる<ガンダム建築>が台地に立ち、お台場のガンダムに負けず劣らず人々に驚きを与え、好奇心をくすぐり、末永く愛される、そんな建築が生まれることを夢想しながら、今日も僕は平凡な建築を作っている。


「41クーパー・スクエア」に行ったときの話はこちら。
→ 【ニューヨークの建築、アートめぐり(5日目)

(おわり)

[建築]阿佐ヶ谷書庫に行ったこと

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5月某日、堀部安嗣氏設計による「阿佐ヶ谷書庫」(2013)の内覧会に行ってきた。
今回は外観・内観ともに撮影不可という制約があったが、この建築の詳細は『書庫を建てる 1万冊の本を収める狭小住宅プロジェクト』(松原隆一郎・堀部安嗣,2014,新潮社)につぶさに記録されているので、そちらを参照されたい。



* * *


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Living Design Center OZONE 記事より

交通量のある早稲田通りに面した立地に、ひっそりと佇むグレーの外観を見た時、外苑前にある「塔の家」(東孝光、1966)という名作住宅を思い出した。喧噪の中に立つ、いびつで禁欲的な箱という点で両者は似ていた。

ところが中に入った瞬間、禁欲的だという第一印象は消し飛び、「凄いところに来た」と思った。シリンダーの中にびっしりと並べられた本。そこに螺旋状の階段と通路が巻きついている。視線はまず正面の本棚、そしてヴォイドの上下に注がれ、いやがおうにも圧倒的物量の本と対峙しなければならない。
僕が体験したことのある螺旋状の空間ではNYの「グッゲンハイム美術館」があるが、スケールがまるで違って、書庫の直径は3.6m。ちょうど広めの螺旋階段くらいのスペースしかない。このスケールは敷地と棚割から何度もスタディし決められたそうだ。

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新潮社HPより

地下1階、地上2階+ロフト階の3層の構成ながら、徐々に自分が何階のどこにいるのか、方向感覚を失ってしまう。ウンベルト・エーコが著した『薔薇の名前』に出てくる修道院の禁書図書館や、ホルヘ・L・ボルヘスの『バベルの図書館』、遠藤彰子氏の絵画作品などを思い出した。

開口部は脇に設けられた諸室にあるが、中央の書庫部分にはトップライト以外の採光がない。
このトップライトは乳白で、かつドーム状の頂部は白く塗り込められているため光が拡散し、照明を落とした内部は意外にも明るかった。

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新潮社HPより


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平面図、矩計図

ごく一般的な建築教育を受けた僕からしてみると、ここまで外界を拒絶していいのだろうかとはじめ戸惑ったが、やがてここはあくまで「書庫」であり、人がそこに寝泊まりしているという主体の逆転現象が起きていることに気づいた。
堀部氏はこのプログラムの特殊性に目をつけ、積極的に閉じる選択をした。厚く充填されたコンクリートに囲まれた空間は、玄関扉を閉じるととても静かになる。
またこの空間を孤高の存在へと高めるのに、2階部分に設けられた仏壇が一役買っている。書棚2つ分のスペースに巧みに納められた仏壇は、この書棚のスパンを決定する要因となったそうだ。線香の香りが狭い室内に充満し、一万冊の蔵書に染みこんでいく。

クライアントの松原隆一郎氏は東大で経済学を教える学者で、ここは籠って物書きするのに使うそうだ。
特に興味深かったエピソードとして、松原氏はその時執筆している原稿によって書棚の本の位置を更新していて、それでも探している本が見つからないことはないという。つまりこの書庫は松原氏の頭の中そのものであり、脳内を外在化したものという捉え方ができる。
「身体の外在化」というのは言葉で言うのは簡単だけど、スケール感と符合する例は少ない。その点、直径3.6mの円筒と身体の親和性は高く、僕らには想像しかできないが、松原氏にとってこの書庫が自身の身体そのものなのだろうと思った。


* * *


内覧会は無事終了したけど、僕の中で「阿佐ヶ谷書庫」の何かが引っかかっていた。あの空間を形容するにはまだ言葉が足りない。

しばらくモヤモヤしていたが、突破口を開いたのは同行したスギウラ氏が
「即身仏になるための空間じゃないんだ」
とつぶやいたことだった。

この「即身仏になるための空間」というのは言い得て妙で、仏壇が象徴する宗教性に加え、書物の山の中心に武術と学問を極めた松原氏が座ることで完成する知の立体曼陀羅という宗教的解釈はおおいに成立する。
さらに大地震の際には棚に納められた一万冊の本が一斉に自分に向かってなだれ込んでしまうという運命を背負った劇的な空間でもあるのだ。死ぬわ。

アフリカのある部族は、家族が亡くなるとその家族が使っていたベッドの下に埋葬するという風習があるそうだ。「眠り」と「死」が空間的に結びつき、「家」が時間とともに「墓」になるという象徴的な話だ。

また冒頭に挙げたボルヘスの『バベルの図書館』では、息を引き取った司書は六角形の回廊で囲まれた穴の中に投げ落とされ、無限の落下の中で肉体が朽ち果てるという。

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"The Library of Babel" illustrated by Erik Desmazieres

「阿佐ヶ谷書庫」はこうしたイメージと決して無縁ではない。
ひとたび巨大地震が起きれば1万冊の書物に埋もれ、運が悪ければ地下に設けられた書斎はそのまま墓と化してしまう。ちょうどアフリカの部族の「眠り」が「死」と結びつくように、線香の香り立つこの書庫では「知」と「死」はまさしく表裏一体の構造になっている。

僕が「阿佐ヶ谷書庫」で感じた形容できない感覚、あれは建物が発する濃厚な死の匂いだったのだ。

ほぼ同時期に堀部氏は「竹林寺納骨堂」(2013)という建築をつくりあげているが、そうした経緯とは無関係ではないだろう。
この特殊な条件下で、二重にも三重にも意味を重ね、密度の高い建築として成立させた堀部氏の手腕は、さすがというほか無かった。

見学会は新潮社が企画し、竣工から今のところ毎年実施されている。
この濃密な空間を体験したい方は次の機会に申し込んでみることをお勧めしたい。

[建築]瑠璃光院白蓮華堂に行ったこと

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最近の専らの趣味といえば、建築マップを作成して実際に訪れることだ。
僕が幾人かの友人と作ったマップには、数多の建築家が心血を注いで作り上げた建築が、まるで綺羅星のように光り輝いている。美術作品は美術館に行かなければ目にすることができないが、建築作品は、その多くが外観を見ることが許されており、また中に入ることができる場合も多い。これは歩いて鑑賞できる芸術、会いに行けるアイドルみたいなものだ。
また優れた建築は開かれた芸術作品でありながら、一方で都市と団体や個人を結びつける社会的な意義も担っている。社会と個の狭間で、さらに資本的制約や法令による制限、美学やイデオロギーなど複雑雑多な条件をまとめあげトータルにデザインされた建築は、さまざまな側面からの批評を許容し、歩いて見るだけで脳に心地よい刺激を与えてくれる。
しかしながら僕の場合はその刺激を脳内麻薬のように次から次へと欲してしまう危険な状況であり、執拗に目を光らせて建物を見てしまうというちょっと病的なアレなので、何事も程々が一番だ。

この休日は電化製品と仕事用のシャツなんかを買うために新宿に行くことにした。さっそく例のマップを見ると、南新宿にある寺が目についた。竹山聖氏設計の「瑠璃光院白蓮華堂」。新宿駅から見える大きな看板を目にする度に現物はどこにあるのだろうと思っていたが、マップによると新宿駅南口のすぐ近くにあるらしい。折角なので外観だけでも鑑賞しようと、一駅手前の代々木駅から歩いていくことにした。

新宿マインズタワーの公開空地を抜けると、コンクリートの異様な姿が見えてきた。

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ワイングラス型に下がすぼまった躯体に長円形の開口部がぽっかり空いている。一度見たら忘れない強烈な造形だ。なんでも住職が示した「白蓮華のイメージ」を再現したという外観は、アイコニックで不敵さすら感じさせる。外壁には一切雨樋や設備配管がなく、屋根の雨水も建物内の配管から落として地下のピットに接続するというゼネコンが嫌がる設計になっている。経年で躯体にひびが入ったり、配管が朽ちて漏水や汚れの原因になってしまうため、屋上の配管類を屋内に引き込むのはいわゆる「禁じ手」だ。そのリスクも見込んだ上で、それでも外観を重視し配管を建物内に引き込んでいる。まさに覚悟の意匠。本当によくやるわ。


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三次元曲面の躯体

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狭い前面道路が北にあるため、北側・道路斜線の影響を受け建物はセットバックしている。そのエントランスまでのアプローチには水盤が張られ、小さな橋が架けられている。現世とあの世、蓮と蓮華という宗教的モチーフを駆使し、幅員の狭い前面道路からの斜線制限という敷地からくる形状の制限というリアリティを忘れるような設えとなっている。こうしたところに高いデザインセンスが感じられる。

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敷地の外から写真を撮っていると、入口に掲げられた「ご自由にお入りください」との文字に気がついた。これ幸いとノコノコ中に入ると、受付の女性がにこやかに挨拶をし、建物と納骨堂どちらの見学ですかと聞く。僕は建物の方だと答えると、今度は別の男性が出てきて、建物の案内をしてくれるという。思いがけない丁寧な対応にすっかり心奪われてしまった。
後になって知ったのだけど、1日2回、こうした見学会を催しているらしい。
この日の見学者は韓国人学生のカップルと僕の3人だった。

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外壁に開けられた無数の孔

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矩計図(新建築2014年9月号より)

躯体は「ホワイトコンクリート」という特殊なコンクリートで作られている。このホワイトコンクリートは生コンプラントを借り切って練らなければならず、単価にして一般のコンクリートの10倍にもなるという。余分が出ないよう細心の注意を払って発注をしたそうだ。
また化粧型枠の杉板を手に入れるために、施工を請け負ったゼネコンが杉山をひとつ買い取り、建物の完成時には山に生えていた杉が無くなったという冗談か本当かわからないような話も聞いた。杉板の化粧型枠は再利用ができないため、通常の型枠の数倍の数量が必要になる。「山一つ分」というのは、あながち誇張ではないのかもしれない。
また基本的に躯体のやり直しが利かないため、打設は一発勝負なのだそうだ。よく見ると、空調の吹出口が孕んでいたりもするが、それ以外は極めて綺麗に施工されている。さすがはT中さん。
敷地含めた総事業費は約60億円、土地と建物でほぼ半分ずつという。

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まず5階の如来堂に案内された。ここは阿弥陀如来が安置された部屋なのだが、寺院にしてはなかなか破格で、グランドピアノが置かれコンサートも催されるという。残響音が短くピアノの演奏や歌唱に最適なのだそうだ。
壁にはロンシャン礼拝堂を髣髴とさせる無数の孔が穿たれており、そのまま外観にも表れる。
特に、天井に届くひとつの窓から差し込む光は、春分の日と秋分の日にちょうど如来像に当たるように設計されているのだが、天候の具合もあってまだ一度しかその現象が起きていないそうだ。その光り輝く姿を写真で見せていただいたが、神々しく輝く如来像は確かに迫力があった。

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4階の本堂の内陣は壁一面に金箔が貼られ、右側の壁には莫高窟の壁画を高繊細なプリントで再現したレプリカがあった。この壁画のレプリカは中国から寄贈され、これを納めるために急遽設計変更し折上天井を設えたという。現場の慌しさが伺えるエピソードだ。

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「空ノ間」は如来堂とうって変わって残響時間がとても長いため、バイオリンの演奏なんかに適しているらしい。角の正方形の欠けは排煙窓で、途中から設けられたそうだが、これってスカルパだよね?

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バルコニーにはミニ水琴窟があり、水が周りから落ちると、階段室にカラカラと音色が聞こえるようになっている。

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ロの字型の階段は光の入り方が美しいが、RC打放しの壁面を見るに断熱をしていないのか「夏は死ぬほど暑く、冬は死ぬほど寒い」らしい。階段室から極楽浄土に行けるなんて、なかなかお手軽じゃないか。


3階の法要室を見た後エレベーターで1階に戻り、見学は終了。たっぷり1時間半は見たと思う。専門的な内容や現場の逸話もユーモアたっぷりに語り聞かせてくださった解説員さん、ありがとうございました。

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配置図、断面図(新建築2014年9月号より)

ところでなぜこんな不思議な寺ができたのか。
宗派は浄土真宗で、もともと都心に寺院を作ることが目的だったそうだ。その付帯機能として納骨堂があるが、中心に据えられた機械式納骨堂は日本最大のターミナル駅から歩いて行けるという立地特性から、関東を中心に全国から納骨の依頼が舞い込んでいるという。
僕も学生時代に墓の研究をしていたこともあり、墓地というものに人並以上の関心があるが、墓地は立地次第だとつくづく感じる。郊外の山を切り開いて作られた大規模霊園などは墓参りに行くにも一苦労で、代理墓参サービスなんてものもあるくらいだ。また檀家の減少、無縁墓の増加により、近い将来、遺族に負担を強いる旧態依然とした全国各地の墓地が荒廃し、墓制の存続も危ぶまれている。

いっそ墓など要らぬ、灰をその辺に撒いてくれ!とも思うけど、現在の墓制では墓地以外の埋葬を禁じているため、エアーズロック辺りまで行かないと叶わないのだ。窮屈だな、この国は。
そんな状況を鑑みると、維持管理がきちんとなされ、音楽イベントなんかで人が集まり普段からワイワイガヤガヤとしているところに狭いながらも納骨される方がまだイイな、と思ってしまう。


近代的な都市は死者と生者を隔絶し、死から目を背け、生への眼差しのみに依存してつくられている。東京都内にある小規模な墓地はその周囲に高い塀を設け、内部の様子を窺い知ることができないケースがほとんどだ。
かつて冠婚葬祭の中心に住宅があり、死を迎えるのも住宅だったが、今では約8割の日本人が病院でその生命を終えている。
こうした生と死が断絶した都市空間は、人口の自然減少という大都市が未だ経験したことの無いフェーズに差し掛かったときに、果たしていつまで有効なのだろうか。

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Philippe de Champaigne "Vanitas" (1671)/ Giovanni Martinelli "Memento Mori (Death comes to the dinner table)" (1635)

死と向き合うことは決してネガティブなことではない。古代ローマでは「メメント・モリ」といったが、死を想うことで生を生きる哲学は古くから存在し、日本においては仏教がその役割を担っていた。
「寺はもともと寺子屋に代表されるような、地域に根ざした場所でした。そんな寄り集まれる場所をつくりたいというのが住職の願いでもありました」と解説の方は言った。
ゆえにこの寺は、もちろん死者を弔う場所でもあるが、人々の寄り集まる場所としても意図されている。そのためのコンサート可能なホールであり、見学者にもまた丁寧に対応する。

近代が排除した死を内包しつつ、生きる者と共存する空間をつくる。そんな未来の建築の姿を、たまたま訪れた新宿の街中の、異形の寺で感じた。

死者とともに生きる未来は、案外すぐ近くにあるかもしれない。

おわり

[建築][小話]建築における「コンセプト」と「現実問題」について

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昨晩、とある学生から下記のメッセージをいただいた。



初めまして。
私はある大学の学部1年の者です。
突然失礼ですが、どうしても気になることがあるので質問させて下さい。
私は三分一博志さんの建築に対する考え方(動く素材[太陽、水、風など]を発見し、調査し、研究し最終的に建築の中に落とし込む)がとても好きで、自分もこういう思想を元に建築をつくっていきたいなと思っていました。しかし、実際に三分一さんの作品である六甲枝垂れを訪れてみて現地の人に話を聞くと、六甲枝垂れは六甲山の頂上にあり周りの湿度が高い上に建物の外部からの風や水を建物の内部に取り込んでいるため、建物内の湿度が高くなり、さらに夏の室温を下げるために冬にできる氷を貯蔵するための氷室を設置しているため、湿度が常に80%以上になり、室内にカビが生え、困っているとおっしゃられていました。その他にも困っている部分がいくつかあると聞いたのですが、これを聞いて、自分の中で理想の建築と現実の建築とのギャップに対する疑問が生じ、とても迷っています。
(中略)
具体的に言うと、三分一氏に限らず、多くの建築家の方々が各々の思想を建築に取り入れ、各々の思い描いた建物をつくろうとするわけですが、それに対して実際に建物を使用したり、管理する側の人間からすると後に予期しない事態などが起こり、その事態に対応しなければならないという現実があるという点に関して、それでも建築家はコンセプチュアルな建築を続けていくべきか否かということです。





学部1年生というが、僕が1年生の時分にはもっとエゴイズムに溢れ、もっと単純に空間の在り方などといった絵空事について考えていたのだが、この質問を投げかけた彼は建築雑誌を飾る煌びやかな世界と現実とのギャップに直面し、その葛藤を吐露する。まだ恐らく10代の学生の極めて真摯な問いであり、またこの世界に属する誰もが一度は目の当たりにするテーゼでもある。
この無垢な質問に感心しつつ、なぜ僕なんかに質問するのだろうと当惑しつつ(笑) この場にて僕なりの意見を述べさせていただきたい。


まず「コンセプチュアルな建築」と「現実の問題」が彼の中では二項対立として存在し、彼はそのせめぎ合いの中で葛藤しているように見受けられるが、まず大前提としてこれらは対立項ではない。

ものを生み出すときに「コンセプト」は欠かせない。
経験的にいうとデザインは

 1)コンセプトをつくる
 2)与条件を洗い出し、整理する、紐解く
 3)形を生み出す

という3つの段階を経る。
これは全てのデザインにおいても言えることであり、逆にこれを逸脱したものはデザインと呼びづらい。こう言うとちょっと難しく感じるかもしれないけど、例えば 1)なら、どんな瑣末な事柄でもコンセプトになりうる。例えば「極力お金をかけず収納箱をつくる」「20代男性の嗜好に合うエッジの利いた誌面をつくる」「○○+衣服」これらも立派なデザインのコンセプトだ。

彼の言う「コンセプチュアルな建築」とは恐らく、1)のコンセプトが特に際立ち、現実の問題に対する解決はややおざなりになっているものを指しているのだと思う。

ローマの建築家ウィトルウィウスは建築の三要素を「用・強・美」と定めた。多少の解釈の違いはあれど、基本的にこの3つは時代を超えて通用する原則だ。即ち「用途、利便性、快適性」「構造的強度、堅牢さ」「美しさ、心地よさ」などと言いかえることができる。

彼の前半の話によれば、三分一氏の作った建築「六甲枝垂れ」がカビを始めとした諸問題を抱え、美しく明快ながらも管理者にとっては不都合な建物となっているらしいが、このカビ、そして恐らく結露は、当然ながら建築の寿命を縮める。言い換えれば「用・強・美」の「用(利便性)・強(強度)」が満足されていない状態だ。

極論を言えば、そんな現実問題を直視していないものは建築ともデザインとも呼べない!粗悪品だ!と声高に叫ぶこともできるが、それはデザインに対してあまりにも保守的な姿勢である。要はつまんねーヤツになってしまう。

本当に問題が起こると予想された場合、例えば誘発目地を入れなかったので外壁タイルにクラックが入ったとか、脳天シールが切れたので漏水したとか、ディテールで解決できたであろう努力を怠り瑕疵を引き起こしてしまったのなら設計者に問題があるが、現実には全ての問題を予測し事前に解決できる技術者の方がむしろ少ない。
それでも多くの若手建築家は、技術不足はあれど作りたいもののビジョンを明確に保持し、建築界に一石を投ずるべく巨視的・微視的な努力を重ねる。いつの時代もこうしたトライアンドエラーを繰り返し、技術は向上する。名建築に漏水の話はつきものだという笑い話もあるが、まさしく前例のないデザインに直面したとき、あらゆる手段を講じて問題の洗い出しをおこない、解決に導くべく努力し、それでも問題が起きてしまったら問題に対して真摯に立ち向かう、それが技術者の態度としてふさわしいものではないだろうか。

僕は「コンセプチュアルな建築」から発想しつつ「現実の問題」を解決するべく残りの想像力を動員し実現に向け努力すること、それが建築家及び設計者にとって必要な職能だと思っている。
諸条件・諸問題のインテグレーションの先に、本当のデザインの地平が広がっている。
決して「どちらか取ったら、どちらかを捨てなければならない」といった安易な二項対立に陥ってはならない。


こんなところでしょうか。

[建築][小話]すっぴん風メイクと建築

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XBRAND掲載「美的」記事より

「すっぴん風メイク」や「無造作ヘア」などといった言葉を耳にしたことがあるだろうか。これらは僕ら人間のインターフェイスである顔や頭髪において、女性の厚めの化粧や、男性の整えた髪型に対するカウンターに位置するファッション用語である。
これらは往々にして「自然」や「無造作」をテーマに謳っているが、本当に「無造作」なのではなく、周到に準備された下地の上に成立するテクニックであることはよく知られている。
つまり「すっぴん風」であって「すっぴん」ではなく、「無造作ヘア」であって「ボサボサ」ではない。
その線引きは「一手間加えて洗練させる」といった手続きを経なければ到達し得ない意匠(デザイン)にあるといえるだろう。

建築でも「無造作」「無作為」を目指すデザインは数多くあるが、巧妙にデザインされている例は残念ながらそう多くない。

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配管が露出した天井の例

卑近な例でいえば、既存の天井を取り払い配管や配線を露出させる手法は、手軽に天井高さを高く見せ、かつ均質な石膏ボードの天井面を荒々しく表情豊かな天井へと変化させる視覚的効果があり、現代においてカフェやアパレルショップ、カジュアルなオフィスなど至るところで見受けられる。近代建築において隠蔽されるべき建築設備が露出するこのドラスティックな意匠は、反面、うまく処理しなければとても見れたものではない。
(ちなみにこの手法は配管類を塗装しなければならないためコストがかさみ、清掃の手間や空調負荷が増大するなどのデメリットも多い)

また雑居ビル内の居酒屋やカフェの内装で躯体のコンクリートをわざと露出させている場合もよく見かけるが、目に見えてわかるぼこぼこしたジャンカや1?以上ありそうなクラックが平然と存置されたりして、建築屋としては「オイオイマジかよ」と思うことも多々ある。

「すっぴん」と「すっぴん風メイク」、「ボサボサ」と「無造作ヘア」という対立は、〈ありのままの状態〉と、前述の通り〈「一手間加えて洗練させる」ことで獲得されるもの〉という対立概念に還元される。
建築の意匠も同様に、一見すると素朴で荒々しい素材の構成を見せる場合でも、野暮に見せないようにつくるには入念に計画を練り、ディテールを詰める(=一手間加える)以外に術はない。

ここで、均質な素材で臓器を隠蔽するモダニズムと相反する「隠蔽しない」意匠であっても、モダニズムと同じ経路を辿らなければ到達できない領域にあるという逆説的現象が起きている点も見逃せないだろう。

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「ラムネ温泉」藤森照信(2005)

例えば藤森照信氏のつくる建築はモダニズムとは遠くかけ離れて素朴で荒々しく、時にゆるふわ系で「カワイイ」と取られるかもしれないが、コンセントや照明器具、感知器、消火設備、防火設備をどう処理していたかと思いあぐねても思い出せず、その巧妙な隠蔽方法に思わず唸ってしまう。
モダニズムの厳格な表情と真逆の弛緩しきった表情を見せながら、メカニカルな部分は周到に隠蔽する、
言わば「すっぴん風メイク」的建築なのだ。女子力が高い。

モダニズム以降、建築の「お化粧」に対する批判はあって、仕上にタイルや壁紙を貼ったり、木目シートを使用するのは本質的なことではない、偽装だとする向きは少なからずある。
その彼らがしばしば賛美する安藤氏の建築などはコンクリート自身による「お化粧」の極地であり、石やタイルで仕上げるよりコスト的にも高くつくのだから実情はねじれている。
結局のところ、現代的な材料で、レディメイドのカタログから物を組み合わせて作る以外方法が限りなくない現代建築の事情を鑑みれば、「お化粧」と折り合いをつけて親和性を高めていくのが現実的なところだろう。

僕は彼らを非難するつもりもないけど、デザインに関わる以上、時代がどちらに振れても「すっぴん」ではなく「すっぴん風メイク」を、野暮より洗練を、心掛けていきたいなぁと思うのです。

[アート][小話]ラブドールと写真家 ―「LOVE DOLL × SHINOYAMA KISHIN」展トークイベント レポート

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出典:WWD


手渡された名刺には「芸術家」でも「アーティスト」でもなく、「写真家」という肩書きが控えめに書かれていた。

「激写」という言葉を生み出し、時代とともに先端を走り続ける篠山紀信氏は、週刊誌のグラビアをはじめ「写真」を媒体に多岐に亘る被写体を撮り続け、活動開始から半世紀経った今でも現役というモンスター写真家だ。
ごく最近にも原美術館で開催された「快楽の館」展(2017)では、ヌードの女性を原美術館の室内外で撮影し、等身大のサイズで同じ場所に配置するという手法で現実と虚構が混濁したセンセーショナルな作品を披露した。

その篠山氏が今度は「ラブドール」を撮影するという。
果たしてどんなアプローチで撮影に挑むのか。被写体に多くを依存する「写真」というメディアを通して、写真家は何を訴えるのか。

2017年4月30日、写真展の会場である渋谷の「アツコバルー」で、美術史家の山下裕二氏との対談があるとTwitterで知った。
早速、学習院大博士課程で身体表象文化学を研究している友人の関根麻理恵さんと、同じく友人で東京藝大でラブドールを用いた修了制作で数々のニュースメディアの注目を集めた菅実花さんと連れ立って、対談に臨むことにした。


「僕はラブドールを撮るの、初めてなんですよ」
こう篠山氏は切り出した。
撮影のために人間の代わりに人形を使ったことは幾度となくあり、また作品としての人形を撮ったこともあったが、以前に撮影した四谷シモン氏の人形とラブドールとの違いについて、前者が「アート」として完成されているのに対し、後者は純粋な「工業製品」であることに興味を覚えたのだという。
ラブドールは鑑賞のための「芸術品」である以前に、男性との性交渉という“機能”を果たすために、極限まで人間に擬態した「工業製品」である。それを篠山氏は「近未来的な写真を撮るのに都合がいい」と評価する。
「『写真』って『真』を『写』すって書くでしょ?だからみんな字の通りに受け取って『写真は真実を写すものだ』と思っちゃう。違うんですよ、写真なんて全部ウソ、ウソつきなんです。で、今回撮ったラブドールもウソでしょ?ところがね、ウソ×ウソ=真実だったりするんですよ」
自身も落語を嗜む篠山氏は軽妙に切り込んでいく。
「それで、あたかも人間に当てるような光や、細やかな仕草を真似させて撮ると、一瞬だけ奇跡のような瞬間がある。そこを逃さず撮るんです」

撮影にまつわる裏話、職質を受けたときの警察との駆け引き、他の現代アーティスト批評なども交えつつざっくばらんに語る篠山氏は、親しみやすさと鋭利な頭脳を併せ持ち、聴衆はその軽妙な語り口と時折垣間見せるプロの眼差しに徐々に呑まれていった。

山下氏から写真と現代美術の関係について尋ねられた篠山氏は「写真を現代美術としてやってしまうとつまらない」と返す。週刊誌の仕事を数多くこなす中で、「写真は生々しさこそが面白い」という結論に達する。これが、あくまで「芸術家」ではなく「写真家」として活動する篠山氏のスタンスだ。


この企画を発案した山下氏は、写真家の人選について「ド真ん中直球でいきたかった」と語る。数々の女優、素人の肖像を世に送り出し、常に時代の先端にいた篠山氏以外に適任が思いつかなかったそうだ。
「この作品集に寄稿するために人を象ったものの歴史について振り返ってみたんですが、縄文時代の土偶、弥生時代の埴輪、その後の仏像ときて、そこから運慶を除いて、ある程度類型化されてしまうんですね。完全に人の形をしたものを作ること自体、タブーだったんじゃないかと考えるようになったんです」

人の形をしたものに心が宿る。そう考える民族は必ずしも日本人だけではない。世界各地で人の形をしたものにまつわる逸話があり、信仰が存在する。
その禁忌の対象を撮ることについて山下氏は「薄皮を剥いでいくエロス」と形容する。
“禁忌の中にエロスは存在する”とバタイユは言ったが、ラブドールは「人に限りなく近いモノ」であると同時に「性的消費のために作られたモノ」であり、メタレベルで禁忌の感情を誘発する。華奢な体型を有し、現代人好みの顔を研究して作られたこの罪深き創造物は、あまりに美しく、そして官能的だ。


「digi+KISHIN」の映像作品が上映されている展示室の壁には、バラバラになったラブドール達の写真がある。これまで人間を模倣し、愛情の眼差しをもって撮られていた被写体の変わり果てた姿によって、今まで見せられていたものが一転、虚構だと気づかされる。
「最期はこの手でバラバラにしてやろうと思った」と篠山氏は笑う。「撮れば撮るほど、ドールって美しいんですよ。そのうち俺達はこいつらに支配されてしまうんじゃないかって思えてきて、それなら先にバラしてしまおうと(笑)」
これらの精巧なラブドールを製作するオリエント工業には、AI搭載のオファーが絶たないのだという。菅さんから聞いたのだが、既にAIを搭載したドールも存在するそうだ。

まるでSF映画のような出来事が、僕らのすぐ背後に迫っている。これらドールの写真がひたすらに耽美で、同時に胸騒ぎを覚えるのは、篠山氏のファインダー越しに「ウソ×ウソ=真実」が見え隠れしているからではないだろうか。

洗練されたドールが現代人の欲望を映し出す。たとえ虚構と知りつつも人々はそれを求め、やがて現実を凌駕し、より理想的な「ヒト」へと近づいていく。そのずっと後方で、人間は自分たちの模造品の華やかな躍進を眺めることになるかもしれない。

篠山氏の写真は、いつまでも「ウソ」だと笑っていられない近未来の予言を内包する。
ルブタンのハイヒールを履いた彼女たちは、その澄んだ瞳で静かに僕らに問いかけている。

『篠山紀信 写真展 - LOVE DOLL×SHINOYAMA KISHIN-』
 日時:2017年4月29日(土)〜 5月14日(日)
    14:00〜21:00(日、月曜は11:00〜18:00)
 場所:渋谷 アツコバルー arts drinks talk
 URL :http://l-amusee.com/atsukobarouh/schedule/2017/0429_4198.php

[小話]墓とインスタ 変容する死との距離感

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九相観図(部分, 道源宗一和尚筆)とインスタ納骨


「#納骨」といういささかパンチの効いたハッシュタグがつけられ墓前で笑顔を向ける若い女性の写真と、それを揶揄するコメントが僕のTLに流れてきた。
その投稿には納骨という一般的に公にすべきでないとされる儀式をSNSに投稿することに対し、不謹慎であるとの批判的な意見が寄せられていた。
卒論で墓の研究をおこない、卒制で池袋に巨大な墓地を計画し、一人で、あるいは女性とのデートにおいてすら墓地を歩いてきた僕にとって、その光景は極めて現代的な葬送の形だと感心したのだが、ここにおいては意見が分かれるところではあると思う。
ところでなぜ墓は禁忌の対象なのだろうか。

「墓」の語源には、亡骸を置いておく「放り場(はかりば)」からきているという説がある。近代以前の日本において、大名や豪族、僧侶といった特権階級の人々の亡骸は丁寧に埋葬され、塚や塔が築かれたが、それ以外の庶民の亡骸は往々にして野山に棄てられていた。遺体は腐敗し、ハエや蛆がたかり、野犬に食いちぎられやがて土に還る。その目を覆いたくなる情景は死への畏怖の念を喚起し、極楽浄土へ誘われんがために死後の世界を解く宗教に人々が執心したのは想像に難くない。また衛生的にも決して良好とはいえない「放り場」は、人々に「穢れた場所」という意識を植え付けた。それが近代以前の日本の墓であった。
江戸時代以降、庶民も石塔を建て埋葬する文化が広がり、また戦後には埋葬空間の容積を圧縮させるために火葬が普及した。昭和40年頃までは70%が土葬だったというくらい、意外にも現代の埋葬形態は歴史が浅いのである。
そして近年、過去に紹介した「瑠璃光院白蓮華堂」など都心のビルディングタイプのハイテク納骨堂も徐々に浸透している。まるでマンションやホテルのような内装、サービスで、在りし日の「放り場」の面影は微塵も感じさせない瀟洒な建造物が次々に生まれている。
瑠璃光院白蓮華堂に行ったこと - 建築・アート・デザインをめぐる小さな冒険

こうして近代墓の変遷を俯瞰してみると、墓というコンテンツは視覚的・衛生的な「穢れ」から脱却し、死との距離感に変容をもたらしていることがわかる。
モノとしての墓には、生理的・精神的な恐怖を呼び起こす穢れの場から、アイコニックな石塔建立の時代を経て、より衛生的で視覚的安心感をもたらす演出装置としての納骨堂、といった大きな変遷がみてとれる。この変遷とともに、死と対峙する距離感が変容するのも、またごく自然なことなのだ。

一方で、地域ぐるみで冠婚葬祭を執り行った地域共同体は、核家族化と単身世帯の増加、郊外から都市への若年層の流出という人口の自然減、社会減により瀕死の状態にある。テレビでは老人の孤独死問題が取り上げられ、国家は地域共同体の崩壊について喫緊の対策を迫られている。その地域共同体のオルタナティブとして、SNSが新たな社会的ネットワーク、いわば〈仮想的共同体〉として機能していることは、もはや疑いようがない。
納骨をインスタに上げた彼女もまた、地域共同体の崩壊した現代において、SNS上の〈仮想的共同体〉に自身の父親の死の記号を刻むことで、〈仮想的共同体〉における安息と他者からの承認を得ようと試みた現代人の一人である。それは情報化に伴い、オルタナティブとしての共同体が外在化された現代という時代を象徴している。

彼女の行為を「不謹慎だ」と非難することは容易い。しかし、日本人は死者を割と都合よく解釈してきた節があることを認めなければならない。柳田國男が紹介した両墓制や、盆彼岸の習俗の類は顕著なもので、手を合わせた先に祖霊がいると信じることは全くもって論理的ではないがごく一般的に信じられており、流行り廃りはあれど根底には「祖先・家族を大切にする」という儒教の「祖霊信仰」が姿を変えつつ流れている。大切な人との大切な瞬間を留めるインスタグラムに投稿することが彼女にとっての「祖霊信仰」ならば、それは安易に否定されるべきものではないのではないだろうか。

仮に僕が彼女の父親ならば、咎めるどころか「死後も一緒に写真を撮ってくれるなんて本当にエエ子や・・・」とウッカリ思ってしまうかもしれない(笑)


[建築][小話]ボーヴェ大聖堂

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―その瓦礫が表しているものは絶望ではない。大聖堂において苦痛は、ただ解放と再生を謳いあげるテ・デウムへの悲痛な期待のなかにだけ存在する。― ジョルジュ・バタイユ*1



パリから北におよそ77km、ボーヴェという人口5万人程度の小さな街に、世界中のあらゆるキリスト教建築のなかでも、ひときわ巨大なカテドラルが存在する。
「サン・ピエール大聖堂」、通称"ボーヴェ大聖堂"と呼ばれるこのカテドラルは、パリを代表するノートルダム、アミアン、ランス、シャルトルらを凌ぐ48mの天井高をもつ、完成時は世界最高の高さを誇る大聖堂だった。
おおよそ一般的なカテドラルの平面はイエスの磔刑の姿を模したとされる十字形の平面を有するが、ボーヴェ大聖堂は内陣と袖廊、及びその交差部のみで構成されたT字形である。この形状に至った背景には、身廊が完成後に崩壊し、現在に至るまで修復がなされていないという特殊な事情がある。いわば「未完の大聖堂」なのだ。

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ボーヴェ大聖堂 平面図、断面図


ボーヴェ大聖堂の建造は13世紀に遡る。中世のカトリックの大聖堂は、周囲より圧倒的に高く、天に届かんとする尖塔/身廊を造ることが至上命題であった。
ゴシックの教会は石を高く積み上げるために、壁のはらみ出しを抑えるべく外側に控え壁を設ける。これが「フライング・バットレス」と呼ばれる構造部材で、このフライング・バットレスのアーチが連続する外観が、ゴシック建築特有のゴツゴツした印象を形成している。
ボーヴェ大聖堂もその例に漏れず、二重のフライング・バットレスによって高い天井を実現させるも、1284年に大規模な屋根の崩落にあい、一時は建設がストップしてしまう。
工事が再開したのは実に3世紀後のことで、1569年、ようやく高さ157mの巨大な尖塔が完成を迎える。
しかし、完成後わずか4年で尖塔と身廊が倒壊。その後、宗教施設として使用するのに必要な袖廊と内陣部分のみが再建されたが、資金難や社会情勢の変化から巨大なカテドラルを建造する意義が失われ、現在の姿のまま工事が中断されてしまった。

ボーヴェ大聖堂はその巨大さに対する構造設計の脆弱さから、しばしば失敗作のレッテルを貼られてしまう。確かに柱を太くし、より堅固で断面の大きなバットレスで支えていたら、崩壊は免れ、フランス一高く巨大なカテドラルとしての名声を恣にしていたかもしれない。
だが、現実にボーヴェ大聖堂は自らの自重を支えきれずに崩れてしまった。都市の威信をかけた建築が、バベルの塔の如き愚行の象徴となり、石造建築の限界を示す教訓として語られるようになってしまった。
長い年月をかけて積み上げられ、世界最高と謳われたであろう芸術品が一瞬にして瓦礫の山と化したこの出来事について、当時の人々の無念を推し量るのは困難なことではない。

僕はこのボーヴェ大聖堂の、4年間のみこの地球上に存在した幻の姿に想いを馳せる。身廊や尖塔が失われ、補強のための鉄骨に縛られているにも関わらず、なお孤独な気高さを感じさせる佇まいはその空想を受け止めるのに十分すぎるくらい大きな器だ。その空虚の部分、存在しない身廊は、逆説的に、空虚であるからこそ饒舌に物語る。その身廊に、尖塔に、空想の中の僕は眺め、いとおしむ。時に身を屈めて覗き込み、大きく仰ぎ、そしてふわりと宙に浮き、ステンドグラスから降り注ぐ光の媒質で満たされた空間を自在に泳ぐ。複雑なフライング・バットレスの隙間から差し込む光は虹色に変化し、石工が丹精込めて磨き上げた大理石の肌を、大小様々な彫刻で飾り立てられた細長い身廊を、複雑な陰影のままに染め上げていく。いつまでもこのエーテルの海に漂っていたいと願うのは、永遠に喪われてしまった光と翳への渇望だろうか。
キリスト教文化はカテドラルの崇高な空間を生み出したが、崇高な空間はまた人々の理性と情熱が生み出したものであることを何度でも思い出そう。かつてバタイユがランス大聖堂に捧げたテクストに漲る熱気のように。

ボーヴェ大聖堂は未だ完成しないまま周囲から屹立して佇むがゆえに、人々の好奇心と想像力を無限に掻き立てる。空虚の身廊に、名も無き石工の、ガラス工の生き生きとした姿が浮かんでは消えてゆく。空虚には空想を潜り込ませる余白がある。

ボーヴェ大聖堂は、不完全であるが故の美を皮肉にも体現してしまったのだ。

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*1:ジョルジュ・バタイユ(酒井健 訳)『ランスの大聖堂』(ちくま学芸文庫,2005)p21

[建築][旅行]金沢建築弾丸ツアー(1日目)

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「建築を見に行く」という行為は、著名な古刹・城郭・洋館でもない限り、建築の業界に携わる者でなければなかなか理解し難い行動かもしれない。いや、この業界にいても理解を示さない人は一定の割合で存在し、ましてや絨毯爆撃のように片っ端から目とカメラに収めていく人は中でも少数派だろう。僕にとって「建築を見に行く」ことは、先人に習うものづくりの基本的なスタンスである「観察する」こと以上に、アドレナリンが分泌するスポーツのような、あるいは知的なゲームに身を投じる静かな狂騒が存在する。このブログのタイトルのように建築をめぐるスリリングな冒険は、一度味わったら抜け出せない妙味がある。

2017年9月23日、24日は一人で金沢を旅することにした。
休日の多くの時間を勉強に割くような無味乾燥とした生活のなかで、この2日間の小旅行はいたく心待ちにしていたものだった。中でも特に見たかったのは谷口吉生氏が手がけた「鈴木大拙館」で、過去に訪れたNYの「MoMA」や愛知の「豊田市美術館」、広島の「中工場」では空間の作り込み方やシャープなディテールにシビれたものだが、金沢の「大拙館」はこれらに比べると極めて小規模で、写真を見ても全容が掴めなかった。この手の建築を理解するためには、空間に身を置き自分の目で確認する他ないことは明白だった。

例のごとく「旅行の設計」を利用して予定を組み立てていく。今回は1日目に車、2日目に徒歩と移動手段を分けて計画した。もともと加賀藩の城下町である金沢市街はコンパクトで高密度な街区を形成しており、美術館や記念館など見るべき施設が徒歩圏内に集中している。こうして2日間で回ることができる限界まで予定を詰めこんだ結果、金曜と日曜の夜に夜行バスで往復するという貧乏学生の旅行みたいな計画になってしまった。なんてこった。


「金沢駅前広場・鼓門」白江龍三+トデック他(2005)
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身体のスケールからかけ離れた巨大なガラス屋根を頂く広場と、それを支承するねじれた木の門。格天井や鼓といった伝統的意匠を取り込んだポストモダン的な構造物で、アメリカのTravel & Leisure(トラベルアンドレジャー)が「世界で最も美しい駅14選」に金沢駅を選んだことで話題になった。

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トラスとその端部の納め方。設計者の癖が滲み出す執拗なディテール。

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西口には社会主義国のそれを髣髴とさせるモニュメントが。意図は一見してわからなかったため調べてみると「カナザワ」という片仮名と能登半島の形状を模しているのだとか。わかるかって。

確かに写真栄えはするが、実物を見ても大味で洗練されているとは到底言い難く、中国や新興国で支持されそうなデザインに思えた。金沢は伝統工芸が盛んな街でもあるから、よりナイーブな「和」に舵を切った方が似合っていると思う。だが昨今のJR地方駅舎の没個性的なガラスと金属パネルの箱、という惨状に比べれば、地域性を歪ませつつも取り込み、独自のデザインへと昇華させているという点は評価したい。


「谷口吉郎墓?」
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谷口吉生氏の父、谷口吉郎氏の墓が市内某所にあることと聞き、ライフワークである墓の実測に向かった。そこの管理者に事前に聞いた場所に建っていた墓石は2塔あったが、どちらも故人の名が刻まれておらず、吉郎氏のものであるという決定的な証拠がなかった。自邸を設計し、「墓士」の異名をもつほど多くの墓の設計をおこなってきた谷口氏が自らの「最期の家」を設計しなかったというのがどうも腑に落ちず、写真を数枚撮ったものの結局実測するには至らなかった。こちらは引続き調査する。


「金沢ビーンズ」迫慶一郎/SAKO建築設計工社+大和ハウス工業(2007)
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中国に本拠地を構え大型の案件をこなす建築家が設計した書店。ロードサイドの店舗としては最大の蔵書数を誇るという。竣工当初は白色のLEDが白色の床と壁を照らすような手術室のような空間だったが、不評だったのか、現在は一部が電球色のものに変えられて温かみのある店内になっていた。

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本棚で埋められた緩やかな曲面を描く壁面の随所に、立ち読みを促す「立ち読み台」が設けられている。書店で立ち読みを促すというのは、プログラムからして斬新だったが、利用している状況には出会えなかった。薄いガラスは冬季には結露するのだろう、取合っている面材が水を吸ってボロボロになっていた。ハッキリ言って、なんて素人くさい納まりなんだろうと思った。ロードサイドの店舗という比較的短命な建築ゆえに許される面もあるのかもしれない。

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トイレは驚くほど青! 女子トイレは赤らしい。この思い切った色彩はOMAやMVRDVのようなダッチデザインに通じるものがある。

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家具も随所に「ビーンズ」オリジナルの意匠がみられた。洗練されてはいないが、見た目に楽しげな工夫がみられる。

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店を出て屋外の非常階段に登ってみる。蹴込のないスカスカ階段。

一回りして、それなりのコストの中で当初の意図通り実現する難しさ、厳しさを感じた。だが建築家がこの手の仕事にどんどんコミットしていけば、間違いなくロードサイドの風景は違ったものになるだろう。収益性と合理性だけで機械的に量産される郊外の店舗建築に一石を投じたことは、大いに意味がある。


「石川県庁舎」山下設計(2002)
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3棟の巨大なヴォリュームが立ち並ぶ比較的新しい県庁舎。エントランスにある3層吹抜けの巨大なアトリウムは、シルバー調のやや冷たい印象を覚えた。各種催し物が開催できる大きな空間が必要だったのだろうが、高級感が出過ぎないよう抑制の効いた意匠でまとめられている。

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19階は展望台となっていて、360度ぐるりと金沢の街を見晴らすことができる。
上から眺めると、海と山、それを繋ぐ陸地が緩やかに広がり、ほぼ中央に城下町が形成されている。展望台からはこうしたマクロな地形の特徴がわかった。

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展望台には庁舎の模型があった。立面は「山」の字の明快な構成。鳥瞰で見ても、やや権威的なきらいがある。
空いているスペースには住民による作品の展示がおこなわれており、公共に開かれた場として機能しているようだが、いわゆる「お役所」建築の域を出ない保守的なつくりであった。高層建築なので仕方ないのだろうが、もったいない気もした。

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車寄せにあるドライエリアはRのついたフラットバーを等間隔で並べるという凝った意匠。


「金沢海みらい図書館」シーラカンスK&H(2011)
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この旅行で「大拙館」の次に楽しみにしていた日本海の沿岸部につくられた図書館である。さすがに潮風からの塩害でアプローチにある溶融亜鉛メッキ製の支柱はまだらに変色していたが、過酷な環境にありながら外壁は竣工当時の白さを保ったままだった。
内部は西欧の図書館にあるような巨大な気積を有し、開放感と空間を共有する一体感を目指している。

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外壁はフッソ樹脂塗装の有孔パネルで、開口に合わせてジョイント位置をずらし、消防隊進入口もパネルの割付に合わせて設定している。こうした細やかな操作は、雑誌を眺めているだけではなかなかわからない。やはり建築は現物を見ることが一番勉強になる。

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3階は建築面積の1/4程度のフットプリントしかなく、吹抜けに面して読書スペースが設えられていた。宿題をやっている子供たちの姿も見られ、この辺りの子供たちは公共空間に恵まれているなと思った。

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3階の本棚は空間の白さ、透明感と呼応するように、クリヤーの側板が採用されている。

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防火シャッターは柱の前後で千鳥状に配置することで、柱材の見た目の軽さやシャープさを出していたり、付属する防火戸は書棚と高さが揃えられている。こういうところに高度な設計のセンスが感じられる。

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ベルマウス状の開口部。エッジの鋭さを出さないよう丁寧に仕上げられている。

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男子トイレは白を基調とした無駄のない意匠。

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1階から2階へと上がる螺旋階段は裏から見ると1枚の鉄板を曲げ、溶接して塗装されている。この建築で最もエロティックな部分だ。

「海みらい」は図書館の機能をヴォリュームに詰め込むだけでなく、より居心地の良い空間を目指して設計された。そのために設計者が求めたのは巨大な気積であり、その大空間に光を落とし込むドット状の開口部のディテールが描かれた。そこから2枚の板で断熱材をサンドする工法が提案され、空間にフィードバックしている。この空間の在り方から工法が提案されるプロセスは、はじめに通り芯ありきの設計手法とは180°アプローチが違う。実務者として学ぶべきことが多い。


「facing true south」中永勇司(2011)
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直訳すると「真南向き」という不思議な名前は、屋根に設けられた2つのハイサイドライトが真南を向いていることに由来する。このハイサイドライトは日射の解析により、真夏の直射日光が直接室内に入るのを防ぎ、また冬季の日射を取り入れることで温熱環境の向上に寄与しているそうだ。伝統的な工法により架構が組まれた複雑な屋根は、テクノロジーと伝統技術の融合を体現している。個人住宅のため、外観のみ見学した。


「大野からくり記念館」内井昭蔵(1996)
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この地で活躍した幕末のからくり師、大野弁吉の業績を紹介し、さまざまなからくり細工の展示を行う施設で、たまたま近くを通りかかったので外観のみ撮影した。斜めに渡された木の柱が入れ子状になって交差し、屋根とガラスのカーテンウォールを支えている。有機的な平面計画は設計者の奔放で貪欲な造形意欲が華開いていた。


「大野灯台」(1934)
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「日本の灯台50選」にも選ばれている地上高さ26.4mの灯台。普段は公開されていないので外観のみ見学した。灯台というと円筒形の平面が一般的だが、こちらは珍しい矩形。旅行サイトのレビューをみると「がっかりした」という意見が散見されたが、必然から生まれた寡黙なマッスと半円のガラス面をもつ純粋なモダニズムの結晶は十分鑑賞する価値があった。


「もろみ蔵」
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古い醤油蔵を改装したギャラリー兼カフェ。この地区には古くから醤油蔵が立ち並び、「醤油ソフトクリーム」なるものが人気とのことで食べてみた。香ばしくて美味。

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街並みを散策していて、ふと民家や商家の入口に垂壁があることに気づいた。他の地域や、同じ金沢でも観光客で賑わう江戸時代からの街並みが残る「ひがし茶屋街」などでは見られない意匠で、頭をぶつけそうなほど低い。何のためのものだろうか。


「石川県西田幾多郎記念哲学館」安藤忠雄(2002)
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哲学者西田幾多郎にを記念してつくられた日本唯一の哲学記念館。小高い丘の上に鎮座するヴォリュームと、その前面の緩やかな階段といった構成は「近つ飛鳥博物館」(1994)に似ているし、もったいぶったアプローチや屹立するEVシャフトなどは「淡路夢舞台」(1999)を思い出す。設計者名が伏せられたとしていても、紛れもなく安藤建築だとわかる。

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楕円形のプランターは100角のピンコロ石を器用に貼って仕上げていた。ガウディのグエル公園のタイルよりも職人の技術を要しそうだ。

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トップライトから降り注ぐ光がシンボリックな円形の空間を照らし出す。

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逆円錐形のコーンとそれを取り巻くようにオフセットされた逆円錐形の壁面の緊張感ある関係性。
安藤氏の建築はこれまでにもたくさん見てきたが、この二重コーンは特に施工が困難だったと思う。

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手摺に目をやると、驚いたことにトップレールを支持する柱が見当たらない。どうやら自立した強化ガラスを挟み込むような形でトップレールが載せられているようだ。「引き算の思想」がディテールのレベルで実践されている。

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展示室へはこの細長いスロープの空間を通ってアクセスする。

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壁面にスチールの厚いフラットバーが見えたので、なんだろうと思って引き出したら、展示室とホワイエのゲートだった。ここのホワイエと庭は夜間も解放しているので、時間帯によってこのゲートで区切るようだ。注意深く見なければ見落としてしまいそうなくらいさり気ない、しかし非常に緊張感のあるディテール。

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突如現れるヴォイド。ジェームズ・タレルや!(違

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安藤建築においては、コンセント類の変更は認められない。

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溶融亜鉛めっき鋼板でつくられた渋い案内板と、天井の高いトイレ。

ところでこの人なんでトイレばかり撮っているのかと思うかもしれないが、トイレは建築の中でもヒエラルキーの比較的低い部屋で、コストダウンの対象になりやすい。また雑誌に掲載されることもほとんどなく、そこまで意匠上重要視されることがないが、機能上欠かせないものである。ゆえにトイレのデザインには設計者の力量や配慮、哲学が如実に表れる部分でもある。安藤氏の美術館建築は便器すらアートに見えるような綺麗なレイアウトであり、特に感激したのは直島にある「地中美術館」(2004)の男子トイレで、これは紳士諸君は是非とも体験していただきたいし、淑女の皆様は男装してでも見ていただきたい(後は自己責任でお願いします)。

やはり世界的巨匠の作品と呼ぶのに相応しく、随所に学びのある建築だった。しかし、逃げの効かない割付けや対称・均等といった厳格な美学から構築されたデザインは、施工する側にも多大なプレッシャーと精度が要求される。これは2日目の「大拙館」で一層顕著にみられるのだが、そのコントロールも含め建築家(とそのスタッフ)の力量が試される。安藤氏の作品の中でこの「哲学館」が話題になることは少ないが、安藤建築のエッセンスが凝縮されている空間を十分楽しむことができた。

「かほく市立金津小学校」安藤忠雄(1993)
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「哲学館」から車で15分ほどの山の上に立つ小学校。この日は学校の行事のため内部の見学はできなかったが、木造の体育館を一周した。木造建築はほとんどわからないけれど、ダイナミックな架構は見る者を圧倒する強度をもっていた。


「金沢21世紀美術館」SANAA(2004)
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学生以来2度目の来訪。この美術館の出現によって金沢城付近の様相は一変、美術館の敷居はずっと低いものになった。プログラムの根底から見直されたデザインと、それを実現させる高度なエンジニアリングの結晶とも言うべき作品で、この日見てきたどの建築よりも抽象度が高く斬新だった。開館後10年以上経つが、入場者数は年々増加しているというから驚く。

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時間帯によって様相が変化する。

・零度の建築、あるいはメルクマール
この日は2つの展示を行っていた。円の中心部から襞状にニ分割されたような展示空間は、管理上2つのプログラムを分けつつ、両者の視線は交錯し、時には同じヴォイドを眺められるといった仕掛けがなされていた。一般的なホワイトキューブ+単一動線の美術館とは異なり、建築側の仕切壁は最小限度に留め、プログラムにより閾を適宜移し替えることによって展示規模や意図に沿わせた弾力的な運営が可能となる。この建築が画期的なのは、美術館というものを「美術品を納め順番に見せる大小の箱」から、展示のディレクションの可能性を無限に与える「透明な方眼紙」にしたことであろう。僕はロラン=バルトが「言語の自立性」と「社会的道具性」の中点に位置するカミュの文章を、文体の存在が消去された「零度のエクリチュール」と表現した例になぞらえ、建築家の存在を消去し(それでも純然たるSANAAの建築なのだけれど)、展示風景そのもののポテンシャルを引き出すことに成功した〈零度の建築〉と呼ぶことを試みる。この〈零度の建築〉は、車からスマートフォンへ、ハードからソフトへと移行するテクノロジーと同期した時代のメルクマールであり、ポストモダンの亡霊を薙ぎ払うには十分すぎるほどのインパクトを持って迎えられた。

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またディテールに目をやると、学生のときは気づかなかった抽象的な箱を演出するための工夫が随所に見られる。屋内消火栓やコインロッカーといった、どうしても用途上室内に出てきてしまう設備は、白塗装と同面納まりで存在感の消去に努めている。箱を抽象的に仕上げるためには、こうした地道な労力が必要なのだ。

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サインは具体的に、しかしそれ自体アートにも見えるよう丁寧にデザインされている。

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外壁サッシと結露受けの取合いは太めのシール。バックマリオンなしのこのガラスの高さにしては、どう考えてもガラスが薄すぎるように見える。上からハンガーで吊っているのだろうか。
考えてみると、この透明感を演出するのにはガラスは無色透明でかつ薄くなくてはならないし、バックマリオンはあってはならない。とするとガラスの自重は天井から吊るしかなくなる。言葉で表現するのは簡単だが、実際に図面を起こし施工するのは、やはり高度なエンジニアリングが不可欠だ。これを実現してしまうから、SANAAは凄い。

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すっかり辺りは暗くなり、人の気配も徐々に少なくなってきた。この金沢の地に降り立った宇宙船は、一層抽象度を上げて光を放つ。

僕らはSANAAの登場しなかった世界に戻れないし、最早SANAAを経由せずに現代建築の文脈を語ることはできなくなってしまった。そしてこの〈零度の建築〉を超えていくための言語を、エクリチュールを用意しなければならない。目の前の強靭なオブジェクトに意識が飛びそうになるのを堪えつつ、この日はホテルへと戻った。

(2日目に続く)

【編集中】金沢建築弾丸ツアー(2日目)

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(現在編集中です。しばらくお待ちください。)

[建築][小話]叛逆する平面―知られざる東京都慰霊堂

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東京都慰霊堂をご存じだろうか。

東京で暮らしていても縁遠い施設ゆえにその存在を認識している人はあまりいないんじゃないだろうか。かくいう僕もつい2、3年前まで所在すら知らなかった。
最寄り駅は総武線両国駅で、両国国技館や江戸東京博物館から少々北に歩いた公園の中にある。公園といっても聖域の類なので園内は落ち着きがあり、普段から散歩をしたり寛ぐ人々を見かける。

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慰霊堂の設計者は伊東忠太で、RC造平屋建の本堂は1930年(昭和5年)に竣工した。
もともとは1923年に発生した関東大震災の犠牲者を祀る「震災慰霊堂」として建設されたが、太平洋戦争での東京大空襲による身元不明の犠牲者を合祀するために戦後改名され、園内も現在の形に整備された。現在の平和な東京からは想像し得ない悲惨な歴史の証人である。

この慰霊堂のデザインをめぐって、少々興味深い逸話がある。

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当時の懸賞案募集広告

この慰霊堂の設計にあたって、当時、東京震災記念事業協会主催のデザインコンペが催された。
提示された一等賞金は3,000円、現在の物価に換算するとおおよそ350万円。国家的事業の名に恥じない優れたデザインを集めたかったからだろう、審査員には帝大教授を務める伊東も名を連ねていた。
その国家的デザインとして見事一等に選ばれたのは前田健二郎案で、中世西欧の城砦を髣髴とさせる胸壁を有した新古典主義風の基壇の上に、灯台のような灯火台を有する円筒を載せた、さながら「巨大な燭台」といった提案だった。

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一等 前田健二郎案

この前田健二郎なる青年は当時32歳、東京美術学校図案課(現在の東京藝大建築科)で岡田信一郎に学び、逓信省から第一銀行を経て独立したばかりの気鋭のエリート建築家であり、「コンペの鬼」と称されるほど数多くのコンペを勝ち取っていた。

ところがこの燭台に「モダンすぎる」とケチがついてしまう。
時は軍国主義にひた走る大正末期、愛知県庁や九段会館のような帝冠様式こそ国家的建築に相応しいと大真面目に語られた時代。西洋建築史ではナチスがモダニズムの最たるバウハウスを迫害し、古典主義建築を「偉大なるアーリア人の様式」と喧伝した時代である。この頃の日独伊は建築様式におけるナショナリズムが盛んに叫ばれていた。

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左:愛知県庁舎 右:九段会館

またコンペ募集時の趣旨では「大正十二年九月一日の大震火災を記念し併せて遭難者の霊を永久に追弔し将来を警告する記念建造物を建設し以って犠牲者の弔祭場となし又社会教化に利用し得るもの」とだけ書かれており「復興」の意味合いは希薄だったが、これでは辛気臭くてたまらないだろうと元々の設計趣旨にまで批判の矛先が及び、喧々諤々とした議論に発展してしまった。
ここで一旦抜いた刀を鞘を納めるために審査員の伊東が担ぎ出され、日本風の様式でなんとか頼むと懇願され、やむなく設計したのが現在の慰霊堂である。
竣工した照りむくりの唐破風をもつ純日本風・仏教建築風の慰霊堂を見て、前田案を否定したおエライさん達は「アァ、伊東センセイに頼んで正解だったナ」と胸を撫で下ろしたに違いない。


だが、そこで終わらないのが建築家伊東忠太である。


まず目につくのがそこかしこに出現する幻獣たち。伊東忠太が幾度となく登場させる幻獣軍団を散りばめ、厳粛で冷たくなりがちな鉄筋コンクリート造の慰霊堂の印象をユーモラスに溶かしている。
幻獣に注意を奪われつつ中に入ると、白亜の列柱に支えられた格天井をもつ巨大なホールが眼前に現れる。壁に穿たれた天窓から自然光が入る明るいホールの床は座敷ではなく石貼。畳の代わりに長椅子が置かれている。この構成、何かに似ていないだろうか。

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ちょっと雰囲気が教会に似てるなぁと思った方、鋭い。

そう、内部構成はカトリック教会に極めて良く似ているのだ。
伝統的に、日本の建築は格天井と天窓の取り合わせをしない。またこの手の広間は東洋では平入りが多く横軸に長手をとる形式が多いが、ここでは縦軸に長手をとるプランを採用し、わざわざ側廊や翼廊まで設けている。天窓はカトリック教会ではステンドグラスが嵌り、側廊には聖人の像や宗教画が置かれるものだが、ここでは震災の悲惨さを語る絵画がセオリーどおり納められている。
それを踏まえて平面図を見るとあら不思議、堂々としたラテン十字プランである。
和洋折衷とはいうが、ここまで隠喩としての西洋をブッ込んできた建築は恐らく空前絶後。

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1階平面図『伊東忠太建築作品』伊東忠太/城南書院,1941,p73

外観は仏教寺院かと見まがうばかりの立派な入母屋屋根で、舎利塔や狛犬も配されているが、実態は旧東京市の保有する無宗教の慰霊施設。そこに「純和風」という注文がつき、いよいよ出自が曖昧になった隙を突いて伊東の想像力はインドを通り越して遥か大西洋まですっ飛んでしまった。
そういった目でまじまじと外観を眺めていると、あざといまでの「日本風」の仮面で覆われた西洋という伊東の皮肉が浮き彫りになってくる。“隠れキリシタン”ではないが、当時のナショナリズムにうわべでは迎合しつつ、平面図で大々的に叛逆する。それもプランを見なければ、そしてまだまだ情報の少ない西洋建築を見慣れた者でなければ気づかないようなレベルでしたたかに実践する。

この大胆不敵さこそが伊東忠太という建築家の真骨頂なのだ。築地本願寺のように直球でインドと日本を合体させる例もあれば、迎合しつつ叛逆する東京都慰霊堂など手数は千変万化、それも多くは破綻無く解いている。まさに天才の所業。ウーン、と幻獣を睨み返しながら唸る。

東京都慰霊堂、知れば知るほど味わい深く興味の尽きない建築である。隣接する「東京都復興記念館」も伊東と佐野利器が手掛けているが、当時のコンペの提案などの資料も展示しており、さらには入場無料という太っ腹な施設のため、こちらも併せて見学することを強くお勧めしたい。

ただ強いて難点を挙げるならば、しんみりしてしまうのでデートにはちょっと不向きだということだ。

【編集中】金沢建築弾丸ツアー(2日目)

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